夢にやぶれ明日にやぶれ
・・・・
釈然としないまま、〈メゾン・天野サンクチュアリ〉八〇一号室に帰って来た。
鍵穴に鍵を差して違和感。既に開いている。施錠し忘れたのかと思いながら扉を開けると、制服の上からエプロンを着た女子高生が廊下に立って、俺を待ち構えていた。
「お帰りなさい、ダーリン。ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも珠田――はご遠慮ください! ダーリンとえっちしたら、血をぶちまけて死んじゃうのですよね?」
「誰だよきみ」
と云いつつ、見覚えはある。以前、花天月高校の屋上へ出る扉の前で見張り役をしていた女子だ。頭の天辺で髪をお団子にして、黒ぶちの眼鏡を掛けている。
「ダーリンの新妻ですよ。旧姓、珠田ヒカガミと申します」
「馬鹿云うな。子供と結婚なんてしねえよ」
「珠田は立派な高校三年生、十八歳ですけどね」
両手で眼鏡の丁番を摘まむ。地味な外見のくせに、爪には派手なネイルをしている。
「出て行け。そもそもどうやって這入った」
「新妻ですもの。合鍵くらい持ってますよ」
「ストーカーじゃねえか」
「酷い! そんなに云うなら、これを見てください」
珠田は居間へ引っ込んでいくと、一枚の用紙を掲げて戻ってきた。
「ダーリンと珠田の婚姻届受理証明書です」
なんだと? 奪い取って目を走らせる。
俺の字だ。俺の印鑑だ。いつの間にか結婚している。
「……そうか、俺の不在中に押し入った強盗はお前だな?」
部屋を散々荒らして、印鑑と書類をいくつか持って行ったとの話だった。書類は俺の文字が書かれたサンプルとして使われたのだろう。筆跡をコピーされたのだ。
「やだなあ。珠田じゃないですよ。七五三殺人ゲームのとき既にダーリンと接触している珠田には、参加資格がありませんもの」
「参加資格? 何の話だ」
「次代の聖JKの座を争うレースです。それとも先代ですかね?」
「聖JKってのはあまねのことだろ。もう代替わりか」
「それが、参加資格のない珠田は詳しいことを教えてもらっていないのですよ。この結婚にしても、釘バットで脅されて婚姻届に署名させられたのです」
「あまねに脅されたってことか?」
「違いますよ。鴉面を被ってましたけど、聖JK候補者の誰かでしょうね」
「……全然分からないが、新たな事件が開始されたことは理解したよ」
であれば、珠田も何か役割を持たされて、此処にいるのだろう。
俺はこの奇妙な状況を一旦受け入れることにして、居間に這入った。居間はきれいに片付けられていた。
「あっ、先にご飯ですか? ちょっとお待ちくださいね!」
珠田はキッチンに駆け込むと、夕飯をお盆に乗せて居間に運んできた。
「無理やり結婚させられたにしては、随分と乗り気だな」
「小さいころから、お嫁さんになって男の人に尽くすのが憧れでしたので。経緯はどうあれ、念願が叶って嬉しいのですよ」
テーブルの上にお盆が置かれた。おかずはピーマンの肉詰めで、自前のソースまでつくってある。漬物とみそ汁もついていて、なかなか立派な夕飯だ。
「お召し上がりください、ダーリン」
「こっ恥ずかしいから、その呼び方はやめろ」
「ダーリンも珠田みたく、もっと物事を前向きに捉えたらどうですか?」
珠田はテーブルを挟んだ正面に正座した。
「昏木さんとのことは聞きました。だけど落ち込むだけ損ではありませんか。昏木さんは死んで、ダーリンは生きていくのです。心配しないでください。これからは全部、良い方に向かっていきますよ。珠田との新婚生活を楽しみましょう!」
普通なら、怒るべきところなのかも知れない。
だが怒る気持ちは湧かなかった。
結局は自分の心の整理でしかないと、分かっている。
俺は手を合わせた。
「いただきます」
我流の花嫁修業を積んできたという珠田の料理は美味しかった。食後には灰皿を差し出して食器を下げ、風呂の追い炊きをする細かな気配りを見せた。脱衣所には寝間着やタオルが用意されており、風呂上がりにはミネラルウォーターを注いだコップまで渡してくるという抜かりのなさだった。
「お休みになるなら、寝室に行ってはどうですか?」
食器洗いを終えた彼女はエプロンを脱いで、ソファーに寝転がっている俺に云った。
「あそこは寝室じゃないよ。俺の寝台はこれ」
「ちゃんとベッドで寝ないと、身体を痛くしますよ?」
「別にいいよ。身体なんてどうでも」
「もう。仕方ありませんねえ……」
珠田は身を屈めると、俺の頬に口づけした。
「例の感染症については、間もなくワクチンが開発されるそうですよ。珠田ともすぐ、一緒に寝られるようになりますからね」
「なに云ってんだ。そんな気ないぞ」
「では、その気にさせて差し上げます」
悪戯っぽく笑う珠田に、不覚にもドキリとした。
「お休みなさいませ、ダーリン」
彼女は小さくお辞儀すると居間を出て行き、電気を消した。
暗闇の中で、俺は口づけされた頬に軽く触れた。
単純ながら、こんな生活も良いのかも知れないと思い始めていた。
・・・・
由莉亜は最期、俺に生きてと云った。夢を諦めないでと云った。
おそらく彼女は、部屋に戻ってきた俺を見て、真相を悟ったのだ。
しかし、夢とは何のことだろう?
プロの小説家になることか?
死の前日にも、彼女とそんな会話をした憶えがある……
「来須さんが小説を書いていた話、聞きたい」
「聞いても面白い話じゃないよ」
「いいから、聞きたい。いつから書いてたの」
「はじめて書いたのが……十三歳のときだったな」
「どのくらい書いた?」
「二十二歳で就職したから、十年間くらい書いてたことになる」
「数はどのくらい?」
「三十は越えてるよ。長編だけでも」
「すごいね。そんなに書けるものなの」
「まあ……小説は俺のすべてだったからな。馬鹿みたいだけど、小説のことを考えてないときがなかった。全部を小説に還元しようとして、生活してたって云うか……」
「それで、賞に応募していたんだよね」
「ああ。必ずプロの小説家になるって、はじめは純粋な憧れだったんだけどね。落選するたびにその気持ちが強まって、気が付いたら執念になっていたよ」
「それでも受賞できないなんて……すごく、厳しい世界なんだね」
「単純に、俺に才能みたいなものがなかったんじゃないかな。毎回毎回、そのときに持てる力を全部注ぎ込んでいたんだけどね。本当に一作もないんだよ、手を抜いたものは」
「つらかった?」
「そうだね。身を削って、傑作と信じて書き上げた小説が、ゴミクズみたく捨てられるわけだ。何度も何度も、繰り返し繰り返し。あれでおかしくならないはずがないよな」
「それで、お仕事を始めてからは書かなくなったの?」
「はじめのうちは書いていたんだよ、社会人になっても。だけど仕事が忙しくなるにつれて、それを云い訳にして、書かないことが増えていった感じだね」
「書くのが嫌になっちゃったの?」
「そりゃあ、つらい毎日の中で、さらにつらいことを重ねようとは思えないよ」
「だけど、もったいないよ。ずっと続けてきたのに……」
「どうかな。俺が書く小説なんて、どうせ何にもならないんだし。辞めたって誰も困らないからね。むしろ俺は楽になれたよ。何と云うか、分不相応な重荷だったんだ」
「でも……」
「明日には死ぬんだ。今更、どうだっていいことだよ」
……この話題は、それで打ち切った。
とっくにズタボロになって捨てた夢。
由莉亜の目には、俺に未練があるように映ったというのだろうか?
しかし……俺の気持ちは変わらない。
俺は若かった。自分は何かを成し遂げられるだなんて思い上がっていた。
そのせいで随分と長い間、無駄なことに情熱を捧げてしまった。
もう二度と小説なんて書かない。あんなことは、やめにしたのだ……。




