溢れんばかりの愛の果て
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軋目常逸とかいう生徒が犯人かも知れないと伝えたところ、澄神は迅速に動いた。こもるに電話で訊いたところ、軋目は今日は学校を休んでいるらしい。だから軋目の住所を調べて向かうことにした。
〈ホテル・パの淵〉の前で、澄神の専属タクシーに乗り込む。
「おや、来須くん、首を怪我したのですか?」
後部座席にふんぞり返り、ルービックキューブで遊んでいる澄神に指差された。
今朝の襲撃のことを話すと、探偵は「あっはっは」と快活に笑った。
「Never grieve for that you cannot help.――ですよ、来須くん」
「どういう意味だよ」
「仕方のないことを悲嘆するな」
「……此処で手首を切ってお前に血を飲ませることだってできるんだぞ」
「やめておきなさい。私の運転手と用心棒を兼ねている伊勢は、暗殺を生業としてきた一族の末裔です。残り三日の寿命をさらに縮めることないでしょう?」
六面揃ったルービックキューブが俺の膝に置かれる。ぶん殴りたい。
だが、こいつには事件を解決してもらう必要がある。由莉亜は原因でなく、別に犯人がいたという事実を明るみにすること。まさか騙すのでなく、それが真の真相になるとは。
俺は死ぬけれど、由莉亜を救うことはできそうだ。自己満足に過ぎずとも……。
「煙草、吸っていいか」
「どうぞ。伊勢、窓を少し開けなさい」
何てことのない街の景色が流れていくのを、感慨もなく眺めた。大通りを走っていた車は、やがて込み入った住宅街の中を走るようになり、そして停車した。
軋目常逸の家は、古い一戸建てだった。日当たりが悪いうえ、どの窓もカーテンが閉め切られていて、陰気な佇まいだ。
澄神がインターホンを押しても、住人の反応はない。車庫には車があるのだが。
「見なさい、来須くん。郵送物がポストから溢れています」
「しばらく家を空けているってことか? それか単なる物臭か」
「どちらでもないとしたら、どうでしょう。――伊勢、お前の出番ですよ」
呼ばれた伊勢がタクシーを降りた。立っている姿を初めて見たけれど、かなりの巨漢だ。
彼は勝手に門を開けて敷地内に足を踏み入れると、生い茂った雑草をかき分けて庭を進み、窓の前に立つ。何をする気なのか分かった。
「呆れた奴らだな。いつもやってるのか?」
「Need has no law.――解決がそれを要求したなら、ですね」
伊勢は窓の一部にガムテープを貼って裏拳で叩く。ガムテープを剥がすとガラスが割れている。そこから中に手を突っ込んでクレセント錠を開け、続いて窓を開けると邸内に乗り込む。一分も経たないうちに、玄関の扉が内側から開けられた。
「どうぞ、澄神様」
「ご苦労。あとは車で待っていなさい」
伊勢と入れ替わりに、澄神と俺が邸内へ。照明が点いていないと、昼間とは思えないほどに暗い。だがそれよりも気になるのは、酷く生臭い空気が充満していることだ。
「これは、誰か死んでいますね」
土足のまま廊下を少し進み、右手の扉を這入ると居間だった。伊勢が侵入に使った窓がある。ゴミ袋や衣類が床やソファーの上に散乱していて、住人のだらしない性格が窺える。
そんな中、異臭の原因はすぐに目に留まった。
ダイニングテーブルの下――ネグリジェを着た血まみれの女が、仰向けで倒れている。
水分を失い皺だらけになった土色の顔面は、明らかに生者のそれではない。薄く開いた瞼から覗くカラカラの眼球が丁度、俺達の方を向いている。
「軋目常逸の母親でしょう。一昨年に離婚し、この家には彼女と常逸くんの二人で暮らしていたとのことです。どうやら、異変は食事中に起きたようですね」
澄神は手に取ったパイプで死体周辺を指し示す。卓上にも周りの床にも大量の血痕のほか、割れた皿とピラフが散らばり、椅子がひっくり返っている。
「外傷は見当たりません。おそらくはクラキ・クラミジアですね」
「ビンゴだな。軋目は母親のことも手に掛けたってことか」
「あるいは彼女が死んだことで、常逸くんの犯行が始まったのかも知れません。この死体は死後、一週間以上は経過しているでしょう」
なるほど。軋目が死んだ母親の血液を使用しているのだとしたら、これが今、俺の体内を巡っていることになる。そう思うと、吐き気が込み上げてきた。
「お前、このにおいでよく平然としていられるな……」
俺はハンカチで鼻と口を覆っているが、それでも気休めにしかならない。しかしこの探偵は涼しげな顔で呼吸して喋っている。鼻が詰まっているのだろうか。
「探偵にとって、この程度は慣れ親しんだフレグランスですよ」
「何がフレグランスだ。俺は先に出ているからな……」
半ば逃げ出すようにタクシーまで戻り外の空気を吸ったが、嫌なにおいは鼻腔の奥にこびり付きでもしたみたいに消えない。吐き気を抑えるよう、注意して呼吸を続ける。
澄神の方はその後も邸内を調べて回ったらしく、出て来たのは十分後だった。
「常逸くんはいませんでした」
そりゃあ、この環境で生活を続けているわけがないだろう。
「昨日まで登校していたことは確認できています。しかし家の中には彼の制服や学生鞄もありません。別の場所で寝泊まりしているのでしょうね」
「面倒なことになったな……」
「そうでもありませんよ。自宅でないなら、有力な候補はひとつとなります」
話し続けながら、澄神はタクシーに乗り込んでいく。
「犯人は来須くんが由莉亜さんの部屋に暮らしていると知って、狙ったのだと思われます。他にも、日曜に死亡した押井戸謙吾は携帯に残っていた映像から由莉亜さんとの援交を確認できましたが、同級生らにはそれを知られていなかったのですよ」
「隠してたってことか? まあ普通はそうするか。自慢する奴らが馬鹿なだけで」
「しかし犯人はこれも知っていました。情報源は噂話だけではない。彼は由莉亜さんの部屋に出入りする人間を把握するため、監視しているのですよ。私と同じようにね」
そして新たな行き先が告げられた。
「伊勢、ただちに〈ホテル・パの淵〉へ戻りなさい」
・・・・
〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉の斜め向かいに位置する〈ホテル・パの淵〉。俺と伊勢がフロントのソファーで待たされている間、澄神は支配人らしき人物と何やら交渉して、数分後にはカードキーを片手に俺達へ手招きした。
「十一月四日からずっと、一二〇九号室に宿泊している男性客がいます。峯塚則介、二十歳とのことですが、嘘でしょうね。由莉亜さんの部屋を監視できる部屋は角度から限られますが、ここなら問題ありません。なにせ私の部屋のひとつ下ですから」
つまり澄神はそうと気付かず犯人の真上で寝ていた間抜けということか。
澄神と伊勢と俺の三人はエレベーターで十二階に上がり、一二〇九号室――最も〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉寄りのその部屋まで廊下を進むと、澄神が入手したカードキーで開錠した。澄神の指示でついて来た伊勢が、扉を開けて先陣を切る。
「は――ちょっと、何ですか!」
当然ながら、突然現れた巨漢に驚いたらしい男子の声。
「部屋まちがえ――ええっ?」
細い通路を抜けてベッドルームに這入ったところで伊勢が横に退いたため、澄神と俺も、ベッドの上で目を丸くしている男子と対面できた。
背が低く、色白で、一見してスポーツはしていないと分かる身体付き。長い前髪が目に刺さっている。着ているのは今朝に俺を襲った奴と同じ黒いパーカーだ。
「軋目常逸ですね? 私は私立探偵のジェントル澄神。さあ、真実のお時間です」
軋目は口を開けたまま、言葉を発さない。詰みだと悟ったのか、そうでない可能性を必死で絞り出そうとしているのか、それとも頭が真っ白になっているのか。
「伊勢」と澄神に呼ばれると、巨漢が素早く動いた。
「うわっ! よしてくれよ暴力は!」
軋目は伊勢に握られた両手を高く掲げられて、ベッドに膝はついているものの、吊り下げられているような格好になった。既に涙目だし、身体が震えている。
「クラキ・クラミジア事件――昏木由莉亜を保有宿主とする新種の感染症を演出し、花天月高校の生徒を次々と殺害していたのはきみですね?」
「し、知らないよ。あんた達……出て行かないと、警察を呼ぶぞ」
「私の犬をですか? あっはっは。きみが噛まれるだけですよ」
壁に凭れ掛かり、パイプに詰めた葉に火を点ける澄神。
「来須くん、何か面白い物がないか、探してもらえますか?」
どうして俺が……と思ったが、一応こいつの助手ということになっているのだった。
まず探すまでもなく、窓際に立てられたスタンド付きのビデオカメラが、カーテンの隙間から〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉の方向を向いている。床の上に開かれているキャリーケースには皺くちゃの衣類が積まれていて、周りにコンビニ弁当やペットボトルのゴミが散らばっている。実家があれだったから、此処で整理整頓できる理由がないだろう。
面白いかは別として、目当てのものはすみの方に置かれたリュックサックの中にあった。
小分けのビニールケースに入れられた注射器が三十本以上。内容物はすべて血液だ。
「これがウイルスを含む血だな? 今朝、俺の首にもぶっ刺しただろ」
一袋を手に取って眼前に突き出してやったが、軋目はぶんぶんと首を横に振る。
「お前の目的は由莉亜を独り占めすることだった。クラキ・クラミジアの噂が広まれば、誰も由莉亜に近づかなくなるはずだった。なのに俺がずっと由莉亜と一緒にいるもんだから、焦って直接の襲撃に打って出たわけだ。母親の死はいつまでも隠せないからな」
「何の話をしているのか、分からないなあ!」
軋目は破顔した。徹底的に白を切ると決めたようだ。
「採血が日課なんだよ。ある程度ためたら医療機関に出して、健康状態を調べてもらうんだ。自分が好調なのか不調なのか知っておくと、人生はとても生きやすくなるからね!」
「ふむ。顔色が悪いのは血が足りていないせいですか」
澄神が俺からビニールケースを奪った。中から注射器を取り出すと、
「いくらか戻してあげましょう」
そう云ってキャップを外し、軋目の手首に針を刺した。押子を親指で押し込み、中の血液が軋目の体内へ入っていく。軋目は呆然として澄神を見上げている。
「あんた、何してんの……?」
「何か問題が? きみ自身の血液なのでしょう?」
「う、うう――ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ!」
軋目は発狂した。だが長くは続かなかった。伊勢がその頭を掴んでひねると、全身の力が抜けて声も止んだ。気絶させられたようだ。
「さて、警察に来てもらいましょうか。来須くん、きみはどうしますか?」
「……帰るよ。後のことは任せた」
伊勢に手を離されて、ベッドの上で伸びている軋目常逸。こんな奴のせいで俺が死ぬことになるなんて。目の前にすると落胆の方が勝って、いまいち怒る気もしなかった。
「由莉亜は無実だったことが、ちゃんと公けになるようにしろよ」
「いいでしょう。Like for like.――よく働いてくれた助手の頼みですからね」
最後まで腹立つ奴だったけれど、俺は「ありがとう」と云って去った。




