牙を隠して嗤う吸血鬼
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次の澄神からの連絡は、翌日の午前十一時過ぎにきた。もちろん俺は仕事中だったので、フロアから出て廊下のすみの方まで行って応答する。
『やあ来須くん、エビングハウスの忘却曲線をご存知ですか?』
「……暇つぶしに電話されるほど気安い関係になったつもりはないぞ」
『あの曲線が忘却率を表すものと誤解している人が多いですが、正しくは節約率です』
「もう切っていいか」
『まあ聞きなさい。しかしながら時間の経過により記憶が曖昧になっていくのは確かですよ。聞き込みとはスピード勝負なのです』
「回りくどいな。本題は何なんだよ」
『至急、花天月高校に来てください。一年生の生徒が新たにひとり、死亡しました』
「仕事を抜けられるわけないだろ」
『正門で待っていますよ。では後ほど』
無視しようと思った。が、この探偵を欺くには一定の信頼を得ることが必須条件である。
結局、打合せに行くと云って会社を出た。三十分後には花天月高校の正門に着いていた。
澄神は柱に寄り掛かり、パイプをふかしながら待っていた。「ご苦労」と云わんばかりに微笑まれる。爽やかに気取っているものの、やっていることは不遜極まりない。
「この貸しは大きいからな」
「随分な挨拶ですね。さて、時間は無駄にできません。聞き込みを始めましょう。教員達が今後の対応について話し合っているため、生徒達は教室で待機中です」
堂々と校舎ビルへ這入って行く澄神。入口に立っていた警備員は俺達を咎めるどころか、頭を下げて通した。澄神は事前に色々と根回ししておいたのだと云う。
こいつがなぜそんな力を持っているのか、いまいち得心できないが、ともあれエレベーターで一年生の教室が並ぶ十五階へ上がる途中、彼が掴んでいる情報は俺にも連携された。
「死亡したのはベロニカ組の于綾桃です。二時間目の授業中に突然立ち上がり、廊下へ駆け出したところで血を噴き出して死にました」
梅郷萬、芝尾柳生、幹原慈央、枷勘次、湯浦麻織、押井戸謙吾、そして宇綾桃。死亡者はこれで七人だ。他にも既に感染し、死への秒読みに入っている者がいるかも知れない。
十五階に到着して、エレベーターを降りる。廊下は無人だが、各教室から生徒達の話し声が漏れている。
どういうわけか、澄神が向かったのはベロニカ組ではなく、ルピナス組だった。扉を開けると、たちまち歓声が巻き起こった。
「わ、ジェントル澄神!」「ジェントル澄神?」「ええーっ!」「なんでいるの!」「どうして?」「えっ、本物?」「澄神さんじゃん!」「すごい!」「ジェントル澄神だ!」「なんでなんで!」「大事件だ!」「ジェントル澄神!」「ジェントル澄神が来たぞ!」「うおー!」
その人気ぶりも異様だが、教室の中を覗き込んだ俺は、他のことに目を奪われた。
生徒達の多くが、背中に黒いプラスチック製の板を切ってつくった羽をつけている。
つけているのは全員が女子生徒で、男子はつけている者がいないともすぐに気付く。
俺が思い出したのは、あまねから聞いた話だ。プラスチックの黒い羽をつけた女子高生達が屋上から一斉に飛び降りたとか何とか、あいつは話していなかったか?
「みなさん、お静かに願います。真実は静寂の中に見出される。久万谷柚子はいますか?」
一同の視線が、窓際の席に頬杖をついて座っている生徒へ集中した。襟足を刈り上げて眉毛も短く剃っている、ボーイッシュな印象の女子だ。俺は初めて聞く名前だが……。
「あたしに何か用?」
「お話を伺いたいのですよ。ついて来てください」
柚子はかったるそうに立ち上がる。周囲がひそひそと話し始める。
「うわ、名探偵からご指名」「久万谷、何かしたの?」「誰か殺した?」「あれだろ、血い噴き出して死んでるやつ……」「それは昏木由莉亜のせいじゃん」
すると、こちらに歩いてくる柚子が黒板をぶっ叩いた。
「お前ら、黙っていられないのかよ!」
水を打ったように静まり返るルピナス組。廊下に出た彼女が扉を閉めると、澄神は別段気まずそうでもなく、「こちらへ」と云って歩き出した。
澄神についていく道中、俺は柚子に訊ねてみた。
「その羽は何なんだ。文化祭の出し物の準備とか?」
彼女の背中にも、それはある。ブレザーにビニールテープで貼り付けられている。
「文化祭なんか終わったよ、十月に」
睨まれた。見た目どおり、ささくれ立った奴らしい。
「堕ちることが昇ることになる。それがこの羽の意味。まあこれで、あたしは羽をつける資格を失ったわけだけど」
「……もしかして、雫音あまねの教えか?」
「あまねちゃんに訊いたらいいだろ。あんた、叔父さんだよな?」
「あまねは死んだ。知ってるだろ」
「まだ死んでないよ。復活してるからね」
こう見えて生粋のあまね信者なのだろう。頓珍漢な言葉ばっかり吐く。
「さあ此処です。お這入りください」
澄神がそう促したのは、無人の教室だった。使われず余っているのか、カーテンは閉め切られ、並べられた机の上にはうっすらと埃が積もっている。
各々が適当な椅子に座って、聞き込みが始まった。
「改めまして、私立探偵のジェントル澄神です。貴女は久万谷柚子ですね?」
「そうだけど?」
「貴女と于綾桃は中学時代からの親友と聞きました。しっかり者の貴女は、よく桃さんの面倒を見ていた。クラスは別ですが、いまでもそれは変わりませんね?」
「当然だろ。桃は不器用で、誤解されやすい。あたしが助けてやらないと……」
その表情に影が差した。いまとなってはすべて過去のことだと気付いたのか。
「なら、桃さんが複数人の男子と肉体関係を持っていたのも知ってい――」
「桃をアバズレみたく云うのはやめろ」
その反応は素早く、澄神の言葉に被せられた。
「桃は不器用だった。ただ芝尾のことが好きなだけだったんだよ、あの子は」
「詳しく教えてもらえますか? Dead men tell no tales.――桃さんについて弁明できるのは貴女だけですからね」
「昏木由莉亜のせいだ。あの女さえいなければ、こんなことにはならなかった」
その後、柚子が語った内容はこうだ。
芝尾は由莉亜を買った翌日――十二月一日の火曜日、登校すると周囲の者達にそれを自慢した。それを聞いた桃は、自分を抱くように芝尾に迫った。二人はそういう関係ではなかったが、桃は芝尾が由莉亜に夢中になることを恐れ、半ば衝動的に行動したようだ。放課後、二人はホテルに行った。
後日、桃から報告を受けた柚子は、彼女を叱った。芝尾との関係に満足していた彼女は真面目に取り合わなかったそうだが、柚子が予想したとおり、事態は悪化していく。
芝尾は桃のことを都合の良い玩具としか思わなかったのだろう。彼は友人の三芳ワタルを誘って、今度は二人で桃と性交渉することにした。十二月四日の金曜日、桃は芝尾の役に立つために、それを受け入れた。
柚子は桃が利用されているだけだと訴えたが、桃は否定した。自分が好きでやっているのだから介入しないで欲しいというのが、彼女の主張だった。柚子は頭を抱えた。
そして十日の木曜日、芝尾と幹原の死によって、クラキ・クラミジアの噂が流れ始める。芝尾の死それ自体も桃を絶望させたが、より深刻なのは芝尾と関係を持った自分もいつ血を噴き出して死ぬか分からないということだった。
桃は半狂乱で、土日の間、柚子がずっと慰め続けていた。結局のところ、桃の味方は柚子だけだった。クラキ・クラミジアなんて偶然が生んだ噂に過ぎない、きっと大丈夫、柚子は桃にそう云い聞かせ続けた。
その甲斐あって桃は今日、登校できる程度には落ち着いていた。しかしそれは、その凄惨な死に様を衆目にさらす結果にしかならなかった。
「なあ澄神さん、早く昏木由莉亜に裁きを受けさせろよ。一部の薄汚い男達に持て囃されて調子に乗って、あんな糞ビッチが生きてていいわけがないからな」
いつしか、その目の奥には偏執狂じみた火が灯っていた。
「あたしらみたく真っ当に生きている人間の生活によ、あの手の汚物が入り込んできたら困るんだよ。下水と同じで、目に触れないところで処理しておいてもらわないと――」
「分かりました、分かりましたよ。まあ落ち着いて」
澄神が手を鳴らした。柚子は小さく舌打ちをして、席を立った。
「あたしが話せることは以上だよ。とにかく桃は、被害者なんだ」
「もうひとつ頼まれてくれますか? 三芳ワタルに、此処へ来るようお伝えください」
「なんであたしが……」
溜息を吐いて教室を出て行く柚子の背中に、澄神はさらに言葉を続けた。
「ところで貴女の恋人――矢来景太郎ですが、最近、性交渉はしましたか?」
扉に手を掛けた状態で、足を止める柚子。振り向いた顔には、動揺が表れている。
「関係ないだろ、そんな話」
「桃さんは貴女の知らないところで、景太郎くんとも肉体関係を持っていたようです。貴女も危ないのではないかと思いまして」
「そんなはずない! あり得ない!」
「そうですか? なら忘れてください。貴女の話では、桃さんは食われた側で、食う側ではなかったそうですからねえ。景太郎くんを問い質す必要はないのかも知れません」
乱暴な音を立てて扉を開けると、柚子は出て行った。「ちゃんとワタルくんを呼んでくださいよー」と念押しする澄神。それから可笑しそうに笑った。
「……お前、どこまで知ってるんだ?」
「こもるさんは一生懸命、情報を集めてくれています。于綾桃まわりの爛れた話については昨日、電話で報告を受けていました。今日のは予想されていた死です」
懐からパイプを取り出すと、澄神は悪びれもせず着火した。
「もっとも、最後のはブラフですがね。于綾桃と矢来景太郎の関係なぞ知りません」
「そのブラフに何の意味がある」
「ただの趣味ですよ。来須くんも溜飲が下がったのではないですか?」
「くだらない。こもるから聞いた情報の単なる確認作業なら、俺はもう帰るぞ」
「次の三芳ワタルは面白そうですよ。会ってみて損はないでしょう」
その三芳は一分も経たずにやって来た。
短髪で、両耳にピアス。鼻までは覆わずに、口元だけ隠している黒マスク。眠そうな目。両手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
不真面目そうな格好だが、教室でパイプをふかしている探偵に対して「禁煙ですよ」と常識的な言葉を発した。
「三芳ワタルですね? 探偵の行いはこの世のすべての法に優先されるのですよ。今後恥をかくことがないよう覚えておきなさい」
こんなことを云われたら俺なら引き返すが、三芳は椅子に座った。
「それで、俺に話って何ですか」
「落ち着いていますね。柳生くんと桃さんが亡くなり、一緒に楽しんだ貴方も危ないのではないですか?」
「困るんですよねえ、それ。金曜に桃たちが騒いだせいで、話が結構広まっちゃってて」
後頭部に片手をあてて、首を回す三芳。
「でも死ぬ心配はしてないですね。俺はホテルには行きましたけど、見てただけなんで」
「どうしてですか?」
「なんか萎えたんですよ。ヤッてないんですから、感染しようがありません」
「来須くん、携帯のカメラでいいので、彼の写真を撮ってください」
その突然の指示に、俺よりも先に三芳が反応した。
「写真は勘弁してください!」
腰を浮かせて、急に警戒心むき出しだ。それを澄神がパイプで指し示す。
「聞いていますよ。貴方は写真に撮られることを極端に嫌うそうですね。それから鏡。柳生くん達と這入ったラブホテルの部屋は、天井が鏡になっていたのではないですか? だから貴方は参加せず、端から見ているしかなかった」
「……さすがですね。まあ、俺の写真と鏡嫌いは有名ですけど」
「それから日光。いつも日傘を差して登下校しているのでしょう? おそらくは十字架やニンニクも苦手ですね?」
「おい、何だよそれ」
俺は思わず口を挟んでいた。
「まるで吸血鬼じゃないか」
吸血鬼は鏡に映らず、写真に写らない。さらに日光、十字架、ニンニクを苦手とする。
馬鹿みたいな話だ。しかし澄神は、自信たっぷりに頷いた。
「先月、三人の女子高生の血を抜いて殺害した吸血鬼は、ワタルくんではないですか?」
「クックックッ……クックックックッ……」
三芳は俯くと、笑い出した。笑いながら、ゆらりと立ち上がった。
「まいったなァ。初めてですよ、こういう傑作は……」
否定するのかと思ったが、違った。彼は顔を上げると、右手の指をマスクに掛けた。
「たしかに俺は吸血鬼です。これを下ろしたら牙が見えちまいます」
急に好戦的になった目で、真っすぐに澄神を睨む三芳。
正気かこいつ。冗談で乗っているだけか?
「でも〈吸血鬼の徘徊〉は無関係ですよ。俺は吸血衝動を抑えられる。疑うのは自由ですが、証拠がなくちゃあ捕まえられないでしょ? クックックッ……」
「捕まえるつもりなぞありませんよ。〈吸血鬼の徘徊〉について、私は何の依頼も受けていませんからね。きみと話しているのは、ただの好奇心です」
「なら詮索しない方が身のためですよ。吸血鬼を無暗に刺激したら――まァ、男は趣味じゃないですけど、これでも俺は人間としての生活を気に入っているんでね」
「なるほど、十一月の十日、二十日、三十日と、十日おきに続いていた事件が十二月になって途絶えた理由はそれですか? これ以上はまずいと尻込みしたわけだ」
「アンタ、忠告きかないなァ……笑えなくなっちまいましたよ」
マスクがゆっくりと下ろされていく――そのとき、廊下から複数人の話し声が聞こえてきた。どうやら話し合いを終えた教師陣が戻って来たようだ。
澄神が「タイムアップですか」と肩をすくめる。
「ハッ……命拾いしたのはアンタの方ですよ、探偵サン」
三芳はマスクを引き上げると指を離した。だるそうに首を回して、踵を返す。
「じゃ、俺は戻らせてもらいますよ。もう絡んでこないでくださいね」
三芳が出て行くと、澄神も立ち上がった。何事もなかったみたく「私達も立ち去ることにしましょう」なんて云ってくる。俺はとんだ肩透かしを食らった気分になった。
「いまの……あの三芳って奴は何だったんだ」
「吸血鬼ですよ。本人が認めたでしょう?」
「馬鹿馬鹿しい……」
澄神に続いて廊下に出る。結局、クラキ・クラミジア事件の方には大した収穫があったように思えない。仕事を抜けて駆け付けたこともあって、酷い徒労感だ。
エレベーターを待っていると、教室の方が急に騒がしくなった。
見れば、ベロニカ組の教室から生徒達がばたばたと廊下に出てくる。
「どうしましたー?」と問い掛ける澄神に、生徒のひとりが答えた。
「三芳くんが! いきなり血を噴き出して倒れたんです! 宇綾さんと同じです!」
なんだって? つい先ほどまで、あんなにふてぶてしく振舞っていたのに?
芝尾と宇綾の行為を見ていただけなので感染していない――のではなかったのか?
耳を劈くような悲鳴と怒声が廊下にこだまする。誰かが泣き叫ぶ声がする。
「吸血鬼も性感染症には勝てなかった。いやはや、情けない話です」
澄神は呟いて、開いたエレベーターに乗り込んでいく。
「おい、見に行かなくていいのか?」
「見たところで得るものはありませんよ」
澄神は急に興醒めしたかのような調子だ。どうしたんだ? 別に俺とて、三芳の死体を確認する必要なんてないが……混乱しながら、しかし俺も、エレベーターに乗り込む。
「〈吸血鬼の徘徊〉の方はこれで終幕ですかね」
振り返ると、ゆっくりと閉まるドアが、阿鼻叫喚のベロニカ組を視界から締め出した。




