薔薇に付けるその名は
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クラキ・クラミジア事件にケリがつくまでの間、俺は由莉亜の部屋で寝泊まりすることになった。無論、用心のためだ。彼女には改めて、いまが危険な状況だということを伝えた。登校含め、一切の外出を控えなくてはならない。食料品の買い出しも俺が担う。
本当なら、由莉亜を俺の部屋に泊まらせる方が匿うには合理的だろう。しかしそれには俺が耐えられない。必要な荷物を取ってくるために一旦帰宅したが、案の定、あまねが突っかかってきた。
「あれえ来須さん、荷物なんかまとめてどうしたの?」
「出張だ。しばらく空けるが、達者でやれよ」
「あははっ、嘘。由莉亜ちゃんのところに行くんでしょ?」
俺が創り出している〈幻覚〉なので、俺自身は隠し事ができないのだった。
「あの子をあまねの代わりにするつもりなんだよね?」
「関係ねえよ」
「無理だよ。あの子にあまねの代わりは務まらない。そもそもあまねはこうして生きてるんだから、そんなの必要ないじゃん」
それ以上は応えずに、俺はキャリーケースにさっさと衣服や日用品なんかを詰めて、部屋を後にした。玄関の扉が閉じるまで、あまねの耳障りな声は聞こえ続けた。
「仕方ないかあ。来須さんとあまねは、すれ違い続ける宿命。だけど必ず来須さんは、あまねのもとに帰って来るもんね。せいぜい楽しんできてよ。十二月十二日、十九時五十三分。来須さん、同じ失敗を繰り返さないようにね? 水柱渚さんのことを思い出して」
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日曜は昼過ぎから四時間だけ会社に行って作業し、食料品を買い込んで帰った。
由莉亜はベッドの上に座って文庫本を読んでいた。携帯すら持っていない彼女の経済事情からすれば当然だけれど、この部屋には他に趣味や娯楽となるような物はない。
「休日はよく本を読んで過ごすのか?」
「あまねちゃんに薦められてから、少し読むようになった」
「そうか……」
その名前は聞きたくなかったが、別に由莉亜は悪くない。
「今は何を読んでるんだ?」
訊ねると、由莉亜は文庫本の表紙を俺へ向けた。中井英夫の『虚無への供物』だ。
「俺の好きな小説だ」という言葉が、口をついて出た。
「あまねちゃんもそう云ってたよ。『虚無への供物』が書かれて以降、この国のミステリは全部がこの小説の呪縛を受けてるんだって」
「ああ、ミステリは突き詰めていくと全部、この小説に引き込まれて対消滅するからだな」
ミステリは殺人事件に対して推理を重ねていく。すなわち、死に対してあらゆる意味を重ねていく。そうやって特権化されていく死がその実、どれほどの虚無であるのか。すべてはそこに奉仕し続ける供物でしかあり得ないことを、『虚無への供物』は描き出した。
以来、ミステリが書かれれば書かれるほど、それはこの小説が顕現させた虚無を比例して増長させるに等しくなった。対消滅とはそういうことだ。ミステリは底なしの虚無であり、作者のみならず、そこに群がる読者達もみなが犯人。ゆえに、この『虚無への供物』は永遠のアンチミステリとされている。
「題名の〈虚無への供物〉が薔薇に付ける名前なのは、素敵だと思ったよ」
由莉亜は文庫本を閉じた。そして食料品を冷蔵庫に詰めていく俺に問い掛ける。
「来須さんも小説を書いてたんだよね。ミステリだったの?」
「そうだな。ミステリが好きだから、それしか書いていなかった」
「すごいね。ちゃんと解決できるように話をまとめるのって、大変じゃない?」
「そうでもないよ。解答を用意したうえで、そこから逆算して話をつくっていくから」
登場人物も舞台も、解答からの要請により決定される。どのタイミングで何が起き、どんな人物がどんな発言をしなければならないか。解決編までに伏線を揃えておく必要から、ドラマや展開までもが機能的に組み立てられる。
「物語の主軸として謎解きがある以上、必ずそういう書き方になるんだ。ミステリ以外の小説なら、時系列どおりに話をつくっていくのも有りだと思うが」
「へえ……。来須さんが書いた小説、読みたいな」
「読んでも面白くないよ。結局は芽が出ずに筆を折ったんだし」
「芽が出ずにって云うのは、プロになれなかったこと?」
「ああ。新人賞とかに送りまくったんだけどな。恥ずかしい話だ」
すべて落選だった。選評では、荒唐無稽で独り善がりで、こんなもの誰も面白いと思わないという散々な批判を受けた。小説にすらなっていない、思い上がるなと……。
嫌なことを想い出して暗くなりかけていたが、スーツのポケットから着信音が鳴り始めて我に返る。携帯の表示を見ると、澄神からだ。
由莉亜の前では話せないと思い、部屋を出てから応答した。
『やあ来須くん。由莉亜さんから有益な情報は引き出せましたか?』
「まだだ。急いては事を仕損じるって云うだろ」
『悠長にもしていられませんよ。今日も花天月高校の生徒が自宅で血を噴き出し死亡しました。一年ベロニカ組の押井戸謙吾という男子です』
「そいつも由莉亜の援交相手だったのか?」
『ええ。こもるさんは知らなかったそうですが、警察から情報提供がありましたよ。謙吾くんの携帯に、九日の夜、由莉亜さんと性行為中に撮影した映像が残っていたそうです』
「悪趣味な野郎だ」
映像が残っていたのでは否定できない。由莉亜が感染源でないと信じらせるためには、嘘でも由莉亜と結び付かない感染者がいると示せればよいのだが……。
『ともかく、期待していますよ来須くん。また連絡します』




