情欲に憑かれた者たち
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澄神は依頼人と二度目の面会を行う予定で、俺もそこに同席する運びとなった。タクシーで移動した先は、古着屋や雑貨屋が並ぶ街の一角、雑居ビルの二階に構えられた、〈月の天鵞絨〉という名の喫茶店だった。
細い階段を上がった突き当たり――『準備中』の札が掛かっているが、澄神は構わずに扉を開けた。中に這入るなり、珈琲の芳醇な香りに包まれる。むき出しの木材が隙間なく組まれ、鉄骨造の建物の中とは思えない内装をしている。
「お待ちしておりました、澄神様」
厨房から出てきたのは、人が好さそうな初老の男だった。
恭しく頭を下げた男に、澄神は「やあ、ご主人」と気安い感じで挨拶する。
「私の客人は到着していますか?」
「はい。三十分ほど前に……」
「随分と早いですね。気が急くのも分からなくはないですが」
適当に飲み物を注文した後、さらに店内を進む。仕切りを迂回すると、奥に巨大なソファーがあって、依頼人が行儀よく腰掛けていた。
「えっ、来須さん!」
橙色のニット帽を被り、髪が外側へ跳ねた童顔の女子高生。由布こもるだった。
「きみが依頼人?」
面食らったのは俺も同じだ。依頼人については、名前も聞かされていなかった。
「来須くん、きみは随分と女子高生の知り合いが多いのですね?」
澄神が冷やかすように云う。「偶々だ」と応えるが、そもそもこいつ、知ってて連れて来たのではないだろうか。俺について、一体どこまで調べたんだ……?
「ジェントルさん、どうして来須さんが?」
「彼にはこの事件の間、私の助手をしてもらうことになりました」
遺憾な説明だが、否定するのも面倒だ。俺は肩をすくめて、こもるへ問う。
「きみ、どうしてこんな奴に依頼なんてしたんだ」
「こんな奴って――来須さん、ジェントルさんの凄さを知ってて助手やってるんじゃないんですか? 新進気鋭のカリスマ名探偵って、ティーンの間で大人気なんですよ」
こんな奴が? 世も末だなこりゃ。
「まあ相手はともかく、依頼をした理由の方は?」
「彼女の想い人が死んだからですよ」
澄神が答えた。俺はこもると目を合わせる。
この子の中身は梅郷千里……双子の兄に恋い焦がれていたのではなかったか……。
「名は梅郷萬――しかも彼は、クラキ・クラミジアによる死亡が最初に確認された例なのです。さてこもるさん、今日は色々と聞かせてもらいますよ」
「はい。お願いします。私もできるだけ情報を集めてきました」
しかつめらしく頷くこもる。改めて見れば、二週間前と比べてやつれている。顔色が悪いし、頬はこけているし、目の下には隈ができている。
澄神と俺は向かいのソファーに腰掛けた。程なく店主が飲み物を運んできた。澄神にはエスプレッソ、俺にはお冷だ。俺は珈琲が飲めない。学生時代には好きで毎日飲んでいたが、精神状態がひどく悪いころだったので、それが紐づいて珈琲を飲むと不調をきたす身体になってしまった。こもるの前には、既に飲みかけのオレンジジュースが置いてある。
店主が去り、エスプレッソを一口啜った澄神は「まず――」と口火を切った。
「分かっていることを整理しましょうか。食器を置く前にテーブルクロスを敷くようにね」
それから語られた内容を、俺は例によって手帳にメモした。俺にとっては、これが初めて聞く事件の詳細だった。
〈クラキ・クラミジアについて〉
・一定の潜伏期間の後、全身から激しく出血して絶命する新種の感染症。そのほか高熱等の目立った症状はなく、急激に発症することが最大の恐ろしさと云える。
・性交渉によって感染するが、感染者同士を結ぼうとするとミッシングリンクの存在が浮き彫りとなる。よって抗体を持つ保有宿主がいて、彼ないしは彼女を特定しない限り、感染者の発生を防ぐことはできないと考えられる。
・現時点で確認された感染者はいずれも花天月高校の生徒。生徒の間では保有宿主は昏木由莉亜だと噂されており、感染症をクラキ・クラミジアと呼んでいる。名称は単なる語呂合わせで、クラミジア感染症と特段の結び付きは認められていない。
〈感染者一覧〉
・梅郷萬 (1年ベロニカ組)……7日(月)昼休み、友人と昼食中に発症・死亡
・芝尾柳生(1年ベロニカ組)……10日(木)午前の授業中に発症・死亡
・幹原慈央(1年ベロニカ組)……10日(木)午後の休み時間に発症・死亡
・枷勘次 (1年サフラン組)……11日(金)午後の授業中に発症・死亡
・湯浦真織(1年サフラン組)……12日(土)午前、由莉亜を訪問中に発症・死亡
なるほど。湯浦を除いた四人はみな男子だ。彼らの間にゲイのコミュニティが形成されていたのでない限り、感染ルートが繋がらない。それは分かるが、
「この男子四人が全員、由莉亜と肉体関係を持っていたのか……?」
まだ実感が湧かない。はたして由莉亜は、そんなにだらしない子だろうか。
昨晩、眠る前に交わした会話……他愛ない内容だったけれど、彼女がちゃんと自分の意見を持って生きていることが端々から伺えて、俺は感心したくらいだった。
「そのようですよ」
澄神は簡単に首肯する。
「ただし性的放縦に変わりはありませんが、その理由については、こもるさんに調べて来てもらいました」
「はい。ジェントルさんが推理したとおり、援助交際でした」
「援助交際? 高校生同士で?」
「そうです。いま、説明します……」
こもるはファンシーな手帳を開くと、苦痛に耐えるような調子で話し始めた。
「萬くんは、前々から由莉亜さんのことが好きでした。それで先月二十七日の金曜日、放課後、ついに告白しました。すると由莉亜さんは、萬くんを自宅のマンションに招きました。由莉亜さんは、恋人になることはできないけど、お金をくれたら、せ……性行為は、してもいいと答えたんです。萬くんは、その誘いに乗りました……」
「みじめな話ですな。Love and knowledge live not together.――ですか」
澄神の一言に、俯くこもる。
本当にみじめなのは、そんな男に想いを寄せ、これを報告している彼女自身だろう。
「私がこの話を知ることができたのは、萬くん本人が友達に話して、それが陰で広まったからです。人の口に戸は立てられないんですね……。すると萬くんの他にも、由莉亜さんに援助を申し出る男子が出始めました。柳生くん、慈央くん、勘次くんがそうです」
聞きながら、俺は自分の高校時代を思い出した。周りで絶えず行われていた、下手くそな性の駆け引き。少しの切っ掛けでそれが暴走する様子まで、簡単に想像できた。
「たぶん、最初に萬くんから話を聞いたのが柳生くんだと思います。一番仲が良いので」
「それで自分も由莉亜さんを抱くとは、実に素晴らしい友情ですね」
「その……気持ち悪いです……。しかも柳生くんが由莉亜さんとしたのは、萬くんが学校をお休みしてる間なんです。妹の千里さんが死んで、萬くんは二日まで忌引でしたから」
「慈央くんと勘次くんも、そのお仲間だったのですか?」
「慈央くんは二人とよく一緒にいました。だけど勘次くんは繋がりがないはずです。クラスも違いますし」
「そこまで話が広がったことの証左ですね。一方で由莉亜さんの側も、申し出があれば基本的に受けるスタンスというわけですか」
「みたいです。でも予約が埋まっているから、先の日付になるとも聞きました。死んだ三人だけじゃなくて……本当、人気みたいなんです……」
こもるは嫌悪感を露わにする。皺になるのも構わず、手帳を握り締めている。
「でもクラキ・クラミジアの噂も広まってるんだよな? この期に及んで由莉亜と性交渉しようとするのは、情欲で前後左右すら分からなくなってるアホだけだろ」
「ああ、はい。いまはもう、そんなアホな人はいないと思いますよ。さすがに」
「噂が出始めたのは、柳生くんと慈央くんが死亡した十日からですね?」
「そうです。柳生くんと慈央くんも、由莉亜さんと関係を持ったことを周りに自慢、してましたから……死んだ三人の共通点ということで、誰かが気付いたんです」
「そして翌日には勘次くんが死亡。彼もまた、由莉亜さんを抱いたことを武勇伝よろしく喧伝していたのですか? 真織さんと交際しておきながら、あまりに脇があまいですが」
「勘次くんはよく冗談を云う人で、真織さんは怒っていたかも知れませんけど、みんな本気にはしていなかったみたいです。でも死んだということは、本当だったんですね」
馬鹿な奴ばかりだ。頭が痛くなってきた。
「ふむ。それぞれ、由莉亜さんと性交渉をした日付は分かりましたか?」
「萬くんは、さっきお話したとおり先月の二十七日です。柳生くんはその週明けの月曜日……三十日ですね。慈央くんはこの前の土日みたいなので……五日か、六日です。勘次くんはよく分かりませんでした。本人が周りに話したのは、八日が最初みたいですけど……」
「思いの外、ばらついていますね。潜伏期間に四日から十日の幅がありますよ」
その後も、感染者の交友関係や、誰がどんな証言をしているか等、こもるの話は続いた。
しかし、それらを調べるのが澄神の仕事ではないのだろうか……?
澄神は偉そうにふんぞり返って、知ったふうな皮肉を挟むだけだ。学校の中のことは生徒の方が探りやすいだろうが、これではこもるは何のために依頼したのか分からない。
「もう十七時ですね。The best fish smell when they are three days old.――今日のところは以上としましょうか」
結局、ろくに推理も述べないまま、澄神はそう云って切り上げた。
ただし俺が立ち上がろうとすると、肩に手を置いて付け加えた。
「私は一本、電話をする用事があります。グラスを空にしてから出てくるとよいでしょう」
俺とこもるが知り合いだからか、意外な気配りだった。気になっていたのは事実である。
二人きりになって顔を見合わせると、「大丈夫か、きみ」という言葉が自然と出た。
「その身体になっても納得していられたのは、お兄さんと結ばれるためだっただろ」
その兄が死んだとなっては。しかも、その死に方がこれでは。
「意地悪なこと、訊かないでくださいよ」
こもるは視線を脇に逸らして、苦笑を浮かべた。
「大丈夫なわけ、ないじゃないですか。だけど、仕方ないじゃないですか」
「……無神経なことを訊いたな。今更、梅郷千里に戻れるわけもないのに」
「それはいいんですよ。もとから千里としての自分は嫌いでした。こもるさんとして振舞うことにも、慣れてきたところです。おかげでみんなから色々、聞き出せますし」
「そうか。……ミコの方はどうしてるんだ。葉月遊として、上手くやれてるのか」
「彼女なら死にましたよ」
「え、どうして?」
「〈吸血鬼の徘徊〉の被害者です。知らなかったんですね」
「……だって実名報道はされてないだろ。先月の三十日か?」
巷を賑わせている連続通り魔殺人。十一月十日、二十日、三十日と続いており、計三人の女子高生が全身の血を抜かれた死体となって発見された。抜かれた血の行方は分からず、犯人は吸血鬼だなんてくだらない話になっている。
「二度の血液交換を経た先で、さらにその血を抜かれて殺されるなんてな……」
「不運なことですけど、悲しいことではないんじゃないですか。赤鞠さんを破滅させて、ミコさんは満足していたと思いますよ」
ドライな感想を述べて、こもるは残っていたオレンジジュースを飲み干した。いまの彼女は他人を気にしていられる状態ではない。話の脱線はこの程度に止めておくべきだろう。
「悪い。最後に、最初の質問の答えを聞かせてくれるか」
「最初の質問って何ですか」
「どうして澄神に依頼した? 想い人が殺されたから、では答えになってない」
彼女は「やっぱり、意地悪なこと訊きますね……」と、もう一度苦笑した。
それから物憂げに、どこか遠くの方へ視線を投げた。
「依頼をしたのは、お兄ちゃんが死んだ二日後でした。まだクラキ・クラミジアの噂が出る前です。お兄ちゃんを殺した新種の感染症……その詳細を知りたいだけでした。だけど状況が変わりましたね。いまは、噂が本当なのか……本当に、由莉亜さんとセックスしたせいでお兄ちゃんは死んだのか、それを確かめるために依頼しています」
「確かめて、どうするんだ」
「由莉亜さんのせいなら、殺しますよ」
躊躇は見られなかった。先刻から、この子は一度も瞬きをしていない。
「ジェントルさんなら、誰よりも早く答えを出してくれます。そうしたら私は何よりも早く、この手で由莉亜さんを殺します。すごく苦しい殺し方を、考えてあるんですよ」
感情を切り離したその表情が、俺へと向いた。
「邪魔しないでくださいね」




