探偵・ジェントル澄神の来訪
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「お帰りなさい、来須さん。十二月十二日、十三時二十九分だねえ」
〈メゾン・天野サンクチュアリ〉八〇一号室に帰ると、玄関であまねが待ち構えていた。
両手を後ろで組み、ご機嫌そうに身体を揺らしながら、満面の笑みを向けてくる。
「朝帰りって云うか昼帰り? やーらしいんだー。何してたの?」
俺は返事せずにその横を通り過ぎ、居間へと這入る。
「どうして無視するの、来須さん」
すぐ後ろをぴったりと尾いてくる。
「ねーえ、ねーえ、来須さん、ねーえ、ね――」
「うるさいな。お前は俺の〈幻覚〉だろうが」
「あは。まだそんなこと云ってるの? 可愛いなあ来須さん」
手を掴まれて、強引に彼女の胸にあてさせられた。掌に確かな感触がある。
「見て、聴けて、触れて、それでもあまねの実在を信じられないの?」
「……見て聴けて触れるからって、実在してるとは限らないからな」
強い幻覚とはそういうものだ。そして夢だと気付いても醒めない夢のように、頭で分かっていても解けはしない。
俺はおかしくなってしまっている。あまねの死がそんなに受け入れられないのか?
この〈幻覚〉はこの部屋の中にしか現れないけれど、部屋で落ち着いて休めないことで結局、仕事にも支障をきたし始めている。尋常でないストレスだ。
「お前は死んだ。もう死んだんだよ」
手を振り払う。ソファーに座って、両目を瞑り、手で両耳を塞ぐ。
「死んでないなんて云ってないでしょー?」
でかい声だ。嫌でも聞こえてくる。
「あまねは死んで、それから復活を遂げたんだよ。聖JKとしてね」
「何なんだよ、聖JKって」
「それを解くのが来須さんの役割。ほら考えてよー。手掛かりは全部、来須さんの前にちゃんと揃えてあげてるんだからさー。がんばれー」
抵抗はこちらが馬鹿を見るだけだ。耳を塞ぐのはやめにして、目も開けた。あまねはテーブルの上に座って、にこにこと微笑んでいる。俺は煙草に火を点ける。
「もーう。吸って吐いて吸って吐いて……やめなよそんなの」
〈幻覚〉のくせに、こいつは俺を否定する言葉ばかり吐く。
「昔は小説を書くときにしか吸わないって決めてたんでしょ?」
こういうことまで知っているのは〈幻覚〉ゆえだろう。鬱陶しい。
俺は煙草を灰皿に放って、ソファーの上で横になった。あまねが上から覗き込んでくる。
「寝るの? ぐーたらぐーたらして、何のために生きてるの来須さん」
「生きるのにいちいち目的なんか要るかよ。疲れてんだから、構わないでくれ」
何をする気も起きない。何も考えたくない。動きたくない。
次の瞬間、俺の意識はチャイムの音に反応した。違和感。あまねが「お目覚め?」と訊ねてくる。腕時計を見ると十五時過ぎ。少し眠っていたらしい。またチャイムが鳴る。
「出ないの? あまねが出てあげよっか?」
「出られるもんなら出てみろよ……」
さらにチャイムが続く。しつこい。俺は倦怠感の残る身体で玄関へ向かった。セールスや宗教の勧誘だったら殴るかも知れない。
扉を開けると、其処に立っていたのは嫌味なくらい美形で、若く背の高い男だった。
くっきりとした目鼻立ちに、緩くパーマをかけた黒髪と、爽やかな笑顔。英国風の品が良いセーターを着て、上等そうなカーキ色のチェスターコートを羽織っている。
「As the fool thinks, so the bell clinks.――どうやら困惑しているようですね?」
何だこいつ。えらく不躾な奴だ。
「今度は不愉快ですか? ふふ。私はジェントル澄神。私立探偵をしている者です」
「何の用だ」
「目の前で湯浦真織が怪死を遂げたこと、さぞ驚いたでしょう。あれが何なのか、警察はろくに教えてくれなかったのではありませんか?」
由莉亜の部屋を襲撃した女子高生。救急車が到着したときには既に絶命していた。俺と由莉亜は警察から事情聴取を受けたけれど、少なくとも俺が証言できることはなかった。
何にせよ、この胡散臭い男につけ込まれるわけにはいかない。
「悪いが帰ってくれ」
扉を閉めようとした。しかし澄神は強引に身を滑り込ませてきた。
「ふむ。部屋を飾ることには関心がないと見えますね。客人をもてなす備えは如何ですか」
「少なくとも侵入者をもてなす備えはないな」
「They are welcome that bring.――きみが知恵ある者ならば、私をそう邪険に扱ってはいけませんよ。折角、色々と教えてあげるために来たのですからね」
居間まで這入って行く澄神。見た目だけ上品ぶって、やっていることは信じ難く横暴だ。
「教えてくれなくて結構だ。早く出て行かないと――」
「いいじゃん来須さん。探偵なんて面白そうだしさあ」
「お前は黙ってろ」
口出ししてきたのはあまねだ。彼女はテーブルの上に座って、お気楽に笑っている。
だが澄神の方は彼女に気付く様子はなく、少し不思議そうに俺へ振り返った。当然だ。彼女は俺だけの〈幻覚〉なのだから。
「来須くん、きみは由莉亜さんを救いたくはないのですか」
「なに?」
「クラキ・クラミジア――それが花天月高校の生徒の中で、一連の怪死を引き起こしている病につけられた名称です。昏木由莉亜と性交渉をした人間が発症する新種の感染症と、そう噂されているのですよ」
澄神はコートの懐からパイプを取り出すと、燐寸を擦って火を点けた。
「また、住人の許可も取らずに――」
掌が差し向けられる。煙をフーッと吐き出してから、澄神は毅然として告げた。
「主導権は私が握ります。きみは私の振舞いでなく、話に集中しなさい」
「……ああ」
理解した。何を訴えても無駄なのだ。
俺は壁に凭れる。この手の理不尽を前にしては、諦める以外にない。
「たしかに由莉亜とヤッたら死ぬとか何とか、湯浦も話していたよ。でも湯浦は女だぞ。女同士の性交渉もないとは云わないが」
「彼女は恋人の枷勘次から感染したと思われています。勘次くんは昨日の午後に死にました。授業中、クラスメイト達の前で全身から血を噴いたので、大騒ぎになったそうですよ。彼が由莉亜さんと肉体関係を持ったという話は、かねてより広まっていました」
「湯浦の耳にも入っていたってことか」
「はい。彼女は事の真偽を確かめるため、由莉亜さんのもとを訪れたのでしょう。おそらく、真であったならば復讐まで行うつもりで。しかし彼女もまた、潜伏期間中の勘次くんと性交渉をしていた。そしてきみ達の前で発症したのです」
「由莉亜本人は、どうして死なないんだ」
「抗体を持っているのでしょうね。ゆえに彼女を保有宿主として広がっていく。彼女の体内において、その遺伝子的影響を受けて変異したウイルスなのでしょうか? もっとも、現時点ではすべて医学的根拠のない噂です。分析はまさに進められている最中ですよ」
澄神はパイプをふかしながらソファーに腰掛けると、長い脚を組んだ。
「如何ですか、ここまでの感想は?」
無視する。頭が重たい感じがして、俺もジャケットの内ポケットから煙草を取った。
クラキ・クラミジア……ろくでもない仮称だ。だが由莉亜は、そんな噂が流れていることなど知らない様子だった。もしも今朝、俺がいなかったなら、わけも分からないまま湯浦に殺されていたかも知れない……。
「来須くん、きみは人間不信ですか? 強すぎる警戒は対象を見定められていない点で無警戒に等しいですよ」
わざとらしく溜息を吐く澄神。
「今度はきみの話を聞かせてもらう番です。由莉亜さんとはどういう関係なのでしょう?」
「浅い知り合いだよ。花天月高校に通っていた俺の姪が、由莉亜と友人だったんだ」
「過去形ですね」
「ああ、姪は先月に死んだからな」
「そして復活した!」とあまねが両手を上げる。澄神は「ふむ」と頷く。
「きみは由莉亜さんと性交渉は?」
「してねえよ。部屋に行ったのは昨日が初めてだし、会ったのは二度目だ」
「部屋に誘ったのは由莉亜さんですか? いけませんねえ」
「何がだよ」
澄神は立ち上がると、テーブルを迂回して俺の正面までやって来た。
パイプの先で、俺が手に持った煙草を指し示す。
「強く吸いすぎです。それでは葉の味を殺してしまいますよ」
「……これ以上話していたって、俺から有意義な情報は出てこないぞ」
「結構。それよりも来須くん、きみには私の助手を務めてもらいます」
「はあ?」
カチャリ。パイプを歯にあてて音を鳴らす澄神。鼻持ちならない余裕の表情だ。
「私はクラキ・クラミジア事件を調べています。しかし間が悪いことに、この依頼を受ける直前、本来の助手――バイオレント紅代と云うのですが、彼女に暇を出してしまいましてね。探偵には助手が必要というのが私の探偵哲学ですから、困っていたのですよ」
「俺は会社勤めだ。そんな時間はない」
「今日は休日のはずです。助手といっても、私と行動を共にするだけですよ。きみも多くの情報を得ることができる。由莉亜さんに対して、情がないわけではないのでしょう?」
見透かすように目を細める。知ったふうな口を利きやがる。
「行ってきなよ来須さん」と、あまねが手を叩いた。
「探偵の助手だなんて、来須さんからしたらすっごく魅力的なお誘いじゃん。来須さん、ミステリが大好きなん――」
「黙ってろって云っただろ!」
怒鳴りつけても意味はない。「あははははっ。来須さん、怒ったあー」と、あまねをさらに歓ばせるだけだ。あまねの声が聞こえない澄神は、目を丸くしている。
「アスリートは試合中に大声を上げて感情を整えますが、その類ですか?」
俺は煙草を咥えて一気に吸い込んだ。フィルターの寸前まで葉が燃焼する。口から離すと、天井に向けて吐き出した。そのまま、澄神に答えた。
「分かった。ついて行くよ。ただし、お前の力になるつもりはないからな」
この部屋を出る理由ができるなら、何でもいい。
そんな投げやりな態度にも拘わらず、澄神は満足そうに笑った。
「All is fish that comes to his net.――心配は無用です」
「いちいち英語のことわざを披露しないと死ぬのかよ、お前」




