陽光と青空の下の襲撃
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翌朝、十時過ぎに目が覚めた俺は、上体を起こすと煙草に火を点けた。分厚いカーテンのおかげで薄暗いままの部屋に、紫煙が宙空を這うように漂い始めた。
隣では由莉亜がまだ寝息を立てている。その寝顔は幼く、穏やかだ。額の冷却シートが半分めくれている。寝間着は中学時代の体操着とのことだが、いささか窮屈そうである。
もちろん昨夜は何もなかった。順番にシャワーを浴びて、一緒の布団には入ったものの、由莉亜の学校での話や、俺の職場での話、あとは何だったか……他愛ない会話を交わしているうちに、眠りについただけだ。
まあ、起きたときに隣に誰かがいるというのは存外、悪くないと思った。
由莉亜が目を覚ましたのは半時間ほど後だった。「おはよう、来須さん……」と云ってゆっくり起き上がると、剥がした冷却シートを俺の額に貼り付けた。
「ぬるい……?」と、少し緩んだ口元が訊ねてくる。
「なんだ、寝惚けてるのか」
「寝惚けてないよ。うち、寝起きは良いから……」
俺の腕に抱き着いて、再び目を閉じる由莉亜。俺はその頭を撫でた。髪は色素が薄くて茶色がかっている。雑で不揃いな切り方だが、彼女には似合っている。
それから少し会話を交わして、途切れたタイミングで俺は「帰ることにするよ」と告げた。もっとこうしていたいと思ってしまった。だからこそ、長居すべきではなかった。
由莉亜は大人しく俺から離れた。俺は立ち上がると、畳んだコートを抱えて鞄を持ち、玄関へ向かった。そこで後ろから「楽しかった」と声が掛かった。
「俺も楽しかったよ」と、振り返って応えた。
「また来てくれる?」と、俺を見上げて訊ねる由莉亜。
「ああ、次の日が休みなら……また電話してくれ」
錠を開けて、ドアノブを下げて、扉を開けた。
「うん。ありがと」という由莉亜の返事を聞いて、顔を正面へと向けた。
開けた扉の隙間に現れた光景は、
眩しい陽光と青空と、
包丁を構えた女子高生。
「――ほらまた別の男を連れ込んでる」
包丁が突き出される――そう直感した俺は、考えるより先に身体が動いた。コートも鞄も放り出して、右足で女子の腹を蹴っていた。女子は後ろへと吹っ飛んでいき、その手から離れた包丁が宙を舞った。俺自身も体勢を崩して、床に尻餅をついた。そのすぐ横で、落ちた包丁がフローリングの床に突き刺さった。扉がガチャンと音を立てて閉まった。
「来須さん? 今の……」
由莉亜には応えず、俺は急いでドアノブへ手を伸ばす。しかし相手の方が早かった。俺の手が届く前にドアノブは下がり、再び扉が開かれた。
「ねえ! いきなり蹴らないでよ痛いなあ!」
「誰だお前!」
俺は床に突き立った包丁の柄を掴む。女子は扉を開いた状態で止まる。
知らない奴だ。高身長。ぼさぼさに乱れた髪。腫れた両目がギンギンに見開かれている。何かスポーツでもやっているのか、引き締まった身体付きが制服の上からでも分かる。花天月高校の制服。シャツがスカートの中に仕舞われずに、だらしなく垂れている。
「包丁、返してよ」
「返せるわけ――」
「未成年と淫行とかさ、気持ち悪いよマジで」
「そんなことしてな――」
「仕方ないなあ。大人しく座っててよねえ!」
女子はスカートをめくった。右脚に巻いたベルトに何かぶら下げていると思ったら、バタフライナイフだ。慣れた手つきでくるくる回して、刃をむき出しにした。
「昏木い、私のこと分かる?」
ブーツも脱がずに、俺の横を通過して部屋へ這入って行く。俺は振り返って片膝を立てて、彼女が由莉亜を襲う気配を見せたらすぐに取り押さえられるよう警戒する。
「湯浦さん……?」と、由莉亜は膝を抱えて座ったまま答えた。自信なさそうだったが、女子は「あたり」と不機嫌そうに頷いた。両者の間は五十センチも離れていない。
「お前、勘次くんとヤッたでしょ」
「……云えない」
「じゃあヤッたってことだよね?」
「云えない」
「ナメてんのお前」
声のトーンが一段と低くなった。俺はすかさず湯浦に飛び掛かった。後ろから両腕を掴んで、そのまま床に組み伏せようとする――が、予想以上に強い力で抵抗される。
「触んないでよッ!」
「ナイフを捨てろっ」
「放せ! 放せってばあ!」
俺は体重をかけて、湯浦を壁に押さえ付けた。湯浦は益々鼻息と声を荒げる。
「ああもうっ、あんた分かってんの!」
「何が!」
「あんただって数日したら死ぬんだよ!」
「何の話だよっ」
「だから、この女とヤッたら死ぬの! 馬鹿な奴! 何も知らないで!」
質問を重ねようとしたが今度は「きゃあああああああああッ!」と叫ばれる。耳が痛い。人が来たら困るのはこいつの方なんじゃないのか? そんな理性も期待できないのか?
「昏木ッ、お前から誘ったんでしょ! 答えなさいよブス! なに考えてんのよ、お前のせいで勘次くんが死んだって分かってんでしょ? なのにこんな大人の相手してさあ、誰なのよこいつ! あああああ、本当に殺したい! 殺したい! 殺したい!」
がんがんがんがんっ。自分から壁に頭をぶつけて暴れる湯浦。俺はその耳元で怒鳴る。
「いいから落ち着け! 無理なら通報するぞ!」
「ああああああっ! ムカつくう……何も知らないくせにさあ……」
今度はいきなり泣き出した。ぶるぶる震えて、その横顔に早くも涙が伝った。
「死んだんだよお……死んだの。私の彼氏が死んだんだよお……この女が殺したんだよ。この女が私の幸せ、全部奪ったんだからあ……邪魔しないでよおおおお……」
がんっ……がんっ……がんっ……壁に頭をぶつけ続ける。
「分かった、分かったからそれやめろって!」
「殺したいいいい……私にいい……この女を殺させてよおおおお……」
直後、湯浦の表情が一変した。何か、信じられないものを目にしたかのような空白の表情。かと思えば突然、物凄い力で俺の拘束を振り払った。油断していた俺は彼女の腕を放してしまった。しかし彼女は由莉亜へと向かっていくのではなかった。
廊下をドタドタと引き返すと、ほとんど激突するみたく扉を開けて、外へ出た。また閉じていく扉を、追いかけた俺が手で押さえる。湯浦は塀から身を乗り出している。
「うおえええええええええええッ……えッ、ええええええッ……」
嘔吐している。何だ、酒でも飲んでいたのかこいつは?
「おい、十三階から吐くなよ。迷惑だ――」
ろ、とまで云い切らないうちに気が付いた。
湯浦の両脚を、赤い血が伝っている。生理だろうか? しかし……彼女がゆらりと、揺れた。塀に全体重を預けて無様にずり落ちながら、身体がこちらに振り返った。
「うわっ」
俺は声を漏らしてしまった。
湯浦の顔は血だらけだった。目から、鼻から、口から、耳から、大量の血液が惜しげなく流れ出していた。白目を剥いて、だらしなく舌を垂らして、見るに堪えない有様だ。びく、びく、びく、と断続的に痙攣する他には、それきり動こうとしなかった。
由莉亜が俺の隣まで出てきた。俺は「どういうことなんだ……?」と訊ねる。
「分かんない。でも、学校で何人か、同じ死に方したよ」と答えられる。
遥か地上から、誰かの叫び声が聞こえてきた。