ヴィラ・アイリス茜条斎13D
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いくつもの「お疲れ様です」や「お先に失礼します」を見送って、会社を出たのは二十二時過ぎ。同僚や後輩の尻ぬぐい、無責任な他部署からの相談、突発的なトラブル対応、営業時間中はそんなのばかりだから、本来の自分の業務には残業時間を充てることになる。
金曜の夜だけれど、一週間を終えたという感慨は微塵もない。
こんなことが際限もなく、ひたすらに繰り返し、繰り返しだ。
ただし今日の俺は〈メゾン・天野サンクチュアリ〉に帰るのではなかった。昨日、昏木由莉亜から『会いたい』と連絡があったのだ。金曜の夜なら大丈夫と答えて、彼女が一人暮らしをしている部屋へ行くことにした。
俺の部屋には〈幻覚〉が棲みついている。他人を入れることはできそうにない。
それに、女の子を夜分遅くに出歩かせるわけにもいかないだろう。先月に始まった連続通り魔事件〈吸血鬼の徘徊〉に、そろそろ新たな被害者が出るころだと噂されている。
歓楽街の外れに位置する十五階建ての賃貸マンション〈ヴィラ・アイリス茜条斎〉。入口のインターホンで13Dを押すと、由莉亜から『這入って』とだけ応答があって扉が開いた。エレベーターで十三階へ上がり、端から四番目の部屋。錠は開いていた。
「来てくれてありがと」
間取りはワンルームらしい。玄関から伸びる短い廊下は仕切りなく洋室に繋がっているため、這入ってすぐ、布団の上に膝を抱えて座っている由莉亜の姿を見とめられた。
二週間ほど前の〈命メ館〉での事件以来、彼女に会うのはこれが初めてだ。前回と同じ制服姿。濃紺のセーターに、丈の短いスカート。靴下は履いていない。
「悪い。遅くなった」
「ううん、大丈夫。上がって?」
「どこに座ったらいいんだ、これは」
「布団の上でいいよ」
まあ他にソファーも椅子もないから、そうするしかない。由莉亜は床生活のようだ。棚や箪笥さえなくて、物はすべて床の上に置かれている。衣服は段ボール箱に収めていたり、教科書や雑誌類は壁際に並べていたり、一応は整理されているものの、どうしても雑然とした印象を受ける。
もっとも不潔とは感じない。室内は花のような甘い香りで満たされている。香水か、あるいはカーテンレールに吊るして部屋干しされている洗濯物のおかげだろうか。下着も干されたままで、相変わらず無防備だ。
「ちょっと暗くないか」
「そうかな。いつもこうだよ」
明るさを調整できる照明なのだろうが、読書が難しい程度には薄暗い。そういえば俺の職場に蛍光灯の明かりが苦手だと云う先輩がいる。由莉亜も同じだろうか。
俺は由莉亜と同じ布団の上に胡坐をかいて、「体調、悪いのか?」と訊ねた。脱いだコートは丸めて、鞄と一緒に床の上に置いておく。
「悪くないよ。どうして?」
「それ」
彼女の額に貼られている冷却シートを指差す。
「ああ……これは気持ち良いからつけてるだけ」
うっすらと微笑む由莉亜。こういう部屋で二人きりで向き合うと、彼女のアンニュイな雰囲気は一段と増す感じがする。身体は細いけれど胸は大きい。一部の男子から人気があるというのも頷ける話だ。
「これ、ありがと」と云って、彼女は俺が貸していたハンカチを差し出してきた。返してくれなくてよかったのだが、拒否する理由もないので受け取った。
「煙草、吸わないの?」
「吸うときは外で吸うよ」
「此処で吸っていいよ」
「臭いだろ。洗濯物にもにおいがつくぞ」
「いいから吸って。くつろいで欲しいから」
変なところで強情だ。それなら一本くらい構わないかと思い、火を点けた。
「ああ、灰皿……空き缶とかあるか?」
「コップでもいい?」
「……きみが嫌じゃなければ」
由莉亜はふらりと立ち上がった。キッチンとして分けられていないが、壁際に流し台がある。しかし調理に使うはずのスペースにカップ麺や食器が重ねられているのを見るに、料理はしないようだ。水を入れたコップを手に戻ってきた彼女は、俺の隣に腰を下ろした。
「どうぞ……」と、囁くような声。コップを手に持ったまま、身体を俺に凭れさせる。
「どうして俺に会いたかったんだ」
「ん……理屈は考えてなかった」
吸い込んだ煙を、少し顔を上げて、天井へ向けてゆっくりと吐き出す。長くなった灰を、由莉亜が持っているコップの中に落とす。頭が冴えてくる感覚……。
「理屈って、気持ちで納得できないときに必要なものでしょ。うちは来須さんに会いたいこと、気持ちで納得してたから。理屈は要らなかったの」
「面白い考え方だな。俺は理屈にこだわるきらいがあるから、参考にすべきかも知れない」
口ではそう云いつつも、煙草を吸いながら考えている。来てみたはいいが、どうやって時間を過ごそう。よく知らない女子高生と二人で、いつまで間が持つだろうか。
「ねえ、うちの顔に煙、吹きかけて」
おもむろに妙な要求をされた。
「どうして」と訊いてから、理屈はないのだったと思い出す。上目遣いの虚ろな両目。間近で見ると厚めの涙袋に気付く。無気力そうではあるが、本当に整った顔立ちをしている。
「いいから。して欲しいの」
咥内いっぱいに煙を吸う。火がジュウウウと葉を燃焼させる。そして煙草を口から離して、見下ろした先の由莉亜の顔に吹きかける。彼女は両目を閉じてそれを受けた。
「……嫌だろ、こんなことされたら」
「全然……嫌じゃないよ……」
わずかに目を開いて、また微笑む。つくづく不思議な子だ。
そう思って見ていると、その鼻からつーッと血が垂れた。
「また……ごめんね」
枕元のティッシュ箱に手を伸ばす由莉亜。俺はコップを受け取り、短くなった煙草を中に入れて床に置いた。由莉亜は数枚抜き取ったティッシュを鼻にあてる。
「気にしないで。来須さん、夜ご飯は食べた?」
「ああ、軽く食べてきたよ」
駅前の牛丼屋で、見るからにうだつが上がらないオッサン連中に囲まれて。
「うち、食べてないの。少しだけ食べるね」
「もしかして俺のこと待ってたのか」
「ううん。食欲がなかっただけだよ」
由莉亜はまた立ち上がり、流し台の方へ行った。薬缶に水を入れてコンロにかける一方で、カップ焼きそばの包装を破る。不健康そうな肌の色から察せられるとおりの食生活だ。
「実家は遠いのか」
「家の話、したくない」
やはり何か事情があるらしい。花天月高校は別に名門校なわけでもないから、進学のための一人暮らしとは違うのだ。
「ちょっと無遠慮だったな。実家の話を振られたら嫌なのは俺も同じだよ」
「あまねちゃんが云ってたよ。社会に馴染めない人は、親との関係に不和があるんだって」
「何だそりゃ。にわか哲学に加えて、えせ心理学にまで嵌ってたのか」
「心理学じゃなくて、精神分析学だよ。えっとね……」
半分まで振り向いた由莉亜は天井を見上げて、何某か思い出そうとする仕草を見せた。鼻血は止まったようで、もうティッシュを鼻にあててはいない。
「人間の子供は最初、お母さんと二人きりの閉ざされた世界にいるんだけど、お父さんに屈服することで、現実の世界に入っていくんだって……。でもそれは痛みや苦しみを伴うことだから、お父さんに上手く屈服できなかった子供は、現実との適合がそれだけ中途半端になる……それが色んな精神病の原因になるんだって」
「だいぶ端折ってあるけど、エディプス・コンプレックスのことか?」
「そう。神話が基になってるやつ……」
由莉亜は頷いたが、フロイトのそれと云うよりも、ジャック・ラカンの父性隠喩かも知れない。あまねの部屋にラカンの本はあっただろうか。
「だが俺は社会不適合者ではないな。むしろエリートだよ。大企業に勤めてる」
「自虐するみたいに云うんだね」
「そりゃあ、大真面目にエリートなんて云ったら馬鹿みたいだろ」
薬缶が笛の音を立てた。注ぎ口から水蒸気が噴き出している。
由莉亜は火を止めると、薬缶の湯をカップ焼きそばに注いで蓋をした。
「来須さんはお金がたくさん欲しいの?」
「いや、物欲がないから貯まる一方だが……ちょっとした理想ならある」
「どんな理想?」
「欲しい物があったとき、その値段を気にしたくないんだ。欲しいなら買う、いらないなら買わない。だから金は持っておいた方がいいな」
「でも、そもそも物欲がないなら、モチベーションにはならないんじゃない?」
「モチベーションがなくたってやるのが仕事だよ。答えになってないかもだが」
「そっか……大変だね」
女子高生がこんな話を聞いて楽しいのだろうか? たぶん楽しくないだろう。
由莉亜は足元の小さな冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。それとカップ焼きそばのセットが夕食らしい。湯切りの際、ステンレス製の流しがベコベコと音を立てる。
「カップ焼きそばって、焼いてないのにな。詐欺くさいネーミングだと思わないか」
「うん。たしかに」と、少し笑う由莉亜。
俺はその後も適当なことを喋りながら、彼女が立って食事するのを眺めていた。箸の進みは遅く、麺を途中で何度も噛み切る食べ方は、あまり美味しくなさそうだった。
「ごめん。やっぱ食欲ないや……」
結局、彼女は残したカップ焼きそばを流しに置いた。水で何度か口をゆすいでから、布団に戻ってくる。俺の正面に腰を下ろして、それから俺に対して小さく首を傾げた。
「そろそろ、する?」




