表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖JKとアンチミステリ御破算  作者: 凛野冥
らふぁえる章:暗き昏木クラミジア
19/39

ヴィラ・アイリス茜条斎13D

    ・・・・


 いくつもの「お疲れ様です」や「お先に失礼します」を見送って、会社を出たのは二十二時過ぎ。同僚や後輩の尻ぬぐい、無責任な他部署からの相談、突発的なトラブル対応、営業時間中はそんなのばかりだから、本来の自分の業務には残業時間を充てることになる。

 金曜の夜だけれど、一週間を終えたという感慨は微塵もない。

 こんなことが際限もなく、ひたすらに繰り返し、繰り返しだ。

 ただし今日の俺は〈メゾン・天野サンクチュアリ〉に帰るのではなかった。昨日、昏木由莉亜から『会いたい』と連絡があったのだ。金曜の夜なら大丈夫と答えて、彼女が一人暮らしをしている部屋へ行くことにした。

 俺の部屋には〈幻覚〉が棲みついている。他人を入れることはできそうにない。

 それに、女の子を夜分遅くに出歩かせるわけにもいかないだろう。先月に始まった連続通り魔事件〈吸血鬼の徘徊はいかい〉に、そろそろ新たな被害者が出るころだと噂されている。

 歓楽街の外れに位置する十五階建ての賃貸マンション〈ヴィラ・アイリス茜条斎あかねじょうさい〉。入口のインターホンで13Dを押すと、由莉亜から『這入って』とだけ応答があって扉が開いた。エレベーターで十三階へ上がり、端から四番目の部屋。錠は開いていた。

「来てくれてありがと」

 間取りはワンルームらしい。玄関から伸びる短い廊下は仕切りなく洋室に繋がっているため、這入ってすぐ、布団の上に膝を抱えて座っている由莉亜の姿を見とめられた。

 二週間ほど前の〈命メ館〉での事件以来、彼女に会うのはこれが初めてだ。前回と同じ制服姿。濃紺のセーターに、丈の短いスカート。靴下は履いていない。

「悪い。遅くなった」

「ううん、大丈夫。上がって?」

「どこに座ったらいいんだ、これは」

「布団の上でいいよ」

 まあ他にソファーも椅子もないから、そうするしかない。由莉亜は床生活のようだ。棚や箪笥さえなくて、物はすべて床の上に置かれている。衣服は段ボール箱に収めていたり、教科書や雑誌類は壁際に並べていたり、一応は整理されているものの、どうしても雑然とした印象を受ける。

 もっとも不潔とは感じない。室内は花のような甘い香りで満たされている。香水か、あるいはカーテンレールに吊るして部屋干しされている洗濯物のおかげだろうか。下着も干されたままで、相変わらず無防備だ。

「ちょっと暗くないか」

「そうかな。いつもこうだよ」

 明るさを調整できる照明なのだろうが、読書が難しい程度には薄暗い。そういえば俺の職場に蛍光灯の明かりが苦手だと云う先輩がいる。由莉亜も同じだろうか。

 俺は由莉亜と同じ布団の上に胡坐をかいて、「体調、悪いのか?」と訊ねた。脱いだコートは丸めて、鞄と一緒に床の上に置いておく。

「悪くないよ。どうして?」

「それ」

 彼女の額に貼られている冷却シートを指差す。

「ああ……これは気持ち良いからつけてるだけ」

 うっすらと微笑む由莉亜。こういう部屋で二人きりで向き合うと、彼女のアンニュイな雰囲気は一段と増す感じがする。身体は細いけれど胸は大きい。一部の男子から人気があるというのも頷ける話だ。

「これ、ありがと」と云って、彼女は俺が貸していたハンカチを差し出してきた。返してくれなくてよかったのだが、拒否する理由もないので受け取った。

「煙草、吸わないの?」

「吸うときは外で吸うよ」

「此処で吸っていいよ」

「臭いだろ。洗濯物にもにおいがつくぞ」

「いいから吸って。くつろいで欲しいから」

 変なところで強情だ。それなら一本くらい構わないかと思い、火を点けた。

「ああ、灰皿……空き缶とかあるか?」

「コップでもいい?」

「……きみが嫌じゃなければ」

 由莉亜はふらりと立ち上がった。キッチンとして分けられていないが、壁際に流し台がある。しかし調理に使うはずのスペースにカップ麺や食器が重ねられているのを見るに、料理はしないようだ。水を入れたコップを手に戻ってきた彼女は、俺の隣に腰を下ろした。

「どうぞ……」と、囁くような声。コップを手に持ったまま、身体を俺に凭れさせる。

「どうして俺に会いたかったんだ」

「ん……理屈は考えてなかった」

 吸い込んだ煙を、少し顔を上げて、天井へ向けてゆっくりと吐き出す。長くなった灰を、由莉亜が持っているコップの中に落とす。頭が冴えてくる感覚……。

「理屈って、気持ちで納得できないときに必要なものでしょ。うちは来須さんに会いたいこと、気持ちで納得してたから。理屈は要らなかったの」

「面白い考え方だな。俺は理屈にこだわるきらいがあるから、参考にすべきかも知れない」

 口ではそう云いつつも、煙草を吸いながら考えている。来てみたはいいが、どうやって時間を過ごそう。よく知らない女子高生と二人で、いつまで間が持つだろうか。

「ねえ、うちの顔に煙、吹きかけて」

 おもむろに妙な要求をされた。

「どうして」と訊いてから、理屈はないのだったと思い出す。上目遣いの虚ろな両目。間近で見ると厚めの涙袋に気付く。無気力そうではあるが、本当に整った顔立ちをしている。

「いいから。して欲しいの」

 咥内いっぱいに煙を吸う。火がジュウウウと葉を燃焼させる。そして煙草を口から離して、見下ろした先の由莉亜の顔に吹きかける。彼女は両目を閉じてそれを受けた。

「……嫌だろ、こんなことされたら」

「全然……嫌じゃないよ……」

 わずかに目を開いて、また微笑む。つくづく不思議な子だ。

 そう思って見ていると、その鼻からつーッと血が垂れた。

「また……ごめんね」

 枕元のティッシュ箱に手を伸ばす由莉亜。俺はコップを受け取り、短くなった煙草を中に入れて床に置いた。由莉亜は数枚抜き取ったティッシュを鼻にあてる。

「気にしないで。来須さん、夜ご飯は食べた?」

「ああ、軽く食べてきたよ」

 駅前の牛丼屋で、見るからにうだつが上がらないオッサン連中に囲まれて。

「うち、食べてないの。少しだけ食べるね」

「もしかして俺のこと待ってたのか」

「ううん。食欲がなかっただけだよ」

 由莉亜はまた立ち上がり、流し台の方へ行った。薬缶やかんに水を入れてコンロにかける一方で、カップ焼きそばの包装を破る。不健康そうな肌の色から察せられるとおりの食生活だ。

「実家は遠いのか」

「家の話、したくない」

 やはり何か事情があるらしい。花天月高校は別に名門校なわけでもないから、進学のための一人暮らしとは違うのだ。

「ちょっと無遠慮だったな。実家の話を振られたら嫌なのは俺も同じだよ」

「あまねちゃんが云ってたよ。社会に馴染めない人は、親との関係に不和があるんだって」

「何だそりゃ。にわか哲学に加えて、えせ心理学にまで嵌ってたのか」

「心理学じゃなくて、精神分析学だよ。えっとね……」

 半分まで振り向いた由莉亜は天井を見上げて、何某か思い出そうとする仕草を見せた。鼻血は止まったようで、もうティッシュを鼻にあててはいない。

「人間の子供は最初、お母さんと二人きりの閉ざされた世界にいるんだけど、お父さんに屈服することで、現実の世界に入っていくんだって……。でもそれは痛みや苦しみを伴うことだから、お父さんに上手く屈服できなかった子供は、現実との適合がそれだけ中途半端になる……それが色んな精神病の原因になるんだって」

「だいぶ端折はしょってあるけど、エディプス・コンプレックスのことか?」

「そう。神話が基になってるやつ……」

 由莉亜は頷いたが、フロイトのそれと云うよりも、ジャック・ラカンの父性隠喩かも知れない。あまねの部屋にラカンの本はあっただろうか。

「だが俺は社会不適合者ではないな。むしろエリートだよ。大企業に勤めてる」

「自虐するみたいに云うんだね」

「そりゃあ、大真面目にエリートなんて云ったら馬鹿みたいだろ」

 薬缶が笛の音を立てた。注ぎ口から水蒸気が噴き出している。

 由莉亜は火を止めると、薬缶の湯をカップ焼きそばに注いで蓋をした。

「来須さんはお金がたくさん欲しいの?」

「いや、物欲がないから貯まる一方だが……ちょっとした理想ならある」

「どんな理想?」

「欲しい物があったとき、その値段を気にしたくないんだ。欲しいなら買う、いらないなら買わない。だから金は持っておいた方がいいな」

「でも、そもそも物欲がないなら、モチベーションにはならないんじゃない?」

「モチベーションがなくたってやるのが仕事だよ。答えになってないかもだが」

「そっか……大変だね」

 女子高生がこんな話を聞いて楽しいのだろうか? たぶん楽しくないだろう。

 由莉亜は足元の小さな冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。それとカップ焼きそばのセットが夕食らしい。湯切りの際、ステンレス製の流しがベコベコと音を立てる。

「カップ焼きそばって、焼いてないのにな。詐欺くさいネーミングだと思わないか」

「うん。たしかに」と、少し笑う由莉亜。

 俺はその後も適当なことを喋りながら、彼女が立って食事するのを眺めていた。箸の進みは遅く、麺を途中で何度も噛み切る食べ方は、あまり美味しくなさそうだった。

「ごめん。やっぱ食欲ないや……」

 結局、彼女は残したカップ焼きそばを流しに置いた。水で何度か口をゆすいでから、布団に戻ってくる。俺の正面に腰を下ろして、それから俺に対して小さく首を傾げた。

「そろそろ、する?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ