Epitaph
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絵画や観葉植物のひとつもない殺風景な館内を見て回り、俺は智緑が話していたことを理解した。南口から這入った場合、一階では建物の南半分しか使用できないようだ。
玄関扉から左の通路を進むと、突き当たりを右に折れて、その先にはトイレがあるだけ。
玄関扉から正面の通路を進むと、左右にそれぞれ扉があって、右は洗面所とその奥が浴室、左は調理室とその奥が食糧庫になっている。突き当たりは半円形の〈血の円筒〉で、弧を描く壁に沿って通路が左右に分かれているが、どちらに進んでも行き止まり。
玄関扉から右の通路に進むと、最初に辿ったルートである。途中で階段を上がって、二階では建物の北半分を使用することになる。
二階も通路や部屋の配置は一階と同じ。四つある部屋はいずれも客室だ。ただし〈血の円筒〉に相当する半円形のスペースには、中に這入るためのドアが見当たらない。その壁に沿う通路の先は一階では行き止まりになっていたが、二階では客室の扉にそれぞれ行き着く。浴室や食糧庫と違って、別の客室を経由する造りではないわけだ。建物の外縁に沿って階段の反対側まで行っても、あるのは小さな物置だけ。
同一の間取りが対称となるよう二分割されていると智緑は云っていた。つまり北口から這入った場合、一階は北半分、二階は南半分を使用することになり、南口組と北口組は同じ建物の中をすれ違っている格好なのだろう。
このおかしな構造は何のためか。〈命メ館〉は智緑がひとりで使っているとの話だが、当初は赤鞠も含めて姉妹用につくられた離れだったのかも知れない。別々の人間が生活空間を分けるためと考えない限り、これでは不便で無駄が多すぎる。
俺に宛がわれた客室は二階の北側、階段から最も遠く、中央から見て西北西にあたるそれだった。白を基調とした飾り気のない部屋。調度も簡易ベッドやテーブル、椅子、収納といった最低限が揃っているだけである。
数十分ほど寝心地の悪いベッドでボーッとしていたが、これでは埒が明かない。別の客室を訪ねることにした。北北西は赤鞠、北北東は智緑だが、東北東にもうひとりいるはずだ。部屋を出て西から東へ、半円形に歪んだ通路をぐるりと通って行き着いた扉をノックする。
扉を開けて姿を見せたのは、素行が悪そうな女子だった。髪は茶色に染めて、頭の後ろで雑にくくっている。短く剃った眉毛。左耳にピアス。着ているのは花天月高校の制服だが、ブレザーの代わりに黒いスタジャンを羽織っている。
「あら、あまねちゃんの叔父様かしらん。いらしていることは赤鞠さんから伺いました」
しかし見た目とは裏腹に、馬鹿に丁寧な喋り方と物腰だ。背筋もピンと伸びている。
「きみが〈由布こもる〉か? あくまで身体は、という意味だが」
「いえ、この身体は葉月遊です。中身ならわたくし、梅郷千里でございます」
「えーっと……?」
〈千里〉の中身は由布こもるだという話だった。つまり千里と血液交換を行ったのはこもる。葉月遊という初めて名前を聞く女子が千里の血液を持つと云うのはおかしい。
「わたくしの身体を持つ遊さんが、嘘を吐いているのですわ」
〈遊〉は片手を上げると、少し困ったふうに頭を掻いた。
「わたくしには遊さんの記憶があります。周囲から不良と思われ孤立している遊さんですが、実は日ごろから、みなの輪の中心にいるこもるさんに憧れていたようですの。人格シャッフルによってみなが混乱しているこの機に、元の葉月遊に戻るのではなく、こもるさんに成り代わってしまおうと考えているのでしょう」
「なるほど……葉月遊が梅郷千里の身体に入って、由布こもるの演技をしているんだな?」
「左様です。もっとも智緑さんは誰と誰を交換したか把握しているので、はじめから無理のある企みですけれど」
さすがに頭がこんがらがってきた。俺は懐から手帳とペンを取り出して、状況の整理を試みる。なんでも図や表にするのは社会人になってから身に着いた癖だ。
「〈こもる〉が此処に来ているのも事実なんだよな? その身体には誰が入っていて、こもるの血液は誰の中に――いや、どっちも同じか」
「由莉亜さんだと伺っています。昏木由莉亜さん。一年ベロニカ組の不思議なかたですわ」
「ありがとう。智緑が云っていた〈全六人〉が揃ったよ」
部屋に這入っていいか訊ねると、〈遊〉は快く通してくれた。中身の千里は上品で温厚な性格のようだ。千里の身体を借りた遊は、彼女をブラコンだとか罵っていたが。
「きみはあまね派だったそうだね」
「左様です。しかしその話は控えさせていただきたいですわ」
椅子に腰掛けて、〈遊〉は俯いた。信仰の対象が無残な死を遂げたショックが続いているのだろうか。俺は立ったまま壁に凭れて、話題を変えることにする。
「混濁ならともかく、逆転は不思議だな。人格が血液に紐づいているみたいじゃないか」
「おっしゃるとおりです。はじめのころこそ混乱しましたけれど、いまやわたくしは、血液に乗ってこの肉体に移り住んだかのような感覚で安定しておりますので」
「葉月遊としての意識はどこかに消えたのか」
「記憶はあるのですが、意識と呼べるものはございません。ただし、たとえばこの服装は遊さんのままですの。髪型にしても、千里としてのわたくしはいつも三つ編みにしておりました。しかしいまは、こうしている方が落ち着きます。もちろん学校では遊さんを演じるので、この格好を変えられないという事情もありますけれど」
そういえば〈千里〉も三つ編みおさげのままだった。〈赤鞠〉もレースの手袋を嵌めたままだった。彼女達のあれも、人格交換を周囲に隠すためだけではないのかも知れない。
「面白いことです。私はピアノを弾いた経験などなかったのですが、放課後の音楽室で試してみたところ、難なく弾くことができました。身体が覚えている、と云うのでしょうか。意外なことに、遊さんは小学生のころにピアノを習っていたのですわ」
「意識はなくても、葉月遊の名残りという程度ならあるわけか」
「あら、お上手な表現ですわね」
〈遊〉は歯を剥くみたいな変な笑顔を見せた。
「これでも昔は小説家を志していた身だからな」
「左様ですか。どうして諦めてしまったのかしらん」
「学生のうちにプロになれなかった。いまは仕事に必死で、小説に費やすような時間も体力もない。要するに現実を知ったんだよ」
くだらないことを話してしまった。〈遊〉からすれば心底どうでもいいだろう。現に彼女は反応を寄越さない。そのとき、扉がノックもなしに開けられた。
「遊ちゃん、最初は貴女からっすよー。おっと、来須さんも一緒でしたか」
智緑だ。癖になっているのか、また耳かきをしている。
「血液の再交換か?」
「っすー。チューブの洗浄やセッティングに時間が掛かっちゃいました」
〈遊〉が「待ちくたびれましたわ……」と小さく呟く声が聞こえた。いくらピアノが弾けたところで、自分の身体に帰りたいのが当然の心理だろう。