宇奈智緑の支配領域へ
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金曜の夜。相も変わらず多忙な一週間をこなした疲労困憊の身で〈メゾン・天野サンクチュアリ〉に帰ると、ポストに『雫音あまねに会いたいなら、明日の十七時に此処へ来て』という短い文章と住所だけを綴った便箋が投函されていた。
くだらない悪戯である。俺は先週に、あまねの遺体を確認して遺骨まで受け取っている。今日だって帰宅した俺に「お帰りなさい」と共に時報を告げる声はないのだ。
静まり返った部屋。コートを脱いで、ネクタイを緩めて、煙草に火を点けて、ソファーに沈み込む。それきり立ち上がれる気がしなくなる。コンビニで買った弁当も食べようと思えない。このまま眠ってしまおうか。どうせ誰に咎められるわけでもない。
そういえば、俺はまだソファーを寝台にしている。あまねの部屋はそのまま残してある。もちろん、あまねの死を受け入れられていないのではない。忙しかっただけだ。
吸いかけの煙草を灰皿に放る。身体を横向きに倒すと、ポケットの中の堅い感触が気になった。携帯だ。便箋の住所を調べてみようと思い立つ。検索すると、都内に実在する住所だと分かった。写真も見る。何だ、この豪邸は? 瞼が下りてきた……。
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昼ごろまで眠った後、シャワーを浴びてスーツを着て会社に行った。休日なのでフロアは無人。電話が鳴ることもない。作業に集中できる。
この会社では持出禁止の社有PCの使用しか認められておらず、ログオン・ログオフの時刻を記録されるのだが、俺はそれを二台持っている。平日の九時に点けて十七時に落とすPCと、一年中点けっぱなしのPC。後者であれば時間外労働を捕捉されない。
しかし今日は、十五時を過ぎたくらいから集中力が著しく低下した。腕時計をちらちらと確認するようになった。あの便箋が気になり始めてしまったのだ。
『雫音あまねに会いたいなら、明日の十七時に此処へ来て』
あまねに会えるなんて世迷言を本気にしたのではない。だが差出人の意図は何だ? どうして時間や住所を指定している?
結局、俺は十六時過ぎに会社を出た。
電車で三十分。駅からタクシーで十分。昨晩調べたとおり、郊外の高級住宅地の一角、千坪は越えるだろう豪邸の前に到着する。
身の丈以上ある両開きの鉄の門扉。その右側の柱に掛けられた表札を見て、意外な驚きに打たれた。『宇奈』と書かれているではないか。
「おにーさん、ボクの家にご用っすかー」
頭上から妙に平坦な声が降ってきた。どうやって上ったのか、鉛色の空を背景にして、深緑色のジャージを着た女子が柱の上で胡坐をかいていた。大きな丸ぶち眼鏡がライトに反射している。頭の上では、長さの足りていないポニーテールがぴょんと跳ねている。
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔――なんて云いますけど、実際にそんな場面を見たことあります? 慣用的な比喩表現って、ボクにはよく理解できないんすよねー」
「……俺を呼び出したのはきみか?」
「おにーさん、呼び出されて来たんすか」
「昨日、ポストにこれが入っていた」
手帳に挟んでおいた例の便箋を掲げる。女子は落ちないか心配なほど身を乗り出した。
「へー。おにーさんはあまね先輩の実兄か何かすか」
「あいつを世話してた叔父だよ。きみも花天月高校の生徒なのか」
「一年カトレア組、宇奈智緑っす。おにーさんは来須さんすよねー」
「もしかして赤鞠の妹か。俺のこともあいつから聞いたんだな?」
「っすー」と頷く智緑。姉と違ってプライドやこだわりは強くなさそうだ。
それにしても、赤鞠がこんな豪邸に住んでいたとは。お嬢様ぶった振舞いは、まんざら嘘でもなかったのか。
「もう一度訊くが、俺を呼び出したのはきみ?」
「違いますね。だいたい、あまね先輩って死んだじゃないすか」
腕時計を確認すると、便箋に指定された十七時。だが周囲には俺達の他に誰もいない。
「きみは一日中、其処に座ってるのか?」
「まさかー。人を待ってるんすよ。来須さんじゃなくて別の人っす」
「俺を呼んだのは赤鞠かも知れないな……。あいつは中にいるのか?」
「いますけど、お姉ちゃんは今ちょっと大変なんすよねー」
突然、金属質な音を響かせながら、鉄の門扉がひとりでに奥へ開き始めた。さらに智緑が身軽な感じで俺の傍らに降り立った。
姉とは正反対に背丈が低い。近くで見ると顔の造形は似ているが、半開きの目に口元が皮肉っぽい薄笑いで固定された表情は独特だ。眼鏡のレンズには指で触れた跡がたくさん付いていて、久しく拭いていないと分かる。
「このまま帰るつもりでもないすよね? いいっすよ、這入って」
彼女はジャージのポケットに両手を突っ込むと、先に立って歩き出した。雪でも降り出しそうな寒さなのに、履いているのはサンダル。首に掛けているヘッドホンだけが高級品である。趣味のもの以外には無頓着というタイプなのだろう。
俺が完全に敷地内に這入ると、今度もまた門扉が触れずして閉じ始める。人感センサーでは開いたタイミングに説明がつかない。智緑のポケットにリモコンがあるのだろうか。
「他の人を待っていたんじゃなかったのか」
「前にも来たことがある人なんで。着いたら電話くれるでしょうし、門を開ければひとりでも這入ってきますよ。だけど来須さんはそういうわけにいきません」
石畳の道が、十メートルほど前方にそびえる邸宅の玄関へと真っすぐ伸びている。しかし智緑は早々に右手へ逸れて、短く刈り込んだ芝生の上を歩いて行く。
噴水や彫刻が並ぶ庭と雑木林を抜けて、邸宅の裏へと迂回すると、奥に二階建ての真っ白な離れがあると分かった。離れとは云っても、一般的な一軒家よりもひと回りは大きい。
「ご両親は何をしているんだ」
訊ねてみると、宇奈家は代々、医者の家系なのだという答えが返ってきた。祖父が院長を務めているという病院の名は、俺も知っている有名なものだった。しかし赤鞠と智緑には他に兄弟がおらず、跡継ぎをどうするか問題になっているらしい。
離れの玄関扉の前に辿り着くと、智緑はポケットから取り出した小型端末を操作した。ガチャリと開錠の音が響く。それから両開きの扉を手前に引いて、身体を脇にどけた。
「どーぞどーぞ。這入ってくださいー」
俺は何某かの罠に掛かっているかのような……知らず知らず、取り返しのつかない所まで来てしまったかのような……そんな気分になりながら、足を踏み入れた。背後から智緑の平坦な声が告げる。
「ようこそ、来須さん。ボクの支配領域――〈命メ館〉に」