4. 記憶(1)
美優と隆司の過去話。ちょっと過去話が長くなりそうな予感。
あれから梅干しの消費率が高い。
美優は出会って間もない男の影響をうけている自分自身に驚いたが、不思議といやではなかった。あれから、難しく考えるのはやめた。世界はどうしようもなく、面倒くさいことも起こるし、ささやかな幸せ(そんなに良いものじゃないことのほうが多いけれど)もきちんとやってくるようになっているのだ、とも思ったからだ。その証拠に、昨日は実家から梅干しと田舎味噌が届いた。そして鯵の酢漬けのレシピも(酢漬けは美優の大好物である)。
レオが鼻をよせてくる。洗いたての犬用シャンプーの匂い。頭をなで終えられると、自分の匂いが消えたことが気に入らないのか、壁やソファに体をこすりつけている。
ベランダに出ると、洗濯物の隙間から向い側のマンションが見える。そして、見下ろせば公園の遊具で遊んでいる子供たちが見える。
「平和だなぁ。」
つぶやいて、なんだか心が落ち着いていた。
朝ご飯に、すいすいと白米と梅干しとお味噌汁をたいらげ、洗濯物を干し、部屋の掃除もした。その上、窓ふきもしたから太陽の光はきちんと窓に反射している。
正しく生きている、そんな感じだ。前向きに生きるとはこういうことなのだろうか。
部屋に戻ると、お気に入りの音楽をかける。たまたまCDショップでジャケットがきれいという理由だけで買ったインディーズバンドの安っぽい曲。安っぽいが、今の美優にはそれが自分に合っている気がしたし、「若者」という感じの歌詞も懐かしく感じられてだらだらと聴くには申し分なかった。もう何回もリピートしているので、鼻歌もまじる。レオはやっと自分の部屋に戻って音がピーピーなるおもちゃをかんでいる。
あれから、隆司という男からの連絡はこない。
当たり前だが、あの状況と、表情では美優が隆司をふったというのが妥当な判断だろう。というより、これでふられてないと思っているとしたら、あの隆司という男はいろんな意味で型からはずれている。
でも、あの男ならそれもあり得ると、美優はくつくつ笑った。美優の気持ちは期待半分、迷い半分といったところで、連絡する気はないが、また連絡があったら会いに行きたいと思っていた。
なんて、言ったら全国の男性陣から「何様だ!」とクレームがきそうだが、別に関係ない。ただ、思っている分には(と美優は思う)。プライドの問題ではなく、全てはきっかけと勢いなのだ。そして相手を想う気持ち。
美優は隆司を想う代わりに、そしてため息をつくかわりに、深呼吸をした。一日分の酸素を吸うことをイメージして。誰かを想うということは、そんなに簡単なことではない。決して、決して、簡単なことではない。だから私は未だに気が緩むと頭の中があの日のことでいっぱいになるのだ。こぼれた色とりどりの液体。白い足は見えなくなり、手は赤く染まっていた。私が気がつくと心配そうなあの人の顔と白い天井が目の前にあった。天気予報では今年一番の寒さだと言っていたあの日、きっとあの人は風邪をひいていた。顔が真っ赤だったもの。あの時だけだ、私があの人と出会って別れるまでに泣いたのは。
ぴーんぽーん
現実に戻る。しっかりしないと、どこまでが夢で、記憶で、現実なのか、その境目がわからなくなってしまう。菜月にも「昨日は夢の中で会ったんだっけ?」と、よくからかわれたものだ。
ぴーんぽーん
「はーい。はい。」
レオがチャイムに反応して私より先に玄関に向かう。
「レオ、待てだよ。飛びついたりしたら怒るからね。」
私の忠告を無視してレオの尻尾はぶんぶんと左右に振られている。これは危ないかもしれない。
宅急便の配達員に飛びついて尻もちをつかせた前科があるレオがこれ以上誰かを押し倒したりしたら、私はこのマンションから追い出されかねない。
「レオ、クッキー。だから、ハウス!」
見事なダッシュでレオは戻る。食べものが絡むと、犬が変わったようにレオは賢くなる。
ぴーんぽーん
「はーい、今あけますよっと。」
つま先でふんだスニーカーで片足のバランスをとりながらドアを開ける。
「来ちゃった。」
相変わらず、さわやかな笑顔で、そんなことを言い出す男を私はどうしたら帰せたというのだろう。
隆司という男は、どうやら型はずれな男らしい。