依頼
宿の一部屋を私は与えられた。
宿の主である夫婦は随分と恐縮しているようだった。
「お嬢さん、少し話があるのよ」
宿まで送ってくれた老婦人。名前は勒婦人というらしい。彼女は柔和な笑みを浮かべ私に座るよう促した。
「あまり人の言うことを鵜吞みにしないといいわ」
それはどんな意味だろう。
「まさかあの薄が言っていたことが嘘ばかりだって気が付いていなかったの?」
「嘘?」
私は首をかしげた。
「あの女が、佶家の息子を救う手段なんて持っていないわ、それが嘘」
「でも、それならどうしてそんなことを言ったんでしょう」
婦人は眉をひそめた。
「佶家のあの老婦人に恨みがあったのよ、だから佶家に関係のある人間に嫌がらせがしたかっただけ、貴女以外は手の届かないところに行ってしまったから」
遠いところ、私の手の届かない場所。思わず彼方に目を凝らすけれど、壁がぼやけただけだった。
「あの方もですか?」
「そうね、貴女のお父様は佶家と取引があったのでしょう。佶家が無くなったら新しい取引先が必要となるはずよ」
そうだろう私を嫁がすくらいだから、お父様も佶家を重要な取引先だと思っていたはずだ。
「だから、私の家がその代わりを務めたいとお父様に伝えてくれないかしら」
この国を出て、私は元の国に戻る。その時にということだろうか。でもどうしてそんなことを言い出したのかしら。
「でも、私どうやって国に帰ればいいのかしら」
愛亜は紙も筆もないから手紙が書けないと言っていたわ。
「お父様に手紙を書いたら届けてくださるのですか?」
婦人はほっとしたように笑う。
「家に帰ることは心配いらないわ、ちゃんと手続きさえすれば強制送還されるはずだから」
強制送還という言葉の意味が分からず私は首をかしげる。
「それは役場で聞いてちょうだい、それと、明日の朝までに手紙を書いておいてね」
そう言われて私は頷いた。
「紙と筆はこの宿の主人に言づけておいたから大丈夫。明日の朝中に書いておいてちょうだい。そのあと役所に手続きに行かなければならないの」
怒涛のように言われて私はこくこくと頷くしかなかった。
「わかればよろしい、それでは明日また会いましょう、食事も出してあげるから」
ふと何か肉と野菜の煮えるいい匂いがした。くるくるとおなかが鳴る。
生まれて初めてこんな音を聞いた。
「お嬢様、お食事だそうです」
愛亜が呼びに来た。
不意に婦人が大きくため息をついた。
「貴女も大変ね」
そう愛亜に話しかけていた。愛亜がどんな顔をして受け答えしたのかは私に背を向ける格好になっていたのでわからなかった。