63「いずれ、頂きにあがります」
ベンチに座りながら、爽は缶コーラをあおる。喉を痛い程の炭酸が走り抜け、生きていることを実感する。
姉の評価は【よく帰ってきたね】だった。それ以外の言葉がなかった。安堵の表情を見せる姉の姿なんてあまり見たことがなかった気がする。実験室の研究者の中でも、サンプルに感情移入する変人という表現をされていた【トレー】であっても、だ――。
【帰ってきた】
確かに。まだ帰ってこられたという実感が無い程に、時々アドレナリンが沸き上がる。それは高揚感からでは無い。むしろ危機感から。
背筋が凍りそうになるのだ。
爽の選択肢一つで、ひなた達を危険に晒すところだった。他に選択肢はあったとも言えるし、なかったとも言える。曖昧な思考になるのは、結果を前にして、過去の選択肢に対しての『だろう論」になるからだ。でも、それでは支援型サンプルとして存在意義すらない。
この思考そのものが、分析にはほど遠い感情論なのも分かっている。だとしても、だ。
――ひなたを失うのが怖い。
姉はもとより、野原彩子も呆れ顔を隠さない。
でも、と思う。
爽は決めたのだ。ひなたの手を離さないと。何がなんでも、ひなたを守ると誓って。
支援型サンプルが何を、と姉は笑わなかった。
――爽君ができる最大限のことを考えたらいいんじゃない。
ニッと茜は笑う。でも、宗方さんは守られてばかりの女の子じゃないみたいだけどね?
さらに意味深に笑んで。
野原彩子は大きくため息をついて言う。
――オトコってバカよね。優等生といい水原君といい。ひなたが一方的に守って欲しいなんて一言でも言ったの?
野原彩子は突き放すように言う。
それは分かっている。そうだとしても――だからこそ――。
何も分かってないわよ、バカ。
脳内で叱咤する野原彩子の苦笑をかき消すように、その男は爽の隣に、腰を下ろした。
「お隣、失礼」
すでに座っておきながら何を――と言って硬直する。白衣で白昼堂々と振る舞う彼は、あまりにも自然で、群衆の中に違和感なく溶け込んでいた。
「あえて自己紹介をする必要は無いと思いますが、実験室で室長をしている者です。君は私のことをよく知っているとは思いますが、これも何かの縁です。以後お見知りおきを」
戦慄が走るが、動くことを爽は諦めた。耳鳴りにも近い共鳴音――ナンバリング・リンクスが実験室サンプルの存在を表明してくれる。
「特化型の水原君が今まで検知できなかった事で、もうお分かりかな、と思います。配置している私のサンプル達の性能が、ね」
彼はニンマリと笑んだ。
(特化型サンプル――)
爽は唇を噛む。あえてナンバリング・リンクスを鳴らすのは、嘲笑のようですらある。下位サンプルが鳴らす高周波。だが特化型サンプルとなれば、それを隠すことも造作ない。
それをあえて鳴らすのだから、悪趣味以外の何ものでもない。
「監視対象の自覚がない事はさておき、君たちの成果は刮目に値します。そこは素直に称賛を讃えるべきだと思うわけです」
ゆったりと言う言葉は、穏やかでありながら冷然としていた。
「そちらこそ無防備に登場とは、いささか不用心じゃないか?」
カードを一枚出す感覚で、言葉を選ぶ。だがこのゲームは完全にフラスコの手の上であるのは間違いない。
「そうですね。私も私自身の立ち位置を理解しているつもりです。元実験室研究者にして、同志トレーとは違ってね。もちろん、特化型サンプル【ナイト】【ポーン】【ビショップ】を連れてはおりますが、君が必死の抵抗をすれば投入も無意味かもしれませんね。そこを理解しているつもりではいますよ」
流暢に、そしてさらりと、とんでもない事を言う。
「それは俺を拿捕するという目的で?」
「まさか、今日は君とお喋りをしに来ただけです」
フラスコは笑む。
「この街中で、実験室サンプルの存在が明るみに出ることは私の本意ではありません。今はまだその時ではない」
「その時がくると?」
「時々、君が支援型サンプルであることを忘れそうになりますが、成る程ね。攻撃的でありながら、冷静であり。沈着でありながら煽る。まさしくトレーの弟君に相応しいじゃないですか」
フラスコは爽が持っていたコーラを無造作に奪い、一口飲む。
「いずれ、頂きにあがります」
何を、とはフラスコは言わなかった。
何を、と爽は聞かなかった。ただその目は、敵意と殺意だけをしたためる。
フラスコは笑む。
「実験室のサンプルが絶対に見せない表情か――つくづく、君たちは面白い」
敬語を捨てて、ニンマリと彼は笑んだ。
フラスコは立ちあがる。ナンバリング・リンクスの共鳴音は、それが合図と言わんばかりに、すっと消えた。
「また会いましょう」
雑踏の中、白衣を翻して。フラスコはその姿を消していく。
爽は唇を噛み締めながら、ただ見やる。一矢報いる手が無いわけでない。だが、それを姉貴分――野原綾子が、感覚通知で制止したのだ。
【特化型サンプルは三体じゃない。四体いたよ? 絶対に手出しはしないこと。やり過ごす事も戦略なのは、水原君なら分かるでしょ? 今は一戦交える時じゃない。まだその時じゃないから!】
言葉豊富に次々と送信されてくるのを聞きながら、バージョンアップさせた感覚通知の成果が出ているじゃないか、と呑気なことを思う。
彩子は淡々としているように見せて、必死に爽を制止しようと懸命で。
今回ばかりは、野原彩子に感謝せざる得ない。――否、いつも感謝なのだ。彼女のアシストにいくら助けられたことか。
このもう一人の姉は、悪辣な物言いをしながらも、誰よりも爽のことを想ってくれているのが、ひしひしと分かる。
だから、無謀な行動をしようとは思わない。それは支援型サンプルとして、踏んではいけない過ちであることを自覚していた。
【全部を一人で片付けようなんて、それこそ思い上がりなんじゃない?】
彩子はそう言う。
爽は苦笑いを浮かべた。
確かにね、と思う。だから――と言う訳ではないが、爽は八つ当たり気味に呟く。これくらいは悪態をついても、支障はないはずだ。
「コーラぐらい、自分で買えよ」
感覚通知越しに、彩子の盛大なため息が聞こえたのが、なんともおかしい。
待ち合わせ時間まで後、15分――。
今だけはささやかな現実を満喫したいと、思考を切り替える。臨戦態勢の鼓動を抑えるのには、少し時間が足りない気もするが、それでもだ。ひなたに心配をかけたくない。
――その考えそのものがバカだって言ってるのにね。
彩子のその言葉はあえて無視をして、爽は大きく背伸びをするのだった。