62「そんなんじゃ、な、な、無いから、無いから!」
「おしゃれして、どうしたの?」
母に声をかけられてドキリとした。母から見ても分かるのだろうか――ガラにもなく、胸が高鳴るのはどうしてなんだろう、と思う。それだけで顔が――熱い。
「え、そ、そんな、オシャレなんかしてない、よ?」
自分で言ってオカシイと思う。母と買い物に行く時しか着ないワンピースをわざわざ選んで、同じく母と出かける時にしか使わないハンドバッグを持ち出して、お気に入りの髪留めをして、爽からもらったネックレスをさり気なく見えるように首にかけて。
と、母は小さく微笑む。そっとペンダントに触れた。
「水原君がくれたんだったわね」
それから、ひなたの髪に触れる。
「髪がはねてる。折角のオシャレが台無しよ?」
と櫛を手に取り、髪を梳いていく。
不思議な感じがする。少なくとも、 今までこんな記憶はなかったから。
ずっと願って夢に見ていたことが、今目の前にあって。――思いもよらずに、感情が揺れる。
「こらこら、なんて顔してるの」
母がクスリと笑いながら、ハンカチを取り出す。
「水原君とのデートなのに、そんな顔してちゃダメでしょ?」
突然の爆弾発言に、ひなたの頭は真っ白になった。
「ち、ちが、そんなんじゃ、な、な、無いから、無いから!」
血流が駆け巡り、鼓動が脈打つのが自分でも分かった。頬が熱くて湯立つような気がする。母はそれを見てクスリと笑う。
「ま、理由は何であれいいんじゃない? ひなたは水原君の前では遠慮なく自分を出せるみたいだしね」
「う、う……ん」
コクリと頷く。それは母の言うとおりだと思う。爽が一番最初にひなたという存在を肯定してくれた。次に【緋色】の存在も肯定してくれた。青い、とひなたの中の彼女は吐き捨てるのが瞼の裏に浮かぶが、それでもひなたは嬉しかった。
――実験室にいた当時の記憶が断片的に抜け落ちて、いまいち実感がないにしても、だ。
と、母は幾つか化粧品を取り出した。
「え?」
「せっかくだから、メイクをしてあげる。ひなたは素のままでも可愛いと思うけど、いつもと違うひなたを水原君に見せてあげるのもいいんじゃない?」
とパフを肌に走らせていく。鏡を見やりながら、まるで自分じゃない気がする。母は小さく笑む。
「水原君がその手を離せないくらい、可愛いと思うわよ」
「え……」
鏡を再度見やる。自信はまるでないが、子どもの殻を突き破った、少し大人の表情を垣間見せる、ひなたがそこには居た。
「楽しんでいらっしゃい」
そう母が微笑む。ひなたは――満面の笑顔で大きく頷いた。
「あ、ひなた?」
「なに?」
「羽目を外すのはいいけど、避妊はしっかりね?」
「え――」
ひなたは固まる。その意味を要するまで30秒、その後慌てふためき、声にならない声が、家中に響いたのだった。
「いってらっしゃい」
変わらぬペースで、シャーレは娘を見送る。
ひなたが出たのを確認してから、ずっとハンドバックの中でバイブ音を振動させ続けていたスマートフォンを手に取る。案の定、スピッツからのメッセージが表示されていた。
【エリクシール生成に向けて、実験を第2段階にシフトさせる。引き続き、被験体の生態観察に努めよ。こちらはエメラルド・タブレッドの起動に全力を尽くす。並行し、サンプルたちの負荷試験も進める。ログは随時送信すること】
シャーレは小さく息をついた。
エリクシール。――即ち、生命の妙薬。輪廻の輪から外れた悪魔の所業と言える。それは研究に関わってきたシャーレ自身が自覚していた。
喉から手が出る程に渇望しているのは事実だ。その一方で――ひなたの笑顔が目蓋の裏側にチラつく。
どうにかしていると思いながらも、自分がつくため息の重さの意味が分からない。
ただ研究者シャーレとして、彼女は自動的に義務的に呟くのだ。
「――Enter」




