56「稼働試験」
「本当にやっちゃったね、宗方さん」
茜はディスプレイのモニターを見ながら、深く椅子に座り込む。饒舌だったスピッツ――ひなたの父も、黙り込んで注視していた。
と、その唇がほんの少しだけ歪んだ笑みを見せている。
「スピッツ?」
「まさか、ここまでとは思わなかったよ、トレー」
ディスプレイを覗きこみ、彩子が続けている分析を見やる。
「君の研究成果は確かに出た。本腰で実験に協力しよう、と思うよ」
「……」
「サンプル【限りなく水色に近い緋色】の課題は安定稼働に尽きた。だが、なかなかどうして、様々な検討項目があるじゃないか?」
「開発者様のご意向聞こうじゃない」
茜は感情を排除して言う。あえてこめた感情――殺意だけを灯して。
「攻撃細胞と万能細胞、それぞれを重ね合わせた遺伝子研究サンプル、これがそもそもの目的だった。だが蓋を開けてみれば、両遺伝子は拮抗し、オーバードライブを繰り返した。挙句、実験室初のエクストリームドライブだ。失敗作と言って差し支えないだろう? シャーレは常にそこだけは反対したが、研究を分析した結果だ」
「何が言いたいのか、理解に苦しむんだけど、スピッツ?」
「そう、怖い目で睨むな、トレー」
楽しそうにクツクツと笑む。
「遺伝子研究特化型サンプル【限りなく水色に近い緋色】を管理したのは、トレーの爽君なのは間違いない。管理が必要な欠陥型サンプルとも言えるし、可能性があるサンプルとも言える。サンプルを兵士となぞらえるなら、特化すべきは一個人の兵士ではなく、統率された軍隊だという意見も、今なら大きく頷ける。だからこそ――稼働試験に協力してもいいと思っている」
「協力?」
茜は眉をピクリと寄せる。
「単純なことだ。サンプルがどの研究者に信頼し、稼働しているかは一目瞭然だ。そこに私がしゃしゃり出て、サンプル調整してもいい結果にはならない。それならば――」
「高見の見物か、スピッツは」
茜の物言いに、スピッツは静かな微笑みを返す。
「実際私はひなたのサンプル調整を行ってない。それどころか、ひなたの中では実験室での研究は引退したと言う設定になっている。そんな私が、どんな顔をしてあの子を切り刻めと言う――」
スピッツに最後まで言わせずに、茜は腕を凪ぐ。無音でスピッツの頬を裂き、血を滴らせた。
「精度あげたんじゃないか、トレー? 【抜刀】をますます、自分のものにしているじゃないか。さすがは実験室で一二を争う逸材と言われた研究者だ。この分じゃ【鎌鼬】の精度も――」
「そんなに試したいのか、スピッツ? 今のボクはいささか機嫌が悪い。喧嘩を売りたいなら、即お買い上げしてあげたい、そんな気分だけどどうする?」
スピッツは表情を変えず笑みを零す。と、その目が色を変える。楽しみから、歓喜、そして狂気に満ちた目で何かを呟きながら。ブツブツブツ、と。感情を何ら込めずに事務的に。
茜はそれを確かに聞いたのだ。
聞き取れた、唯一の単語を。
彼は確かにこう言った。
――Enter.
茜は目を見開く。
「諸君」
とスピッツは言う。
「私は予定が詰まっている、今夜はこれで 御暇おいとまするよ。日和、研究室に戻る。明日の夕方には帰られるように頑張るから。いつもすまないな――愛してるよ」
そう口吻を交わし、スピッツは足音もなく部屋を出て行く。
「茜ちゃん?」
彩子が怪訝そうに見るが、それどころではなかった。シャーレを見る。機械的な表情で、スピッツの背中を追う。端から見れば、なんて熱愛夫婦なんだろと思うだろう。
彼らは共通の目的のために、夫婦であることを契約した他人でしか無い。
「シャーレ。スピッツは【弁護無き裁判団】のシステムそのものを――」
ハッキングしたのか? と問い詰めるはずの言葉は、映像からの爆発音で奪われた。
ディスプレイを覗き込む必要もなく炎が弾け、煙が上がり壁が崩れる。監視カメラは激しく揺れ――そして暗闇のまま、沈黙した。
「火薬反応を施設から検知。全ブロックに均等に破壊行動を記録。発火能力の兆候ゼロ? ひなたのオーバードライブじゃない……? 茜ちゃん、小規模核分裂反応を確認!」
彩子のデータ分析を聞きながら、拳を固める。
スピッツは読み上げた意味不明な言葉に、何故もっと早く気づかなかったのか。研究者は誰だ? どこにいる? 【弁護無き裁判団】を開発したのは誰か?
(――ボクだ)
その自分が勝利の高揚感にほだされて、冷静な分析ができていなかった。
平和ボケしているのは宗方ひなたでは無い。水原爽でもない。他の誰でもない、この、この、この、ここにいる――この、ボクだ。
スピッツの呟きに何故、もっと早く気づかなかったのか。あれは、単純な命令ではない。【弁護無き裁判団】が【弁護無き裁判団】をリンクさせ共有し統一した行動をする為の、限定プログラミング言語だ。それは【弁護無き裁判団】でしか行使できない。
【弁護無き裁判団】は間違いなくシステムを改編されたのだ。そうであれば遠藤ことNo.Kのエラーも解釈できる。と、思考を巡らしていると、シャーレが茜の肩に触れる。
「茜ちゃん、お願いがあるの」
シャーレは言った。
「ここで待つ事なんかできない。ひなたの所に行かせて」
茜はシャーレの顔を見る。本当であれば、ここで問い詰めるべきだ。彼女はスピッツが何を思って動いているのかを知る唯一の人物のはずだ。でもその言葉を叩きつけることが、今の茜にはできなかった。
母親の顔で、シャーレは茜を見る。
「あの人がなんと言っても、私はひなたの母親だから。嘘つきと言われても、私はこれだけは曲げないってもう決めたから。お母さんらしいことを何一つ、あの子にはできてないけれど、私だけは――あの子には――私は――」
言葉にならず、顔を歪ませながら呟く言葉が痛い。茜は大きく息をついた。
「……戦略もクソもないね、こうなったら。あーや、出発の準備をお願い」
「もう完了してる。自動運転車を用意したから、すぐ行けるよ?」
「フルスピード、最高出力でお願い、って言わなくてもやるんだろうけどさ」
「ラジャ」
ニッと笑って彩子は言う。
彩子はすでに行動に移しているのが頼もしい。シャーレとともに、その後を追いながら思う。
――すでに手遅れの可能性はあるのだ。
遺伝子研究特化型サンプルであれば、ある程度の耐性がある。支援型の爽であれそれは例外ではない。実験室の耐性試験をパスした実績が彼にはあるのだから。
だが未検証のサンプルにはその保証は無い。まして一般人のみのりや、廃材には――。
と、スピッツの言葉が脳裏で再生された。
だからこそ――稼働試験に協力してもいいと思っている。
茜は思考を切り替える。今思考すべきは、そんな雑念じゃない。検証は後でもできる。最善の危機回避と対応策と行動を示すのが、茜の仕事なのだ。
考えろ、考えて、行動しろ。それだけを思いながら。
流線型をイメージした、黒いスポーツカーが宗方家の前に停車していた。彩子が乗った瞬間にエンジンが稼働する。ハンドルは存在せず、彩子はディスプレイにタッチする。文字が流れるようにスクロールし、彩子が命令をこの瞬間にも出していく。
位置情報と最新の地図データ、リアルタイムの交通情報を分析した上で最短の距離を走行するのだ。後は彩子に任せておけばいい。多少――運転は乱暴だが。
「シャーレ、シートベルトは必須だからね、喋ったらダメだよ。間違いなく舌を噛むから」
と茜は諦めたような声で言った。
「え?」
と言ったシャーレの声は、間髪入れず絶叫となって響いた事だけをココでは記しておく。
(宗方さん達、無事でいないと承知しないよ)
研究者らしくないと笑うなら笑えばいい。今や、サンプルの一人としては到底見られなくなった少女達のことを、茜は祈らずにいられなかった。