37「この火は消させない」
スマートフォンをその指で滑らせる。タッチ、フリック、フリック、タッチ。流れるように、よどみなく一瞬で短文を完成させる。そして送信。傍受される事を前提に、爽は一般回線を介してあえて送信をしたのだ。
【今夜、零時】
夕陽に溶け込んだ画面の光が何とも無機質で。爽は公園のベンチで小さく息をつく。気の早い街灯がもう点灯している。
残りの時間は短い。でもその間に極力、準備をする。爽は思考を巡らす。
翻弄されている、と思う。
自分のペースに引き寄せられないのを実感する。姉はそんな爽の心情を見透かしたかのように、笑む。
──だって、戦場ってそういうモノだよ?
爽は唾を飲み込んで、姉の顔を見た。姉は笑みを絶やさない。爽はそれを望んだ。ただ一人の少女との平穏を──。
それが如何に難しいか、分かっているつもりだったが──考えが甘いよ? 姉はニンマリ笑って言う。
もっとも、それが爽君だけどね。さらに笑んで。
爽は思考を切り替える。
今度は別のプログラムを稼働させた。文字だらけの羅列が高速で動いていく。先程のメール送信がハッキングされることを前提とした餌であれば、このプログラムは爽にとっての本題でもある。姉ならば解除もできるだろう。だがそれも途方も無い時間を要するはずだ。彼とデバッガーが作り上げた自信作でもある。いわゆる双方向コミュニケーションツール、チャットと呼ばれるモノだ。画像も映像も音声もデータの添付もできない。そのかわりハッキングもさせない。
【パスワードを要求します】
爽はいくつかの操作を繰り返す。その中には眼底認証、指紋認証も含まれていたが、当然難なくパスをする。
【ログインしました】
【developer、ログイン中】
sou>>おまたせ
Developer>>餌はもうばらまいたの?
sou>>まぁね。
Developerr>>本気なんだね。
sou>>今更、それ聞く?
Developer>>相手が実験室って聞いたら、普通は考える。
sou>>強制はしない。協力は感謝している。
Developer>>なに、格好つけてるんだか。
sou>>え?
Developerr>>あの子が絡むと、君はまったく冷静じゃないの自覚ある?
sou>>そんなことは
Developer>>ない?
Developerr>>ない訳ないでしょ。図書室の件は如実に物語っているね。彼女の潜在能力を持ってすれば、量産型サンプルの撃退なんて易いでしょ。水原君が共同戦線をはる理由はない。
sou>>ことを大きくしたくなかっただけだから。
developer>>茜ちゃんに一矢報いいる能力のある子を? 本来なら【調整】をする段階なのに?
sou>>それはご両親が!
developer>>シャーレとスピッツ? 彼らはすでに実験室から退き、娘を被験体とすることを止めている。今【調整】できるのは誰だと思ってるの? 君はどんな存在意義をもって、【限りなく水色に近い緋色】の【デバッガー】として稼動しているの?
developer>>散々、茜ちゃんに言われたんだろうけど。水原君、君はひなたを大切にしすぎている。でも君の能力だけじゃ、ひなたを守れない。その自覚はある?
sou>>わかってる。
developer>>わかってない。だから冷静じゃないと言っている。もう【調整】をする時間もない。だから今の戦力で、最大限の火力と安定稼働が必要なの。本来はコレ、水原君の仕事。らしくないにも程があるの少し自覚して。
sou>>そうかな。
developer>>自覚なしだね。ひなたの周囲をうろつく男子は消し炭にしそうな勢いだけど、ココ最近?
sou>>そんなことない。
developer>>まぁ、いいけどね。旧清掃工場の間取り図は茜ちゃんに届けたから、受け取って。それと頼まれたモノは宗方家に届けておいたよ。姑息だけど妥当だし、良いプランだと思う。サービスでおまけもつけておいたから。
sou>>いつも、感謝してる。
developer>>これが私にできる精一杯。あとは健闘を祈る、ひなたをよろしくね。
無機質な電子音が響くとともに、ダイアログが表示された。
【developerがログアウトしました】
爽自身もログアウトしてスマートフォンをしまう。ぼんやりと夕焼けを見やる。
布石は置いた。戦略も組み立てた。あとはベストコンディションをひなたとゆかりに保たせること。これしかない。
今までの経緯を反省しても、勝てない勝負ではなかった。ただ相手が上手だったことと、爽の詰めの甘さが祟ったのだ。それは茜にも言及された。相手は実験室、少々の一手で牙城を崩せるはずかない。
今の現状を最大限に分析し、それ以上の情報を抽出する。最初から王手しか考えない。その為にはたったひとつの 作戦プランだけでは足りない。多重的に多面的に多角的に、戦場を支配することが望まれている。それが【限りなく水色に近い緋色】の【デバッガー】の仕事だ。
それができなければ――ひなたを実験室に奪われる。何があってもそれだけは受け入れられない。もうイヤなのだ、力が及ばず諦めてしまうのは。
脳内で棋譜をイメージ。立案が万全でも、実戦は不確定要素が多いことは体験済みだ。それを踏まえて、王手をかける。
羽島公平の為ではない。誰の為でなく、ただ一人の為に。理由を上げるとしたら、ただそれだけで。
――難儀な恋路だね。
姉は茶化すが、言われるまでもない。
ひなたがどうしたいのか、と爽は問うた。だが実験室と向き合う以上、爽には選択肢は一択しかないのだ。そうでなければ、ひなたを諦めて傍観するしかない。でもその選択肢はない。
(ひなたと共に、実験室に抗う)
限りなく単純明快なシンプルアンサー。
(らしくない、か)
デベロッパーに指摘されるまでもなく、浮ついている自覚がある。武者震いとも言えるし、恐怖している自分もいる。でもそれ以上に――ワクワクしているのだ。
バケモノの片棒担ぐつもりあるの? ひなたはそう言った。勿論、と爽は答えた。迷いはない、躊躇いもない。あの時から実験室に抗うことに何の抵抗のない自分がいる。
――ひなたが一緒だから。
幼い時のひなたの言葉が、爽に勇気をくれる。
――爽君がいるから、大丈夫。
本当は毎日の実験で、不安でしかたなかったはずなのに。愛情を求めた両親は、実験対象としか見てくれなかったのに。たった一人で泣いていたことを爽は知っていた。それなのに結局、爽は何もできなかった。
あの時の記憶を打ち払う。皮肉にもひなたが、 極限能力最上稼働エクストリームドライブをする直前のことだった。
未だ残る火傷の痕を服の上から擦る。痛みはない。恐怖もない。恐れていない。怖くもない。ただあの時、爽は何もできなかった。ひなたの苦しみを爽は救うことができなかった。力不足、その一言に尽きる。
夕焼けはひなたの炎を連想させる。あの時、怒りと嘆きの感情に任せて暴れ狂った炎が、今ではなんて優しくも暖かいのか。まるで灯し始めた、誰かに手を差し伸べよう懸命なひなたの勇気のようだと思う。
(──この火は消させない)
爽の思考は演算を繰り返す。
時間ぎりぎりまで情報収集を。
勝率を上げる為に。
実験室に抗う為に。
ただ、ひなたの為だけに。