35 「エリクシールさえあれば」
無機質な電子音とともにメッセージが表示された。
【今夜、零時】
一瞥しただけで、作業に戻る。
それは二次暗号化済みという、特定の者から 覗き見されても良いという、意図を明確に感じた。
シャーレが送ってきたレポートを読むまでもなく、検体の【デハッガー】との相性は上々。トレーを巻き込んだだけの成果は上げるかもしれない。
もっとも肝心なのは、醸成している検体の反応変化だ。様々な相互実験を並行しているように見せかけて、シャーレとの実験目標はたった一つしかない。
──即ち、エリクシールを。
無造作に飴を噛む。
「──せい、先生? 宗方先生?」
ポカンと顔を上げる。ずっと声をかけられていたのだろうが、まるで気付かず、苦笑する。
「あ、ゴメンゴメン。どうしたかな?」
苦笑で応じる。同僚は微笑ましそうに彼を見た。
「先生、またお子さんの写真見てニヤニヤしてる。研究の方も集中してくださいね」
「失礼な、ちゃんと仕事中は集中してるさ」
「どうだか」
とわざと肩をすくめて見せつつ、デスクの写真を見やる。
「でも 利発で凛々しいお子さんですね」
「……」
彼は表情を変えず笑顔で応じる──ことに成功したと思う。唾を飲み込む。
エリクシールを。エリクシールを。エリクシールさえあれば。呪詛のように言葉が渦巻く。その全てを飲み込み、満面の笑顔を作ってみせた。
「そんなことより、今日はプロジェクト進めるぞ。今日は交配の検証だ。そのデータを精査することに費やそう。遺伝子データの抽出も再検証だ」
「はい!」
研究員たちが一斉に応じた。
「砂漠緑地化計画そのものは真新しいモノではないかもしれませんが、先生の提唱する安全な遺伝子工学による緑化計画は学会のみならず、政府も各国も注目しています。絶対にカタチにしましょう、宗方先生!」
彼女は満幅の信頼を寄せて、そう言う。
彼は笑みを絶やさず、小さく頷いた。その目が虚ろだったことに気付くものはいなかった。口に放り込んだ飴を噛み砕いたことに気付く者も。
エリクシールを──。
元実験室研究者・スピッツの漏れた呟きにすら誰も気づかず、研究に没頭する。
今夜零時、それはスピッツとシャーレにとっても新しい実験を開始することを意味する。
「ヒナタ──」
彼の呟きは空気となって消える。誰も知らないまま、誰も気付かないまま。それでいい。
もう一度、放り込んだ飴を彼は無造作に噛み砕いたのだった。