24「エメラルド・タブレッドへの近道」
ビーカーはフラスコを前に、現状報告をする。できることなら隠匿しておきたいが、遺伝子実験監視型サンプル【弁護なき裁判団】はフラスコの管理下にある。ある程度は自由な裁量を任されているらしいが、慎重に手を打たなければ、フラスコの逆鱗に触れる。――と言っても、感情的に支配する訳では無い。フラスコはむしろ柔和で、干渉は無い。人間という生き物が嘘と欺瞞で構成されているのは重々承知の上、と嘘の報告も意には関しない。ただし、と付け加える必要があるが。
フラスコは感情的には支配しない。
だが――嘘と欺瞞には、それ以上の嘘と欺瞞で冷然と返却する。実験室のフラスコの逆鱗に触れる事とは即ち、彼の研究対象になるという事でもある。彼は、この社会というシステムすら自分の実験室と思う節がある。智を探求する者は歓迎する。既存のシステムを破壊しようという志ある者も歓迎する。それが実験室のポリシーでもあった。
試験官内の薬液がコポコポと音を立てる。
所狭しと置かれた実験機材。
そのうちの一つ、黒く無機質な箱型の機材がぶーんと音を立てていた。有望と思われる遺伝子サンプルのカケラに刺激負荷実験を行い、より強固な遺伝子へ進化するよう管理する。ここで作られた遺伝子プロトタイプか能力をもつ特別なニンゲンへの取っ掛かりになる。
実験室のスタンダードは先天性遺伝子操作。いわゆる、精子・卵子の段階から遺伝子配合を操作し、理想のサンプルを作り上げる。だが、精度としては完全では無い。
一方でフラスコやビーカーを始めとするチームが着手していたのは、後天性遺伝子操作。いわゆる、ある程度成熟、適正を見出してから遺伝子を改変させる手法と言える。昨今の廃材はこの実験が主と言ってもいい。成果は出てきており、やはり強い遺伝子、耐性を見極める必要がある。その為には、 廃材と言う名の実験標本はまだまだ足りない。
「ビーカーが珍しい」
ふっと、フラスコがにんまりと笑む。
「は?」
「素直じゃないか。データを確実に得てないのに、実直にレポートするとは」
「私は研究の為なら――」
「いいよ。【限りなく水色に近い緋色】を見た時のショックは私も一緒だ。根本的に見方を誤っていたらしい」
「は?」
「少し種明かしをすると、あの実験体には今実験している改変遺伝子の中では一番毒々しいものを培植させていたんだ。旧実験室では単純に【緋色】と呼んでいた」
突然の情報公開にビーカーは戸惑う。だが意に介する事なく、フラスコは試験管の薬液反応を見ながら、話を進める。
「この【緋色】を宿したサンプルの研究者がスピッツとシャーレ、トレーであり、プロジェクト責任者が、名目上、私だ。当時、私はたいして注目はしていなかったのだが、アレを見て感覚を狂わされた」
「アレ?」
フラスコはパソコンのキーボードを弾く。スクリーンがゆっくりと下り、燃え上がる壊滅的な建造物の静止画が見えた。
「これは……第七研究所?」
「フラスコ、君は若いのによく実験室の経緯を知っているな。無知な研究は害悪でしかないと私は思っている。君のまっすぐな研究姿勢、私は好きだよ」
「しかし、これは原発事故で機能不全に――」
「たかだか原発事故程度で機能不全になるような設備だと思うか、実験室が?」
フラスコは微苦笑を浮かべた。
「最初の暴走がコレだ。 発火能力により、第七研究所が壊滅。その余波で原発事故を誘発した、と言えばまだ救われるが、事実はさらに酷い。暴走した彼女は、街を一つ潰したのさ」
フラスコは画像を食い入るように見つめる。炎上ではなく、破壊。爆発の炎がこれからの凄惨な予兆を物語る。
「だからこそ、見誤ったというべきか。サンプルの名が【限りなく水色に近い緋色】とあるが、私の推測として此処からは聞いて欲しい。改変遺伝子は一つではなかったと思っている」
「水色……」
ビーカーは直感的につぶやいていた。
「あえて言うならそうだろうね。緋色は 発火能力に特化した攻撃的な遺伝子サンプルだとしたら、水色は変容自由な学習型万能遺伝子と言えるかもしれない。まさしくエメラルド・タブレットへの近道とも言える、いい仕事だ」
ビーカーは言葉にならない。自分としては、より強くより量産できるサンプルを、という想いだけで研究を続けてきた。だが、スッピツやシャーレの研究はより悪魔じみた――悪魔を産み落としたもの以外のナニモノでもないと思う。
ましてフラスコは先程、なんて言った?
(街を潰しただと?)
だがフラスコの言葉は続く。それを頭に叩き込む事に、ビーカーは必死だった。
「シャーレとスピッツが共同研究者にトレーを指名した時、私はもっと疑問に感じるべきだった。トレーは支援型サンプルの開発に特化した研究者だ。あの特化型サンプルの少年は自らを【デバッガー】と名乗っていたな」
パソコンを操作する。トレーのかつての研究論文がスクリーンに表示された。
――遺伝子特化型サンプル、不安定要素補完の為チームアプローチの可能性と検証。
ビーカーは食い入るように見つめる。ピンぼけしていた焦点が定まったような感覚だった。
今回のケースにおいてビーカーの解釈は、有能な支援型による指揮・補助・介入があったと思っていたが、現実はその上をいっていた訳だ。言うなれば戦場を理解し、攻撃型の特色に応じて配備、稼働撤退を指示、戦局を支配する支援型サンプル。それはまさに軍師のような存在と言ってもいい。
【デバッガー】である彼は【限りなく水色に近い緋色】を安定稼働させる為の、もう一体の特化型サンプルという側面をもつ。
それならば、合点が行く。揺さぶりをかける前に先手を打たれた事も、その後の監視システムの報告による廃材を機能停止にまで追い詰めた事も。攻撃型サンプル二人の動きのよさも。
ビーカーから見て、あまりに統率がとれすぎていた。通常、実験の副作用故にサンプル達はあまりに我が強い。チームプレイが難しいメンツが多く、研究者は調整に手を焼くのである。
「廃材は【弁護なき裁判団】が保護したのだろう?」
フラスコが聞いた。ビーカーは言葉なく首肯する。整理するにも脳が追いつかず、思わず声が出なかったのだ。
「ならば、ビーカー。お前の提唱する直接脳波干渉信号実験をこの機会にやってみるという手もあるな」
ビーカーは顔を上げる。この男はこの土壇場で何を言い出すのか? だがフラスコは、涼し気に自分の実験行程を確認しており、最早ビーカーは視界に入っていない様子。
彼女らのデータを採取せよ、という事か。
一度、実験室は【限りなく水色に近い緋色】によって、壊滅的な被害を被った。だが室長フラスコは、それを潜伏期間として実験室に新体制を敷いた。禁忌とされた実験に着手しながら。今では政治とのパイプもより強固になっており、かつ公式には出ない秘匿された自由な研究機関である事も重要だ。
【限りなく水色に近い緋色】を駆除するのは惜しい、というのは研究者としては理解できる。その半面、第七研究所の徹底的な破壊。これはデータベースには載っていなかった情報だ。
(調べる必要があるか)
ビーカーは深く息を突き、室長の研究室を退室する。
フラスコはようやく顔を上げて、歪んだ笑顔を見せた。
彼にとっての実験が、ようやく開始されるだ。これを歓喜せずしてどうするか。薬液はコポコポと変わらず音を立てる。
シャーレとスピッツに出し抜かれた感があるが、ようやくだ。絶対にエメラルド・タブレットを起動してみせる。ただそれだけを念じて――蒸留した薬液をフラスコは躊躇いもなく飲み干した。