22「トレー」
遺伝子特化型サンプル【デバッガー】水原爽が言うところの「あの人」は四方をディスプレイに囲まれ、情報の分析に没頭していた。爽からの全自動記録については情報量は然程多くは無い。彼に関しては、生体兆候のみの記録にとどめている。心拍数、呼吸数、能力稼働による細胞耐性も良好。
一方で実験室の監視システムを 情報詐取。この短い期間でのあらましについては、事細かに掌握していた。
あえて監視システムにセキュリティホールを散らしている気がする。実験室のフラスコがやりそうな事だ。彼はさも知らない振りをしながら、全体の掌握に抜かりない。言ってみたら監視システムはこちらの動向を知る餌でもあるという事だが、それを理解した上で追尾不可な程、迂回して接続している。犯罪ハッカーや詐欺集団を介して海外サーバーを多重経由。逆探査は徒労に終わるし、多分フラスコならば、誰がハッキングしたかなどとっくに察しがついている。言わば、これは情報戦を模したギブアンドテイクだ。
もっとも、中途半端な贈与も詐取もしようものならまるごと失う。それが実験室という場所なのはイヤという程知っている。何せ一回は壊滅的な被害を受けながら、あっさりと復活したのだ。
否――。それすらも実験だった。【限りなく水色に近い緋色】を現実社会に放出する事により、彼女の精神安定がどこまで図れるのかを調査する為の。
表向きは遺伝子工学研究所、即ち実験室の継続を断念したように装い。これにより政治駆け引きの中でも、穏健派の実験倫理の追求を回避する。つまり生体実験施策は人道に悖ると世論に向けて非難される事を防ぐ為に。
重ねて、公的監査から外れる事で、第三者機関承認を待たずして禁忌実験に踏み込む事が可能というシナリオは、あまりに悪魔的と言わざる得ない。
その唇から溜息が漏れた。
室長フラスコは仮面の男だ。優男を演じるが、その内面はなんと計算高いことか。ただし誤算もあった。【限りなく水色に近い緋色】のレポートの確信部分は隠蔽されていたのだ。
研究者シャーレとスピッツは自分の子を実験台にした。良心の呵責があったかどうかは知らないが、実験室の監視を受け入れながら、一般人に戻る事を選択した。
極限能力最上稼働と実験室内部で記録された唯一の事例でもある。無論公式にされていない。実際、遺伝子工学第七研究所の崩壊は、周囲直径2キロに及んだ。発火能力パイロキネシスの暴走はまるで意志をもったかのように破壊をし尽くした。正確なデータなどあの状況下ではあるはずも無いが、酸素を流動的に操作、集約した上で圧縮をしたのでは無いかと推測する。加えて、研究所の実験機材には廃材廃棄用の高濃度圧縮ガスがあった。厳重な管理すら【限りなく水色に近い緋色】の前では、あまりに無意味だった。あの戦慄は、その場に居た人間でしか分からない。
(それなのに爽君は臆さないんだね)
精神鑑定を行い、メンテナンスも定期的に行っているがエラーは無い。彼は彼の意志で【限りなく水色に近い緋色】に接触した。支援型としてはあまりに感情的な行動だが、それはそれで興味深い。彼が彼女に抱く感情は恋愛感情に適合するモノなのだろうか。実験室のサンプルは精神的に不安定な事が多いだけに、興味深いテーマだ。それは結局のところ、遺伝子研究特化型サンプルが安定稼働する事をも意味する。
何より、宗方ひなたには興味がある。第七研究所にいた時代の爽の記録ログがあまりに少なすぎる。当時は遺伝子研究量産型サンプルのプロジェクトに大半の研究者が動員されていた。能力稼働は平均並み。しかし、その量産ラインを安定化させる事により、人工兵士を作り上げる。いかにも政治屋連中が好みそうなプロジェクトだった。
しかし、このプロジェクトも 極限能力最上稼働により一時休止状態となり、離脱。実験室の籍を捨てて今がある。と言っても実験室は放ってくれるはずもなく。結局は情報戦の応酬となる。
せめてもの救いは実験室は戦闘型サンプルに傾倒しており、支援型サンプルの開発は停滞している所か。つまり現在の所、爽は実験室にとって重要では無いという事だ。
【限りなく水色に近い緋色】をバックアップする事に特化した支援型サンプルだという事実もまた、隠蔽している。また爽には積極的なチューニングも行わなかった。彼には実験室に関わる事が今後無ければ良いと密かに願っていただけに、それは脆くも崩れ去った結果になった訳だ。忌々しい、とも思う。
「トレーの爽君は素敵ね」
突然の介入に戸惑う。ディスプレイ正面に何の予兆もなく、女の姿が映る。キーボードを叩き逆探知を試みるが、それは無駄な努力な事は分かっている。
「シャーレ……」
「お久しぶりぶりね、トレー。こちらのモニターは、マスコミ関係の情報検索用だから支障はないでしょ?」
事も無げに言う。確かにマスコミはこの騒ぎにまだ何も感知してない。――と言うよりは実験室が情報統制をしたという方が正しいと思う。全てが終わった後に廃材・羽島を駆除した上で収束させる。それは【限りなく水色に近い緋色】であっても監視システムでも問題は無い。相も変わらずの実験室のシナリオには反吐が出る。どちらにせよ【限りなく水色に近い緋色】のデータを収集する算段だろうが、実戦経験の無い爽にしては健闘し撹乱していると言うべきだろう。
「デバッガーとしての精度が上がってるだけじゃないわね。環境構築、遠隔干渉、代替操作、情報管理、サンプル調整までしてるじゃない? ひなたとの適合シンクロ率も高い。実験室を離れてよくここまで調整したものと感心したわ」
「シャーレのレポートに合わせて調整しただけだし。爽君のロードマップとしては順当。むしろ実戦経験が足りないから後手後手は否めない」
「実戦経験なんかさせたら、目立って仕方ないわ。でもよく考えて作戦立案してると思うわよ? ひなたの優柔不断さは今後の課題だし、幕引きには丁度いいでしょ」
「むしろ幕開けだと思うけど?」
「言い方はなんでもいいのよ。トレーはトレーの目的で。私達は私達の目的で実験室を潰すだけ。トレーが欲しい【エメラルド・タブレット】への近道なのは間違いないでしょ?」
「シャーレにとっての【エリクシール】がそうであるように?」
トレーは表情を変えず、そしてシャーレは満面の笑顔で質問には答えない。
と、画面のハッキングした監視システムがひなたの強襲を映し出す。火焔の弾丸が雨のように廃材に降り注いでいた。
「やるじゃない」
とシャーレは嘆息をする。
「トレーの【デバッガー】は自分達がどう監視されているのか良く理解しているのね、頭が良い子。実験室に記録として残っている 発火能力での陽動、そして不可視物理防御壁・ファイアーウォールで救出対象を保護とサンプル達へのブーストが【デバッガー】の仕事。さらにチェックメイトは、データ確認できない不確定サンプルのこの女の子。確かスクラップ・チップスだったはずよね?」
シャーレはすでに検索終えている。持ち得ている情報はほぼ一緒。後は爽がどれだけ情報を得ているか。だが、焦る事は無い。実験室は政治と密着した巨大組織になった。そう表現すれば脅威的に感じるが、肥大化したからこそ行動に緩慢になりがだ。彼らにとって【限りなく水色に近い緋色】の出現は監視対象でこそあれ、排除対象では無い。まして爽も彼女達も、まだ能力のコントロールにまで至ってない。彼女達が苦戦していた相手は所詮ただの廃材なのだ。実験室が未だ監視対象と誤認しているうちに、検査と調整を研究者レベルで施す必要がある。
それに、と思う。
【限りなく水色に近い緋色】としてではなく、宗方ひなた自身に興味がある。
爽がささやかな感情を捧げようと思った少女に。監視システムから見る限り、ひなたはあまりに戦意というものが無い。能力があっても、それを動かす意志がなければ、いずれ力に飲み込まれる。
爽を再び 極限能力最上稼働に巻き込ませる訳にはいかない。それだけは絶対に、だ。と思う反面、例え廃材の暴走があったとしても、子どもの誘拐救出に爽が乗り出す事は無かった。その点もひなたの影響だとしたら、実に興味深い。
と――ディスプレイが強烈な光を放った。
監視システムの一台が沈黙する。桑島ゆかりの放った一撃で、廃材・羽島は吹き飛び、その電圧の余波に機器が漏電したと思われる。だが――
「な?」
トレーは目を疑う。保育園の時とは別物の統制された電流、そして電圧で無駄なく羽島を停止状態に追い込んだ。
爽が調整コーディネイトを施したのは確認済みだが、 廃材が持ち得る生体電圧管理とは思えない。
(なにが起きてる……?)
トレーの探究心が疼くが、思考を切り替える。データを収集せず推測で考える事程危険な事は無い。まずは爽が無事ならそれで良い。
「さしずめ、 超電導接触って所かしら?」
「……シャーレ」
「なに?」
「ずっと言おうと思ってたんだけど――なんで花柄エプロンでフライパン持ってるんだ?」
「変?」
「いや、変って言うか、僕は白衣のシャーレに見慣れてるから……」
「そりゃ、お母さんだから。私も年をとったって事。ひなたが帰ってくるまでに、パンケーキ作ってあげようかな、と思ってね」
にっこり笑うシャーレに、トレーはため息しか出てこない。
戦況は爽の頭脳労働と根回しにより終息したかに見えたが、トレーはこれで終わりだなんて信じない。遺伝子実験監視型サンプル・弁護なき裁判団の監視システムをハッキングしていたのだ。逆を返せば、【弁護なき裁判団】が動いている事を意味している。
(どう出る実験室?)
トレーは心の中だけで呟き、沈黙したカメラから監視システムの別のカメラにシフトする事にした。