第96話 ジュネーヴ レッドクロス
前話とともに12/26修正しました。
スイス ジュネーヴ
ドイツに留学している最中の桂太郎とパリで合流し、ジュネーヴに帯同してもらう。彼がわざわざパリまで来たのはお礼も兼ねた護衛のためだ。史実で私費留学していた桂太郎は途中で資金不足になり、官費留学への切り替え申請をするが道半ばで帰国していた。俺は事前にその情報を知っていたので、出発前に桂太郎に関して木戸孝允殿に相談しておいたのだ。切り替えが行われたのが使節団がパリに着いた昨年末。俺の進言を聞いた桂太郎は喜び、こちらにいる間の護衛を申し出てくれていた。義理堅いのは結構だけれど、フランスにいる間もずっとというのは留学している意味がない。本末転倒になりかねなかったので、スイスとドイツにいる2週間のみお願いすることにしていた。
「ドイツの軍制はどうでしょうか?」
「凄まじいです。日本でも大村様が参謀本部を設立すると仰っていましたが、まさしく最新の制度かと」
「ただ、文民統制だけはしっかりしないといけませんけれどね」
「文民統制?」
「首相の指揮下に軍がいないと、軍が暴走しますので」
「暴走、ですか」
「戦略上正しくても、政治的に間違うことを軍が決定してはならないのですよ」
桂太郎は少し思案している様子だ。例を出してみるか。
「例えばですが、もう一度普仏戦争があったとします」
「はい」
「今度はフランスも防衛を堅くするでしょう。しかし、オランダ・ベルギー方面に兵は置かないですよね?」
「でしょうね。交戦国ではないので。オランダもベルギーも両国を刺激しないよう動員をしないでしょう」
「だから、戦略上はオランダ・ベルギーを奇襲して占領し、そのままベルギー方面から攻められればフランスを倒せるわけです」
まぁ、そこまでうまくいかなかったのが第一次世界大戦なわけだけれど。
「わかりましたよ。それをすればイギリスなどが敵に回るので、政治的には不正解であると」
「ええ」
「でも、参謀本部が独自に判断するならそれが最善です。そこを、首相が統制せねばならないと」
「そういうことですね」
「ですが、それならば問題ないでしょう。大村様は軍事以外に口を出さないようにされています」
「制度化しておくのが肝要かと」
個人に頼ったらダメなのだ。大モルトケは理解していても、大モルトケの後継者がダメだったからドイツは負けたのだから。
「ふむ。報告書にその点を注記して送りますか」
「まぁ、大村様は良くご存じとは思いますけれどね」
大村益次郎が死なずにすんだからできることだ。制度面をしっかり固めて、軍部大臣現役武官制とか悪用できないようにしてもらいたいものだ。
♢
列車から降りて、ジュネーヴ駅を出て馬車に乗る。目的地は中心街から少し離れた屋敷だった。使節団は訪問していないが、元大村藩主の大村純熈様と武者小路実世様の代理として訪問する形となっている。会う相手の名前はギュスターヴ・モアニエ。赤十字の設立に関わった重要人物だ。
会談は筆談で早めにささっと終わった。現時点では負傷軍人救護協会という名称の方がよく使うらしい。赤十字の赤い十字のマークが掲げられた部屋で、日本でも赤十字の組織設立を目指すことを確認する覚書が交わされた。モアニエ氏は今ベルギーで実施予定の国際法学会の準備で忙しいらしく、覚書に関して歓迎することをこちらに伝えるとさっさと部屋を出て行った。名刺の交換はできたので個人的な目的は達成できたし、まぁこればかりは仕方ない。今日だってかなり無理して顔を出してもらったようだし。
武者小路実世様もベルギーの学会には参加するそうだから、その時にでもきちんと挨拶してもらえばいいだろう。
「そういえば敬殿は奥様とこちらに来ているのでしたな」
「はい。麻子はアメリカの学校で勉強中です」
「もったいないですな。せっかくならこのレマン湖も一緒に観光されれば良かったのに」
「まぁ、あくまで彼女は純粋な留学ですので」
2年間だけとはいえサボっていいわけではない。大西洋の往復だけで1カ月以上勉強時間が削られるのは彼女のためにならない。
「太郎殿はスイスの軍制についてはご存じで?」
「いえ、ただ徴兵制とは聞いたことがありますね」
スイスの永世中立国という立場はこの時代まだ確立されていない。ナポレオン時代の後、スイスは『誰の味方になることも許されなかった』というのが正しい国家だ。フランスとオーストリアが互いに味方しないために永世中立国という立場を押しつけ、空白地帯を形成した。彼らが真に永世中立国になるのは今回の普仏戦争でどちらの味方もしなかったことと、第一次世界大戦で誰の味方もしないことで完成する。
「太郎殿は徴兵制をどうお考えで?」
「必要だとは思いますな。兵の数は力だと普仏戦争で思い知らされました。ドイツはフランスを上回る兵を動員し、後方支援なども迅速でした。これは参謀本部があればできるわけではありませぬ」
「問題もあると?」
「既に4鎮台は武……士族のみで創設してしまいました。諸藩の動きがあったからとはいえ、今後にあまりいい影響はないかと」
そうか。元薩摩・長州・熊本・広島・秋田・宇和島あたりの藩士がかなり大量に軍人として所属している状況だからか。
「参謀本部は偏りなく諸藩の士が任命されておりますが、海軍は薩摩と宇和島と広島の藩士が多いですし。大村様が上手く差配して下さるとは思いますが、ね」
まだまだ日本らしい軍制とは何かわからないが、少なくとも現在の最適解を大村益次郎様には探してもらうしかない。
「そういえば、ウィーン万博の出展で日本から100人ほどこちらに派遣されてくるとか」
「あぁ、新しい留学生も一緒に来られるとか」
「イタリアの視察を終えたら、一度岩倉卿や木戸様も見に来られるそうですよ」
「そうか。となると、帰国はその後か」
どうやらもう一度使節団と合流することになりそうだ。時期的にこっちにいるわけだし。もう4月になっているので、準備のための人員はもうウィーンにいるはずだ。
「岩倉卿のイタリア視察はもうすぐ終わりでしょうし、今月中にウィーンに行けば会えるかと」
「太郎殿はウィーンの手伝いをするので?」
「ええ。公費留学になったので、翻訳の手伝いを」
まぁ、公費留学ならば手伝いも必要か。
♢
ドイツ ベルリン
ベルリンでやることはほぼない。ハレ大学で少し視察をし、運が良ければマッケンゼンに出会えるかも程度だ。桂太郎ともここでお別れである。
「色々ありがとうございます。明日の鉄道でハレに行って、明後日にはウィーンに向かいますから」
「いえいえ。御恩を考えればこの程度」
今日は彼の寝泊まりしている寮で一泊の予定だ。案内してもらうと、寮の前で1人初老の男性が彼を待っていた。会話をして戻ってくると、「ここの管理をしている方でして、郵便を預かったと」と言ってハガキサイズっぽい手紙を片手に戻ってきた。部屋に入って封を開けると、中には俺と桂太郎の両名の名前が記されていた。差出人は鮫島尚信駐仏日本公使だ。
「桂太郎、ウィーン万博にてドイツ語翻訳の任務を命ず。原敬、ウィーン万博にて4日間の英語翻訳を任ず」
「まぁ、これは仕方ないですかね」
どうやら本来の仕事外のため俺には少し資金の融通があるらしい。それと日本から持ってきた白米ももらえるとのこと。久しぶりに炊いた米も食べたいし、少しの間手伝いに参加するとしよう。
次回はウィーン万博です。




