第95話 パリ② ☆☆☆
遅くなり申し訳ございません。
アメリカ ワシントン
正月の挨拶を麻子様・水木と迎えた。ジョン・ワトソン・フォスター氏は今年、日本式の鏡餅を手に入れてくれていた。1年以上ぶりのお餅にさすがに懐かしさを感じざるを得なかった。
「そういえば、最近普通に米を食べてないな」
「こちらには二回ほど南部から届きましたよ」
「え、何それずるいですよ」
俺は全然食べられていないのに、羨ましい。
「ただ、米を食べると望郷の念が強くなるもので、水木も食べた日と翌日は少しぼーっとしていることが多かったのです」
「あ、いや、そんなことは!」
そういうのもあるのか。自分では考えていなかったが、ホームシックのより広い意味での状態なのだろうか。日本が恋しいという。
「少し感傷的になるのは仕方ないさ。水木も辛いことがあればいつでも言うんだよ」
「ありがとうございます、主様」
お年玉の代わりと言ったらあれだが、2人に髪を束ねるリボンを贈った。麻子様には青い細めのリボン、水木は黒い太めのリボンだ。髪を結ぶのに使うと説明したら、結んでみてほしいと言われた。麻子様は髪の一部を束ねて蝶結びする感じに、水木はポニーテールを結ぶ感じにした。
水木はあげたリボンを鏡で見ながら嬉しそうに跳ねたりくるっと回ったりしていた。
「なんか不思議なかんじです。動いても跳ねなくていいかもしれません」
「そうか。気に入ったなら何よりだ」
「主様からの、初めての頂き物ですし」
そこまで喜ばれるとちょっと困る。少し困惑していると、麻子様が背中を少しつねってきた。
「いっ」
「旦那様、水木にもう少し優しくしてあげてください」
「えっと、でもですね」
「前にも申しました。甲斐性です」
少なくとも、貴女の尻に敷かれている限り甲斐性のあるところは見せられそうにないのですが。
「水木は自分から言いだせませんからね」
「はい……」
どこまでも分を弁えているタイプの娘だ。このままなら名ばかり俺に嫁いで、生涯侍女と変わらない生活でも文句は言わないだろう。でも、それではまずいのもわかっている。そして、目の前にいるからこそ、やりとりの意味を分かっている水木は慌てて口を開く。
「私は大丈夫ですので。もう十分に良くしていただいていますし」
その言葉に、麻子様はジト目でこちらを見てきた。『ほら見ろ、貴方が手を出してあげないとダメなんですよ』とでも言いたげな目だった。
わかるんだけれど、簡単に2人の女性に手を出せる人間ではないのだ。前世の倫理観がそういう部分をなかなか受け入れない。もう少し気楽に『女性複数と結婚できるぜわはは!』となれればどれだけ楽なことか。
「善処します」
「お早めに」
麻子様はそれだけ言って、でも食事中俺の隣から離れることはなかった。
嫉妬というより、もう少し関係性を2人で紡いでいたいのだろう。帰国して麻子様に子どもができたら、みたいな自分なりのポイントを決めた方がいいかもしれない。
そんなことを思いつつ、3日間だけの滞在を楽しんだ。
♢
フランス パリ
船旅が何度も続くとさすがに慣れてくる。パリで再会した中江篤介と西園寺公望殿に割った鏡餅を焼いてふるまうと、2人も懐かしかったようで少し感傷的な様子だった。
「こうして日本の物を食べると、日本が恋しくなるもので」
「篤介は来年にも帰国するだろうが、私は数年こちらだからな。次に日本の料理を食べられるのはいつになるやら」
篤介の家の神棚にお祈りし、家を出た。パリでやりたいことはあと2つだけだ。その1つは相手のスケジュールの都合から1月末になっていた。ようやく相手の仕事が一段落ついたので、今日会えることになったのだ。
「しかし、地震に耐えられる建物、か。確かに、言われて気づいたがこの国は地震を想定した建物があまりない」
「調べた限り、南部の山脈地帯くらいのようですね。地震が発生するのは」
フランスはほぼ耐震技術が必要ない国だ。スペイン国境のピレネー山脈周辺など、ごく一部でしか発生しない。ドイツも同様だ。この技術が日本で進化していったのも納得といっていい。
西園寺公望殿も地震はどこでも起こるものと思っていたそうで、意外そうだ。
「煉瓦の建物は地震に弱いという。そう考えると、安易に欧州に倣って煉瓦建物を日本に造っても困ることになるやもしれんな」
「そういうことです。ですので、地震に強い建物を知る専門家に指導を仰ごうかと」
ジョゼフ・モニエへの紹介状を手に、俺は待ち合わせ場所であるパリのカフェに向かった。エミール・ゾラ御用達のカフェらしく、予約もしてくれた。
待ち合わせ場所には顎髭が爆発しているように見える不思議な手入れをした男性が待っていた。
『本当に日本人とはな。英国王立協会からセマ・アルメ(鉄筋コンクリート造)について連絡が来た時は何事かと思ったぞ』
『お時間いただきありがとうございます』
『日本の地震学者で外交官と聞いたが、随分若いな』
名刺を見ながらモニエはコーヒーを飲んでいる。彼の座るイスの脇に置かれた新聞紙の紙面には傘を被った人が白人を脅している絵が載っていた。自分の席からは細かい文字まで読めない。
「あれ、越南のことが書かれているな」
「紙面のことですか?」
「あぁ、越南政府とフランス商人が揉めたらしい。法もない国が無法を説くな、と書いてある」
黄色人種への感覚はこんなものなのだろう。
『日本で地震に負けない建物を造りたくてお教えいただけないかと』
『ちょうど数日前に鉄筋コンクリートの橋に関する特許の申請書を出したばかりだ。特許は知っているかね?』
『ええ。政府で特許制度の設立に関して提言し、一昨年から運用が始まっています』
『ほう。歓迎式典でフレンチマナーを知っていたというのは本当のようだな。他のアジアとは違うようだ』
ちなみに、フランスに清国から来ている人はほぼいない。フランス人が交易に行くことはあっても、フランスに来ることは基本的に厳しい。アメリカで働く苦力とは違うのだ。タイ・ベトナムといった東南アジアが今のフランスにとっての草刈り場だ。
『最低限の理解があるならこの権利を渡そう。これを使って何をするつもりだね?』
『地震に強い国を。まずは地震に強い橋と、地震でも揺るがない国の施設ですね』
ちなみに、特許使用料については用意した資金の半分でいいと言われた。『文明国家になろうとする国家からむしり取る程金に困っていない』とのことだ。まぁ、安く済むなら悪いことではない。
耐震技術を手に入れたとはいえ、ビルなどに活用するには理論的な研究はあまりされていないらしい。あくまで鉄+コンクリートという概念にのみ特許はあるようだ。
『新しい発見がもしあれば連絡をくれ。今指導している仕事で成果があれば私も連絡をしよう』
『ありがとうございます』
『日本が陸続きの清に振り回される日々が終わるのを願っているよ』
『それは朝鮮です』
まぁ、この時代の政府関係者でもないフランス人の感覚なんてそんなものか。
♢
パリ中心部から南に10キロほど行った先に、シャトネ・マラブリーという町がある。ここにあるのが最近移転したばかりのエコール・サントラル・パリという工業学校だ。いわゆる高専にあたる学校らしく、ここを卒業したと言えば大体どこでも就職できるらしい。
そんな学校の見学を使節団もしたらしく、時間差はあるが自分もさせてもらうことになった。ただ、自分だけというのは難しいとのことで、入学希望者の見学会に参加する形となった。
見学会に参加する50人近いフランス人から奇異の目で見られつつ、中江篤介と西園寺公望と3人で見学した。学校自体のシステムにはあまり興味がなかったので、俺は説明を聞かずに施設や設備だけじっくり見ていた。
すると、説明を聞く気がない様子に気づいたのか、やや年上くらいの(といってもここの入学年齢的に当然なのだが)青年に話しかけられた。話している内容と口調は少し怒っているようだ。事前に自分たちの説明はされていたが、視察なのに話を聞かないのを不審に思われるのは仕方ないと言えば仕方ない。
許可を貰っているとはいえ相手から見て変なのは事実。どうしようかと少し困っていると、案内の教師が青年に話しかけ、そのまま会話をしていた。入学するために説明会に参加しているのではなく、あくまで先進国の学校を見学しに来ていることを説明してくれていた。
見学会後にその青年と少しだけ話ができた。この学校に本気で入りたいが、父親が最近亡くなったばかりだし弟もいるので祖父の支援を受けて入学するらしい。熱心なあまりこちらの見学の仕方が気になっていたらしい。申し訳ないことをした。
『そういえば、名前を伺っても?』
『アンドレ・ミシュランです』
ん?ミシュラン?
『もしや兄弟は……』
『いますよ。弟を知っているのですか?』
ある意味、2人とも知っている。あのミシュランだ。日本では飲食店の格付け本で有名だが、元々はタイヤの会社だ。
『いえ、知らないですが、しっかりされていたので』
『確かに世話はしていますが。でも、弟もしっかり者ですよ』
『そうですか。勉強、頑張ってくださいね。あ、こちら名刺ですので。卒業した頃にまた連絡させていただければ』
『は、はぁ』
この偶然の出会い、三ツ星と言わざるを得ない。
セマ・アルメは当時の鉄筋コンクリート造の名称です。
新聞紙に書かれているベトナムの話は、この後ベトナムが仏領インドシナになるきっかけの事件に関する報道になります。
ミシュラン兄は1877年に卒業なので、その後に少し登場します。1870年に父が亡くなり、生活的にはそこまで余裕がない時期だったりします。




