第9話 盛岡藩主 南部利剛(下)
3人称が多いです。
蝦夷 箱館
アメリカ人のラファエル・パンペリーと握手を交わした大島高任は、その別れを惜しんでいた。通訳を通じてだが、彼らは確かな友好を結んでいた。
「せっかく色々と教えていただいたのに、追い出すようになって申し訳ない」
『あなたたちはとても創造的で意欲的だった。蝦夷も楽しい場所でした。ありがとう』
「できれば、また色々と教わりたい。もう解雇の通知は出ているが、可能な限り貴殿等の献身を幕府にも伝えます」
『私も、滞在できる間に可能な限り伝えるべき事を伝えましょう。神の祝福があらんことを』
江戸幕府が蝦夷開発のため2人のアメリカ人を雇ったことに、攘夷派は反発を強めていた。文久2年は生麦事件の発生した年であり、京では孝明天皇を中心に、攘夷派が最も勢いづいている時期でもあった。
結果として、パンペリーとトーマス・ブレーキはあと2か月ほどで帰国しなければならなくなった。江戸幕府に雇われながら契約中に契約が一方的に解除され、箱館の奉行から帰国が命じられるという、非常に問題のある扱いを受けていた。それでも彼らは学んでいた意欲的な日本人に技術と知識をギリギリまで与えていた。
「実は、楽しみもあるのです」
『ほう、楽しみ』
「ええ」
大島は笑う。
「盛岡に麒麟児が現れたようで」
しかし、麒麟児という言葉の英訳が存在しなかったため、この言葉は彼に伝わらないままに大島は藩の命令で盛岡に帰ることとなった。
その意味をアメリカが、アメリカ人が知るのはもう少し先のことである。
♢
陸奥国 盛岡
年が明けた。文久3(1863)年だ。西暦とのずれを調べたが、去年の閏月(俺が休まされた時期だ)の影響で12月には年が明けていたらしい。
去年の勅使による幕政改革で会津藩の松平容保様が京都守護職に任ぜられた。松平様は徳川一族のため徹底した佐幕派であり、攘夷か開国かは幕府と帝が決めれば良いという考え方の人だ。その中立性が、京都を守る武力をもつ人間が肩入れしない形を作りたい幕府や朝廷の意向と合致したわけだ。御本人は体調が良くないらしいが、最終的には「自分も家臣も京で倒れる覚悟で」職務を受けいれたらしい。凄まじい話だ。
「参勤交代も緩和されたと聞くし、ここで『いわてっこ』が頑張れば藩の財政も再建できるな!」
昨年閏8月に参勤交代の緩和が幕府から示された。九州諸藩や東北諸藩(どちらも諸外国相手の防衛拠点に関わっていて負担が増えている)の負担軽減もかねてだが、五品江戸廻送令への反発を和らげたいという思惑もあるのだろう。
「とはいえ、うちの藩はまだ15万両もの借金がありましゅ」
「それでも、豊作になればかなり借金は返せるだろうさ」
「藩の収入が凡そ15万両と父上は仰っていましたしね……これでも大分借金を減らしたとか」
「その分、年貢含め税が重いからなぁ」
「農民の購買力が上がらないと商業も発展しません。借金返済だけに使われないように願いたいでしゅ」
♢♢♢
藩政について話し合われる評定で、盛岡藩の主要メンバーは藩主を除けば5人である。場にいるだけになりがちなメンバーを除けば、この5人が話を主導する。
家老首座で南部一族の南部監物。中立・温厚。悪く言えば場に流される人物。
八戸弥六郎(済賢)。遠野南部氏当主で南部御三家の当主。激情家で蝦夷地防衛などによる財政悪化に最も幕府への反発を強くしている。
そして全体を宥める役目を負う三戸式部。家老としては昨年就任したばかりだが、三戸南部氏当主のため議論を落ち着かせる役目となっている。
この3人は家格や長年要職にいるためにそれぞれ性格や思想はあれど、藩論を分けようとしているわけではない。藩内の改革など、政治的・財政的な政策提案をするのは残りの2人だった。
楢山佐渡。藩主・南部利剛の従弟であり、20歳をすぎた頃に藩政改革の一環で若くして家老に就任した。
東中務(政図)。東南部氏の一族であり、楢山佐渡より5歳下ながらその才覚を嘱望され、楢山佐渡の推薦で家老職に上り詰めていた。
そんな2人が、対立していた。楢山佐渡は財政再建と収入増加を現状で可能な範囲のみで行おうとしているが、東中務は多少痛みをともなっても早期に財政再建をし、そこから商業振興などで立て直そうと考えていた。
「佐渡様はそう仰るが、冷静に考えて、真に反収三石が全ての百姓にできるとは思えませぬ」
「中務はこれが上手く行けば今まで我等がどれだけ頭を痛めても思いつかなかった事ができるのを分かっておらぬ!」
「佐渡様は入れこみすぎにございます。百姓が真に原殿の御子息の申す通りに働くか分かりませぬぞ」
「領内ではもうあの米の凄さは伝わっておる!百姓とて己の収入が増えるならきちんと手間をかけよう」
「鰊の魚肥も相応に必要でございます。手配は進めておりますが、領内全域分足りるかはわかりませぬ」
「そうやって出来ぬかもしれぬ、出来ぬかもしれぬでは何も進まぬ!」
「獲らぬ狸の皮算用では失敗した時に我が藩の命脈に関わるのです」
顔を真っ赤にしながら激論をぶつける楢山佐渡と、常に厳しい表情ながら冷静な声色の東中務はつねにこうした話し合いを続けてきた。情に篤く、盛岡藩の家臣から百姓まで全てを守ろうとする楢山佐渡と、常に理知的に計算し、藩の存続を第一とする東中務。1855年に先代藩主の死により後処理まで終息した三閉伊一揆以降、その処理と財政の健全化、そして百姓の逃散や一揆を防ぐために2人は抜擢され、しかし考え方の違いから次第に対立を深めていた。
「だから米の育たぬ地を予め伝えてもらい、指導も年明けから始め、指導を受けねば新しい種籾を与えぬようにすることで少しずつ指導を行き渡らせているのだ!」
「となれば、米の育たぬ地の者をどうするか決めねばなりませぬ。新しい米は渡せぬ、我慢致せでは納得せぬでしょう」
「それは、年貢を減免するとかすればよい」
「もし米を受け取りながら育たなかった者がいれば同じく減免致しますか?それでは結局藩の収入は増えぬやもしれませぬぞ」
「ではどうしろと言うのだ?」
「賞罰を共にせねばなりますまい。反収三石で新税課税を免ずる。最初から種籾を配れぬ者も同様。これならばいざとなっても懐は痛みませぬ」
「しかし、それでは三石に満たぬ者に新たに役銭を課すととられかねぬ」
「そうすれば良いのです。どちらにせよ、我等は収入を増やせる」
「いいや、減免すべきだ!」
「軽々しく減免を口にすれば、何かあった時にそれこそ一揆が起こりまする」
両者の決して交わらない話し合いは長く続いた。その日は結局結論が出ずに散会となった。
♢♢♢
南部利剛は評定後家老首座の南部監物を呼びだしていた。
「で、どう思う?」
「そうですなぁ。昨年の事は些か殿も前のめりでございましたがぁ、佐渡はもっと前のめりでございますなぁ」
「まぁ、そう思われても無理はない」
「しかしぃ、某もぉ、あの見事な黄金色の田んぼを見ておりますのでぇ、心躍るのもぉ、仕方なき事かとぉ」
「で、あるよな」
その田んぼを確認した中で、顔色が変わらなかった者はいなかった。東中務ですら、口を開けたまましばらく呆けていたほどだ。多くの家臣が突如原の嫡男・次男との姻戚を結ぼうと原直治に群がり、婚姻相手については藩主預かりとすることがまず決められたほどだった。既に原の家と婚姻・婚約している井上氏や浪岡氏、それに直治の嫁であり平太郎・健次郎の母リツの実家山田氏は大喜びである。従姉のこのでさえ縁組の誘いが来るほどだった。
「生半可な者は嫁がせられぬな。特に健次郎の方は」
「かといってぇ、我等家老家がぁ、となるとぉ、批判も浴びましょうねぇ」
「いっそ、我が娘でも嫁がせるか」
「麻子様はまだ6つでございますぅ」
「郁子は外に出すよう育てておる。麻子は年齢的にまだ何も教えておらぬ」
「真でございますかぁ?」
「わからん。わからんが、場合によっては、な」
ゆるい雰囲気の監物も驚くほどの突飛な考えは、しかし利剛の頭の片隅に根を張り続ける事となる。
実際の盛岡藩は家老格の中で遠野南部氏が半独立だったり、勢力図に色々な様子があります。ただ、大まかには楢山佐渡派と東中務派で分かれています。そこを主軸に盛岡藩の幕末を描いていく予定です。