第78話 棋道救済への一歩
申し訳ございません。完全に投稿した気になっていました。
東京府 東京
出発まであと1カ月。9月に出発し、10月後半にはサンフランシスコに上陸する計画だ。
使節団には岩倉具視卿を全権大使とし、明治天皇(とはまだ誰も呼んでいないが)の委任状が渡されている。各国の要人にも事前アポをとっているらしく、なかなか豪華な陣容になりそうだ。俺も通訳兼外務省三等書記官という立場が与えられ、正式に外務省職員扱いで派遣されることになった。公的な立場があると色々やりやすいので助かるかぎりだ。
出発前に、片付けなければならない2つのことを急ぎですませることになった。
1つ目は新聞の新しいコンテンツ追加だ。幕府がなくなり、苦しんでいる2つの業界を取りこむことにした。今日はその顔合わせだ。
「上野房次郎と申します。栗本鋤雲様よりご紹介に預かりまして」
「尾野五平です。福澤先生から紹介されましたもんで」
2人は将棋界の巨頭と言っていい存在だ。ただし、家元制度を尊重しているのは大橋本家や伊藤家に近い上野房次郎だ。既存の家元制度では将棋が廃ると考えている福沢諭吉殿は尾野五平を支援しているが、幕府がない今苦しいのはどちらも一緒だ。2年前には一時両者に加え、在野最強とうたわれた大矢東吉らが加わった百番出版校合会を設立している。しかし、方針の違いもあって今の彼らは仲違い状態である。
「将軍家家元への家禄返還が近いという話、聞きましたか?」
「はい。嘆かわしいことで」
真っ先に反応するのは伊藤家を継ぐ上野房次郎だ。彼からすれば、直接収入がなくなる上与えられていた屋敷も召し上げの予定だからより深刻なのだろう。
「上野はこう申しておりますが、新政府は囲碁の本因坊家への禄を近く停止すると伝えております。将棋ばかりではございません」
「しかし、これまで長く武士の嗜みとして……」
「その武士がもういないのだ。そこは認めるべきであろう。我らは平民に須らく将棋を教える日が来ているのだ」
どうしても家元として将棋を主導したい上野と、現実的に一般層へ浸透したい尾野という違いが見える。このあたりは賭博の種になりやすいこともあり、幕府の保護があった部分もある。上野は将棋が賭博の対象になるのを恐れているのだろう。
「将棋の家元を支えてくれる者はもういません。賭け将棋で身を立てる者が出てはこれまでの文化は守れないでしょう」
「原殿の申される通り」
「ですが、士族もこれから困窮するでしょうから、彼ら相手では指南料もとれないでしょう」
「然り然り」
うなづいてくるのはそれぞれ上野・尾野で別人だ。お互いより強く問題意識をもつ部分が違うのだろう。
「そこで、定期戦を行い、棋譜を我らの新聞に掲載させてほしいのです。棋譜の掲載料として、対局料をお支払いしましょう」
「ほう。それはいいですな」
「年間で最も勝ち数の多い方に、新聞社賞として追加の賞金をお渡しします。また、定期的に我らが主催する将棋の勉強会を開き、指導料をその収益からお支払いします」
「ほうほう」
「また、詰将棋を定期的に制作していただき、週に1つ掲載します。その解説も制作料をお支払いしましょう」
「いいですね」
「詰将棋や棋譜は後々、本にします。本の売上から一部をお支払いしましょう」
「良さそうですね」
ここまでは彼らに都合の悪い部分はあまりない。了承されるだろう。
だが、今後ここに昇段やタイトルが絡むとなっていけば揉める部分はできてくるかもしれない。
今はとりあえずそのあたりは決めないが、いずれ話し合っていかないといけないだろう。
「しかし、新聞というものはいいですな。平民でも学のある者が読みますし、士族や華族の方々の目にも止まりやすい」
「個人依頼は原則こちらの予定優先で、別日などに組んでいただきたい」
「そうですな。定期的に収入をもらえるならば、それは大事かと」
彼らとしても、定期収入があるのとないのでは大きく違う。その勝敗がどうしても公表されるので、実力がないととても名人など名乗れなくなるだろうけれど。現状名人位は空位らしい(これを争っているのがこの2人でもあるのだが)ので、問題はないだろう。今後、竜王とかの新規タイトルを作って争わせたいところだ。
♢
将棋だけに限らず、囲碁も状況は一緒だ。ということもあって、囲碁も同じことをやることにした。
こちらは内部では大きく揉めていない。すでに家元の家禄没収時期が明言されており、そもそもここ2年で家禄も大幅に削られていた。だから危機感が将棋よりも強いのだ。
集まったのは亡き本因坊秀策と互角の実力者だった村瀬秀甫、現在の本因坊である秀和。安井家10代目の安井算英。林家の林秀栄。そして13代の井上因碩の5名だ。家元である本因坊・安井・林・井上が集結し、そこに当代随一の秀甫を加えたメンバーである。最年長の秀和は疲れきったような表情もあってかなりの老体に見える。一方、安井算英と林秀栄は俺とほぼ同年代。井上因碩と村瀬秀甫は40近くと30代といった感じの風貌だ。
挨拶をしていると、井上因碩が挨拶に一言加えてきた。
「昨日、将棋の家元もこちらに来ていたと伺いました」
「ええ。そちらからお話を聞いたりはしていますか?」
「いいえ。ただ、彼らが随分機嫌がよかったと」
まぁ、そうなるか。将棋打ちとしての仕事が定期的に来るのが決まったとなれば、幕府時代ほどではないにせよ生活は安定する。こちらとしても他の新聞が持っていないコンテンツの確保になるし、新聞を文字で埋めて小難しく感じさせない工夫にもなる。英字新聞にはこのあたりのコンテンツは載せられないが、その分日本文化を紹介する独自紙面は十分充実できている。そのうち囲碁や将棋も日本や東洋の独自文化として紹介すればいいし、外国人に理解できる文面で説明できれば日本語版入門書の土台にもできる。現状はお互いにwin-winの関係なのだ。
「御察しの方もいるでしょうが、我々の新聞社で囲碁界の援助をさせていただきたいという話でして」
「やはり伊藤家は南部のお抱えになったのか」
確かに俺は南部の身内だが、盛岡藩の意向で動いている訳ではない。
「皆様にはこの新聞社主宰で棋戦をしていただきたいのです。その棋譜を我々の新聞に載せて、対局料をお支払いします」
「せっかくならばその棋戦の結果で昇段するか否か決めたらいいのでは?」
こちらが提案したい内容を井上因碩が言ってきた。彼は10年前に昇段に関して他の3つの家元と対立したことがあるからだろう。昇段をシステム化し、他の家元の既得権にしたくないのかもしれない。
当然、3家から反対の意見が出る。声をあげたのは3人の中で最年長の本因坊秀和だ。
「それには相当数の棋戦をすることになるのではなかろうか?」
「むしろ、多くの棋戦をすればその分対局料を頂けるようにすれば、我らにも好都合でしょう。収入が絶たれつつある我らには、その方が都合がいい」
「昇段は並の者では出来ぬ。その実力を多角的に見極めねばならぬ」
「であれば、むしろ新聞で多くの者に棋譜を見られるという緊張感の下で勝ってこその昇段でしょう」
実際、この時期の混乱期をへて戦後の日本棋院設立への道ができる。そう考えるとこの状況で介入したのは悪くないのかもしれない。
「基準は事前に定め、その上で昇段の手合は事前に指定。そうすれば、誰も困ることはありません」
「う、むぅ」
しばらく彼らは話し合っていたが、最終的に昇段の基準を話し合いで事前に決めた上で昇段も扱うことが決まった。さらに、通常の手合と別にトーナメント式の新たな称号戦「天元戦」を2年に1度行うことも決まった。本因坊のように世襲制ではない称号を用意できたことで村瀬秀甫もかなりやる気になっているようだ。秀甫は本因坊位の世襲(次期本因坊には秀和の実子が内定しているらしい)によって家元襲名の獲得は絶望的だったらしいので、彼に新しい目標ができたのなら何よりだ。
♢
神奈川県 横浜
出発の7日前。片づけなければならない最後のことが実施された。横浜の山下に、俺とイギリス人が共同で整備した日本最初のテニスコートが完成したのだ。完成記念式典には外務省から寺島宗則殿も参加し、駐日アメリカ公使のチャールズ・デロングやパークス駐日イギリス公使の代理であるフランシス・アダムズ代理公使も出席した。パークスは岩倉使節団の訪英を前にイギリス国王に現状の日本について報告のため帰国しているためだ。外国人向けの施設だが、日本人でも申請すれば利用できることになっている。とはいえテニスをできる日本人なんて俺しかいないわけだけれど。
式典では公使の挨拶やらなにやらと色々行われた。実はまだ硬式テニスの国際ルールも明確に定まっていないので、この場は外国人向けの遊び場の延長線上でしかない。とはいえ日本初なのは事実。ラケットでボールを打つのは同じということで、俺も記念に少し打つ機会をもらって参加したのだった。コートの大きさも前世の感覚と違うので難しかったが、イギリス人からは割と好評だった。
ついでにこのコートの管理室でも英字版の新聞を販売できるようにしてある。今日ここにきているような人はほぼうちのお客様だが、新規顧客獲得に多少なりと役立つだろう。うちのカメラマンが集合写真を撮って、翌日の新聞の1面左下に掲載された。『世界に広がるスポーツ。日本も挑戦すべし』そんな見出しだ。フランスのフェンシングのような武術や蹴鞠のようなものから派生した身体鍛錬がきっかけのものであり、欧米諸国と対等に戦えれば日本の武士がいかに優れていたかを示す手段にもなる、といった内容だ。士族階級で金銭的に余裕がある、鍛錬が主体だった一部の層が目標を見失わないようにすることができるといい。武術指南を生業にしていた一部の士族がこちらに吸収できれば、西南戦争のような士族反乱の参加者を減らせる可能性もあるし。
とはいえ、剣術や柔術が完全に廃れても困る。こちらにも帰国したら支援をしなければならないだろう。身体能力の高い人間の受け皿を増やす。それが大事だ。
あと1週間後には出発だ。それまでに、テニスコートの開設まで終わらせられてよかった。
この時期が囲碁や将棋などの鉄板新聞コンテンツの一番辛い時期です。特に囲碁は本因坊が屋敷を焼失し倉庫暮らししているレベルなので、困窮が極まっています。そこを支援することで2つの棋界への影響力維持などを狙っています。
主人公は家元制度を継続するより今の将棋界・囲碁界の形の方がいいと考えているので、最終的にはそこを目指す予定です。




