第65話 郷に入っては郷に従うために
遅くなって申し訳ございません。
来週6日に別作品の漫画版が雑誌発売となります。よろしくお願いいたします。
東京府 東京
明治三年の年越しも東京で迎えた。昨年と違うのは藩主の南部利剛様や麻子様が上京していることだ。麻子様は在京で欧米について事前学習をする予定だ。盛岡の日新堂では女性向けの教育に関する準備がないので(当たり前だが)、こちらで俺の空き時間に主に英語とマナー関係などを扱う勉強会を開くことになった。
同時に、津軽藩から上京して西洋医学を学んでいる渋江三吉という少年(といっても俺の1つ年下なだけだけれど)の妹である水木も品川の宿に来ることになった。他にも会津藩から女子教育を進める名目で新政府で働く藩士の一族から数名が参加している。梶原平馬殿の妹が会津藩子女のまとめ役で、学級委員長的な立場が麻子様である。家老だった保科頼母の娘がいるらしく、どうやら集団自決はせずにすんだようだ。彼女たちは親族が慶應義塾や大学南校に通うそうで、その生活を支えつつ週3回ほどの勉強会に参加するらしい。
未元服な上麻子様との関係が公然の秘密となっている(そんなことは聞いたことがないぞ)ため、婦女子を預けやすいのが理由らしいが、それ以上に仙台藩や会津藩は俺を値踏みというか「盛岡藩の神童」扱いされている俺を偵察させるために派遣してきている節がある。
福澤諭吉殿もいずれは女子教育を慶應義塾につくりたいらしく、通常教科の授業を担当する塾員を派遣してくれるそうだ。使っている教材を貸してくれつつ、中津藩の人脈と幕臣から1名ずつの参加を頼まれた。結果として総勢20名の女学校の始まりである。実際に全員と俺が会うのは週1日だけだが、麻子様とは週3回くらい直接英語の指導に当たることになりそうだ。臨時の江戸派遣とは何だったのか。
麻子様は品川宿ではなく、利剛様と一緒に盛岡藩の下屋敷にいる。上屋敷周辺は省庁の新設などで新政府に提供されているものの、下屋敷のある渋谷広尾はまだ利用方法が決まっていないからだ。盛岡藩からくる他の女性陣もそちらに滞在するらしい。全員はまだ揃っていないので、今は麻子様の予習だけだ。本格的に大人数で勉強が始まったら、この屋敷まで多くの女性が通うことになる。
「で、我らの言葉と違って主語・動詞で文章が作られている訳です」
「難しいですね」
「まぁ、話し方を意識したことなどありませんよね」
ウイリアム・ドイルが輸入する機械は今年の年末にこちらに届くそうだ。出版業を本格化させるのはそこからになりそうだが、すでに福沢諭吉殿から現在執筆中の初等教育用の教科書を出版するのに協力してほしいと頼まれている。初期から印刷の仕事があるのはありがたい限りだ。ついでに英和辞典を現在準備中だ。これは麻子様の学習用も兼ねつつ、外国人に向けて販売を予定している。
「とにかく、今日は基本の挨拶とよく使う表現まで覚えていただければ」
「はい」
麻子様はあまり色々な反応をしないが、流石に英語の学習は難しいらしく、少し悩むような素振りを見せることが多い。突然今まで習ってきたことと180度違う勉強をさせられているのだ。無理はない。漢詩の言葉から名詞や動詞などの概念を説明したのだが、やはりまだまだ文法という考え方は難しいようだ。そもそも日本語の文法というものが確立していない(標準語がない)状態なので、純粋な国語辞書をつくる必要はありそうだ。実際、開成所にいた当時ヘボン先生と会ったが、彼の日本語は薩摩弁と長州弁と京都弁が混ざっていた。正直ほぼ聞き取れなかった。
「本日はここまでにしましょうか。今日はイギリスの菓子を用意いたしましたので、慣れるためにも食べましょう」
最近はこうした海外の食品を商売にする店が増えている。横浜ではビスケットなどを売る西洋製品の販売店が開店している。品川近くの芝にある牛鍋屋や文英堂というパン屋が出店しており、洋食は少しずつ広まりつつある。そんななかで、今回俺が用意したのは手作りプリンだ。プリン自体は幕末からもう日本に存在が認知されていたようで、先日森有礼殿に試作品の話をしたら知っていた。
木製のスプーンを添えて皿に載せたプリンを持ってくる。道具とともに冷やしたプリンをだすと、最初は何かわからないようでものすごい目をパチパチさせて固まってしまった。どうすればいいかわからずに脳がフリーズしたかんじだろうか。
「こちらがスプーンという欧米で使われる物を食べるときに使う道具です。で、こちらがプリンというイギリスの生菓子です。卵と砂糖を使っている、甘いお菓子ですよ。これを食べながらスプーンの使い方も覚えましょう」
同じ形のスプーンを用意してあるので、それを握りながら食べ方の説明をする。
「このように右手の三本指を使って持ちます。箸と持ち方が似ているので大丈夫です」
「こう……」
「そうですそうです」
「どこが、食べられるのですか?」
カラメルソースを載せた部分が黒いからか、全部食べられると思わないようだ。女中の試食を担当した人も同じ反応だったので、あまり驚きはない。大事なのは固定観念を捨てること。日本で元から黒い食べ物といえばせいぜい海苔かゴマくらいだ。どうしても墨や腐った物をイメージしてしまう。だからこそ、ここで慣れておく必要がある。そもそも肉食もほとんど慣れていないわけだし。焼いた牛肉だって見た目は黒系統だ。醤油があるとはいえイメージを変える努力はしていきたい。
「全て食べられますよ。スプーンで少しずつ削り取るようにして食べるようで」
麻子様はおそるおそるといったかんじでスプーンをプリンに触れさせる。残念ながらそこまでプルプルしないのでちょっと柔らかいタイヤのような震え方をしている。
「お豆腐みたい」
「確かに、ちょっと似ていますよね」
「……甘い!」
今まで聞いたことのない麻子様の強い口調。いつものようなゆったりと格式高そうな所作が崩れて、気持ち急くように少しずつすくってはプリンを口に入れる。ほんのり口元が緩んでいたので多分喜んでいるだろうと思ったら、スプーンを皿に置いて口元を隠してしまった。
「いじくさり」
盛岡一帯の方言で『いじわる』という意味だ。顔を横に向けているが、ほんのりと頬に朱がさしているのがわかった。しまった、女性の食べる姿をじっと見るのは失礼だったかと気づいた。
「申し訳ございません。お食事中の女性の顔をじっと見るのはマナー違反でした」
「マナー?」
「しきたりと言いますか、礼式と言いますか、作法といいますか。難しいですが、そういったものをアメリカやイギリスではマナーと呼びます」
「……確かに、そうかもしれませんが、そういう話ではありません」
ちょっと覗きこむようにこちらを伺う麻子様。言葉の意味とは合っていないということか?
「父上から、アメリカより帰ったら夫婦になると言われました」
そもそもアメリカ行きも決定事項ではなかったはずだけれど。行った方が手に入るものが大きいのは事実なので構わないのでとりあえず黙っておく。
「父上は間もなく大名でなくなると。御一新でもう盛岡に戻ることもないと。これからは家柄のみでは豊かには暮らせぬだろうと」
地位としては華族、知藩事ではあるが大名と一応変わらない南部利剛様だが、廃藩置県までのロードマップは共有しているのだろう。
「健次郎様ならこの国を変えられるだろうと父上は申しておりました。だから、この縁を大事にしたいと」
「そこまでのことが出来るかはまだわかりませんよ」
「楢山(佐渡)様も、原の御兄弟は盛岡に収まる器ではない、と」
本来の原敬より自分が優秀とは口が裂けても言えないが、俺にはこれから起こることに対する知識がある。これから誰が大成するかの知識がある。それらを利用すれば、兄とともによりよい未来を導けるはずだ。
「世界は今、激動の時を迎えています。日本という国家がその中で異国の波に吞まれぬよう、出来ることをしたいと考えております」
「私や健次郎様の歳でこの国を憂う者はいても、実行している方はおりません」
「話がずれました」と麻子様は話題を変える。
「あと数年で夫婦となる方には粗相をしたくございません」
「そこまで気にせずとも」
「いいえ、します。この国を変える方の妻ならば、必ずや多くの方に『私』が見られるでしょう」
この頃からファーストレディという考え方はあるのだろうか。確かに戦前から総理大臣の夫人は色々な場に顔を出すこともあったと聞いたことがある。閣僚の夫人たちが会う慣習がどこかの段階から始まったとも聞いているし。
「健次郎様に見合う私でいたいので、作法には厳しくありたいです。そして、何より健次郎様に相応しくありたいです」
ぶっちゃけザ・お姫様である麻子様に相応しくないのは自分の方なのでは?と思うわけだけれど。家老の家柄とはいえ他の家老である高知衆は南部の血が入っていることが多い。一方、原氏に南部一族の血はほぼ入っていない。そういう家柄の、しかも次期当主ではない次男という立場なのだから。しかし南部利剛様は華族という制度が正式施行する前から華族というだけでは何にもならないことを理解しているのだろう。既に新政権では大久保利通・木戸孝允・西郷隆盛・船越衛(広島)・江藤新平(佐賀)といった面々が要職を占めている。元藩主で政府要職にあるのは松平春嶽様くらいだ。これからの歴史を考えれば、利剛様の見立ては正しい。
「もう十分だと思いますが」
「いいえ、甘味に惑わされて場にそぐわぬ緩みを見せるようでは」
「それくらいはむしろ女性らしくて良いと思いますが……」
「2人きりでもありませんし」
確かに側つきの女中も控えているところで緩んだ様子を見せると後で何か言われるのだろうか。横目に見た侍女2人はすました顔をしているが、先ほど2人で少し顔を見合わせていたのは見えていた。
「まぁ、舌が慣れるためにもこうした欧米の食べ物は持ってくるので、楽しんでいただいた方が嬉しいですよ」
「いじくさり」
そう言って袖で口元を隠す麻子様。嫌がる口ぶりではなさそうだったので、まぁ大丈夫だろう。
その後も少しだけ欧米文化を教えて、その日は屋敷を後にした。帰り際に見送りにきた女中の1人が満面の笑みだったので、少なくとも失礼なことはせずに今日という日を終えることは出来たはずだ。どちらかというと、他の藩の女性陣が混じってからの方が心配だ。
年明けから憂鬱な部分を感じつつ、盛岡には当分戻らないだろうことに少し寂しさも感じる。兄は島津の姫様と仲良くできているのだろうか。仲良くしているならそれはそれでちょっとイラっとしそうだが、頭の中にある知識について忌憚なく話せるのは兄だけなのだ。同じ境遇の人間と定期的に話せるほうが精神衛生的にはありがたいんだけれど。これも一種のホームシックなのだろうか。
史実では維新三傑だったのが、維新五傑くらいのかんじになっています。
プリンの初出はペリー来航から5年後くらいらしいです。女学校の始まりも大分前なので、教育分野も少しだけ前倒しで動いています。
ちなみにこの動き自体は岩倉具視らも把握しており、留学生の予習になるため奨励しています。岩倉使節団の一員となるかはこれからの情勢次第です。
ちなみに以前いくつかいただいていた質問ですが、西郷頼母の家族や小栗上野介の一族などは生き延びています。ただ、小栗本人は隠居状態なので新政府にはかかわっていません。『いわてっこ』の北関東での普及にはかなり貢献していますし、健次郎の新聞も人伝に手に入れて読んでいます。そのうち少しだけ登場する機会がある予定です。




