第64話 李氏朝鮮と攘夷
投稿遅くなり申し訳ございません。来週は火曜日夜に投稿できる予定です。
シャーマン号事件(李氏朝鮮側の史料しかないのでその概略です)
アメリカの武装商船シャーマン号が交易を要求し、使者を捕縛し住民を砲撃したので朝鮮軍によって撃破・沈没させられた事件。
東京府 東京
冬になった。年末の慌ただしさの中で、日清修好条規の締結に向けた最終調整が行われていた。
漢文翻訳の担当者が毎日遅くまで外務省の一室で仕事をしているらしい。日英の条約改正交渉は日墺通商航海条約でイギリスの思惑を少しだけ阻止した分、相手の態度が硬化して交渉は打ち切り状態だ。その分東京府内の事業展開準備に時間が使えているものの、たまに外務省に来ると彼らの交渉が大変そうなのがわかる。
日英交渉が停滞している分、日米の交渉だけ確認する業務に自分が必要なのか少し考えてしまう。とはいえ、アメリカ側は現在李氏朝鮮へ軍艦を派遣しようとしている。シャーマン号事件後の、アメリカによる軍隊派遣だ。長崎で一時寄港する予定らしく、そのあたりが事前交渉で話し合われている。
新政府はこのアメリカに協力して日本も朝鮮に開国を迫るべきと訴えている人物がいる。本来の歴史でもあったのかなかったのかわからないが、戊辰戦争が短期で終わったことで少しだけこの問題に顔を出せるようになったということだろう。
対米交渉を担当している森有礼殿だ。
「開国を拒否しているのは大院君ですよね?」
「左様です。健次郎殿はシャーマン号の話は当然ご存じですよね?」
「ええ。多少は」
「で、アメリカ駐清公使のフレデリック・ロー氏が調査のために軍隊の派遣を要請しました」
その軍隊が長崎に集結する予定らしい。
大院君は現在の李氏朝鮮国王・高宗の父親だ。本人は朝鮮国王になったことはないが、若い国王の父として朝鮮の実質的な支配者となっている。
大院君は数年前の長州藩以上に強硬な保守・攘夷派だ。数年前に宮殿の復旧をするため重課税を行ったり、朝鮮の貴族階級である両班に仕事を課したりした人物だ。しかも宮殿は完成直前に焼失し、再々建築までしたらしい。こうと決めたら変えないタイプと有礼殿は分析していた。
「我が国が派遣した使節にもかなり横柄な態度だったようで、使節として向かった面々がアメリカとの共同軍隊派遣を主張する始末です」
「大久保様や西郷様、木戸様は何と?」
「まだ陸軍も海軍も創設が終わっていないのに、何を申しておられるか、という状況ですな」
意外にも西郷隆盛は賛成していないらしい。ここから廃藩置県に地租改正、廃刀令に壬申戸籍が控えていると言われれば確かに「それどころではない」のだろう。彼が征韓論を主張した当時と違い、留守政府が進めた諸政策が何も始まっていないわけで、動くに動けないのが実態といったところか。
「ただ、アメリカ軍の後方支援だけでも我らが関わることで、条約改正交渉や使節団の派遣でアメリカとの交渉に利するという意見もありますな」
「それはどなたが?」
「今も大阪で治療中の大村様です。御親兵の一部をあくまで調査中の物資補給を支援という形で協力しよう、と」
切られた影響で治療中の大村益次郎。その死が回避されたとはいえ、足を切断してまだまだ療養中だ。そんな彼がここで日米協力をということだ。もしもこのアメリカの出兵で李氏朝鮮が開国となれば、日本ははたして朝鮮に史実のような条約を結ばせることは出来るのだろうか。地政学的なリスクも含めて朝鮮半島が友好的でない状態は日清戦争と日露戦争のトリガーだ。ただし、アメリカがモンロー主義を維持している今はまだそこまで積極的にかかわってこないのも確信している。あくまで鎖国から開国への転換を求める形とは思うけれど……どうなることやら。
♢♢
大阪府 上本町
大村益次郎は適塾出身者が多数在籍する仮病院で治療を受けていた。右足を失った彼には既に要職を続けるだけの体力は残っていない。だからこそ、もろもろの激務を山田顕義らに任せつつ自らは相談役のような形で動いていた。
山田顕義はアメリカの出兵に対して協力すべきではないと考えていた。それは朝鮮半島での主導権をアメリカに握られる懸念からだった。
「大村様、本にアメリカに協力して良いのでしょうか?」
「問題ない。今のアメリカは異国を植民地にする余裕がない」
アメリカは現在進行形でドミニカの合併協議で国内を二分させている。議会は反対派が優勢であり、モンロー主義は根強かった。この状況でアメリカが朝鮮半島を開国・貿易だけでなく植民地化することは、本国との距離的にもありえないと大村は考えていた。
「大事なのは、アメリカに理解させることだ。朝鮮が今どれだけ深刻な状況か。隣国でもないアメリカが、教育さえ権力闘争に利用されている国にどこまで手をかけられるか」
李氏朝鮮で現在最も権力を掌握している大院君は現在、書院(教育機関)改革を強硬に進めている。この当時、儒教と結びついた書院による授業料の過徴収が横行しており、税金の回収にも困っていた。支配層の腐敗に加えこうした諸問題に一気に対処しようとした結果、味方がほぼいないのが大院君の現状である。そんな大院君が保守派であるために開国は進まない。フランスが3年前に宣教師を殺害されたことを理由に行った軍事侵攻も失敗しており、朝鮮国内は攘夷派が強い影響力を持っていることになる。
「あの国は清が市場になるから朝鮮も市場になると思っている。それはありえぬ」
「搾りとれる物はない、と?」
「なまじ攘夷を成功させたが故に、清国人以外への敵愾心が強すぎる。清以外で辛うじて話せるのは日本だけだ」
よほどの大軍であれば別だが、朝鮮も清の旧式ではあるが5000丁はマスケットを購入している。相応の武装は保有しているのである。
「アメリカも少し手を出してみて、そこからあの国を知ればいい。ドミニカの方がいいと思えれば、手を出しに来ることはあるまい」
「ですが、このままでは朝鮮は我らの市場にもならないのでは?」
「清がどう動くか確認してからになるが……」
大村はリハビリに残った左足を両手でマッサージしつつ答える。
「我らならば開国させる手立てはいくらでもある、ということよ」
大村益次郎は現在の朝鮮がより泥沼化することを望んでいた。それは朝鮮国内の民衆が既存の権力者に反発する状況をつくりつつ、日本陸軍の整備が進む時間稼ぎをするためだ。
清はまだ混乱からの立て直しに時間がかかっている。杜文秀の反乱(パンゼーの乱)なども現在進行形で進んでおり、反乱しているわけでも朝貢関係が崩れたわけでもない朝鮮に労力を割く余裕はない。
「清が隙を見せた場合、我らが欧米に市場としての朝鮮を提供できると示せれば」
「欧米に朝鮮での優越を認めさせられる、と?」
「まだ今の清と戦うには力が足りないが、ね」
洋務運動により、上海で曽国藩が近代式の艦隊の整備を開始しており、李鴻章のように急激に台頭する若手も出てきている。資本力と人口、資源のある清は現状で日本にとって格上の相手だった。
「だが、欧米諸国に対抗するなら清とは最低でも互角の立場が必須だ。『眠れる獅子』に対抗できなければ、アジアで生き残れん」
「生き残れない、ですか」
「おそらく、東方アジアで生き残れるのは多くて三か国。我らか、清か、阮朝か、タイか。残るためには、最低限戦える力が必要なのだ」
大村は準備が整い次第朝鮮半島への出兵をすべきと考えていた。そのタイミングはあくまで陸軍の整備が終了し次第であり、国内の近代化政策が落ち着いてからと。しかし、そのためには時間稼ぎが必要とも理解していた。
フランスは一度撤退し、イギリスも現状のアジアへのかかわり方で満足している以上、懸念はアメリカだった。仮にアメリカが本気で戦力を投入すれば朝鮮半島は植民地化も可能だ。しかし、モンロー主義が強いアメリカならばそこまでは国民が許さないだろうと大村は考えていた。アメリカの攻撃で朝鮮が近代化に目覚めるならそれも良し。近代化を本気で志向すれば現状の朝鮮の権力者は排除するだろうという考えだった。排除するなら清の影響力も大きく減少するので、日本が介入することが可能だ。清のような大国であれば中体西用でも近代化はできるが、朝鮮は権力者が腐敗しすぎている。
中体西用に近い方向ならば失敗するだろうから、介入の余地も生まれる。そんな思考は口には出さないものの、十分狙えるというのが大村の考えだった。
「幸いにも、昨年今年の冷夏にも南部の米で不作にならずにすんだ。函館の造船所も横須賀より先に動き出してくれている。清と戦えるようになるのも遅くない」
「多少は強気に清と交渉しても良い、ということですね」
「そうだ。来年には山県も欧米から帰国する。この足ではもう奉職はできぬが、2人で軍隊の整備に尽力してほしい」
「もちろん、大村様の御意見いただきながら、全力を尽くしてまいります」
山田顕義は大村に忠実だ。一方で山県有朋は欧州から維新政府に提言をおこなうなど、大村だけに頼る形ではない。だが、そこがよいと逆に大村は考えていた。片足を失ったこともあり、後継者の育成は急務だった。なんとか山田・山県に薩摩の西郷従道・川村純義などでほどよい均衡をつくることを計画していた。自分だけなら新政府への文民統制がきくが、他の人間が軍隊を暴走させる可能性はある。そうならないためにも、軍の中で勢力均衡を実現して政府の方針に従う軍隊を整備しようと考えていたのだった。
史実では7000丁あったとフランス軍人が証言しているマスケット銃。この世界では北越諸侯が収入の改善で清向けになるはずの銃を購入した関係で、清から李氏朝鮮に払い下げられるはずの銃が減少しています。
杜文秀の反乱:当時清国人などはパンゼーの乱をこう呼んでいたのでこちらで表記しています。
曽国藩の上海軍は北洋艦隊に先がけて対欧米諸国のために清が整備を始めた西洋式艦隊です。まだ1870年頃では李鴻章の台頭が始まったころです。




