第62話 大村益次郎襲撃と製紙業
遅くなり申し訳ございません。今後は基本火曜夜から水曜夜になることが多いです。
東京府 東京
夏真っ盛り、とはいえそこまで暑くない日々。
新政府は東京と横浜の間で初めて電報の業務を開始した。これにより、外交関係の事案で文章だけなら横浜での話し合い結果をその日の間に開成所で翻訳することが可能になった。
とはいえ、仕事が楽になるわけではないのは携帯電話の普及でサラリーマンの仕事が楽になっていないことから自明だ。情報伝達速度の向上は社会の発展に不可欠だが、それは個々人の業務を改善するわけではない。
同時に、開成所にカーボン紙が導入された。電報の処理で使用するため、こちらにカーボンによる写しが送られたり、横浜に送るための原本と写しのような形で利用されている。
「輸入のカーボン紙って高いのではございませぬか?」
武田斐三郎殿に聞くと、彼はひげをなでながら渋面を浮かべる。
「まったくその通り。しかしこれの仕組みもわからぬ故、作れるものでもないのよ」
ついでに言えば、輸入する量も大した量ではないだろうし、国内で事業化するにしても今は採算がとれないか。
「しかし、やはり紙には興味津々ですな。聞きましたぞ、紙を作るところから自力でしようとしておると」
「よ、洋紙の生産はこれから重要になると思いまして」
盛岡藩と八戸藩の合同工場は版籍奉還とともに報告している。製鉄所・造船所・大砲製造所はいずれ官営の工場となるだろうが、製紙と化学については家老や藩士が一部出資している(形になっている)ことで官営にはならない方針である。
「これから我らは士族となる故、いつまでも武士と思うてはなりませぬ故な。商いをする士族がいてもよろしかろうて」
武士が士族となったのも今春だった。士族となって禄が減ったことで生活のために父祖伝来の武具を売った人も出ているそうだ。盛岡藩内の噂では聞かないが、盛岡藩士のほとんどは『いわてっこ』のおかげで借金もなく生活が安定しているからだろう。実高が高いのも大きい。
「ただでさえ政庁の整備もあって東京から仕事なき者を下総に移そうとしている最中。西洋に負けぬ国づくりのため、欧米列強と同じものを作れる人間は大歓迎ですな」
「あぁ、初富と二和でございますね」
千葉県の船橋・鎌ヶ谷一帯にあった旧幕府の馬場を開墾する計画が進んでいる。どちらかと言えば近郊農業を発展させる方がいいと思ったが、こちらに情報が入ったころには予算もついて計画が進んでいた。そんな細かいことまで知識として知らないからどうしようもない。失業対策にはなっているけれど、成功するのかね。『いわてっこ』が育つかどうか次第か。
「失業者がいるなら、早く新しい産業を取り入れなければなりませんね」
「新しい産業を始めるにも、欧米の機械は必要でしょうしな」
「武田殿、その件で少しご相談が」
「ほう」
岩倉具視様の使節派遣について、実際どの程度話は決まっているのか聞いてみる。自分としては留学ではなくある程度渡航時に自由行動が可能な状況だと嬉しいこと。現時点ではアメリカとイギリスにのみ行きたいことなどを告げる。実際、岩倉使節団はロシアには行っていないので日露戦争時のロシア全権・ヴィッテと出会う方法はない。年齢的には今ごろロシア国内のどこかの大学にでもいると思うが、詳細もわからないし。
「成程。もし健次郎殿が使節に加わるとしたら、我々も留学生にはしたくないところなのです。翻訳係と、欧米のパーティーに参加してもらい、『日本の若者にはすでにこれだけの教養ある人材がいる』と示したいのですよ」
「となると、英米のみでは困りますかね?」
機械類を買うならアメリカがいい。時期については来年開始の廃藩置県が終わり次第のようだが、1873年はアメリカで恐慌が発生する年だ。恐慌の最中アメリカに居残り、そこで倒産した会社の機械や備品、解雇となった技術者を雇えば一気に産業の導入も可能だ。
イギリスもスエズ運河開設が今年あって経済が不況になる。イギリスの帆船はスエズ運河の通航に向いていないからだ。イギリスはインフラへの国家投資が減少するはずなので、こちらもインフラ関係の技術者を獲得するのに使えるはずだ。
そんなことを考えつつ、自分の意思を伝える。まぁ、完全には意向通りにならずとも、多少はうまくいけば何よりだ。
そんなことを考えつつ話をしていると、部屋に斐三郎殿の助手を務めている青年が慌てた様子で駆けこんできた。
「大村様が、京にて襲われましてございます!」
♢
大村益次郎が襲われた。直接会ったことはないのだが、日本の近代軍事制度の骨子をつくった人物だ。第二次長州征伐でもかなり活躍しているのを聞いている。そんな彼が京都で襲われた。とはいえ、どうやら話を聞く限り死亡するほどの負傷ではないらしい。
「同行していた護衛掛の寺内や児玉が負傷しましたが、なんとか撃退したとのことで。大村様も片足は動かせぬとのことですが、命はとりとめたと」
「医師には見せたのか?」
武田殿も顔は焦ってはいるが声は自制がきいたものだ。
「緒方洪庵様の御次男とオランダの医師が治療し、片足を切るだけでなんとかすんだと。寺内は右手の腱を切られたとのこと」
「下手人はわかっているのか?」
「寺内とかつて同門だったようで、相手も動揺していたおかげで何とかなったとのこと」
「同門か。とすると長州か?」
「はっ。攘夷第一の敬神堂出身者とのことで」
攘夷論者による大村益次郎の襲撃。失敗したのは自分のアプローチによるものではない。函館で戦わなかった分、軍制に関わっている人物たちが実戦経験の不足を補うべく軍学校の整備を急ぎ、候補者を軍人候補の側で護衛兼徒弟のように張りつかせていたらしい。結果として、大村益次郎は一太刀受けて片足を切断することにはなったものの、一命はとりとめたということだ。とはいえ史実でも襲撃から2か月後くらいで亡くなっているので、油断はできないと思うけれど。
「状況次第では追加で医師の派遣もあるかもしれんの」
とにかく、この一件では自分が動く必要はなさそうだったので何もしていなかった。事実護衛が襲撃犯を撃退には成功したわけで。同じ私塾出身者ということで、捕まるのも時間の問題だろう。
「大久保様や木戸様はこれを機に国家警察の整備を進めるべし、と申されそうですね」
「警察。ポリスか。かもしれませぬな。手の空いている者がいれば少し欧米の資料を整理させますか」
ここまでで死ぬはずだった人が生き残ることもあるはずだ。俺の知るかぎり、土方歳三は生死不明だ。会津で最後にその姿が確認されていたが、会津降伏後に行方不明となっている。桑名藩主だった松平定敬も幽閉状態ではあるが婚姻などが許されていて、榎本武揚のように旧幕臣の維新政府参加者も多い気がする。土佐藩のように一部しか参加できておらず、福岡孝悌のように土佐藩内の役職しかない人物も出ている。
「要人襲撃は今後もあるでしょうね」
「となると、何より帝の周りを守る御親兵とともに議定や参与などの要職警護も担当する部署を設置すべきか」
アメリカのシークレットサービスっていつからだろうか。イギリスかフランスかドイツに類似制度があればいいのだけれど。
少なくとも、総理大臣の暗殺が容易になるような状況は避けたいところだ。
なにより、史実の原敬だって暗殺されたし、伊藤博文も他国で殺害されたのだ。そうした行為から身を守れる体制づくりは、自分が総理大臣になってから整備するのでは遅いだろう。今の時代、まだ剣豪や武の達人が残っているからこそ、そういう制度を整えてほしいところだ。武術道場の生存戦略にもなるだろうし。
何かしら主張できるように、今のうちから新聞含め主張できる情報をまとめておきたいところだ。予算とのかねあい含め大久保利通や木戸孝允といった人々が判断するだろう。
♢
神奈川県 横浜
『ジャパンタイムズ』のチャールズ・リッカービィからアメリカ人貿易商を紹介すると言われ、横浜に出向いた。貿易商の名前はウイリアム・ドイル。彼は日本でも印刷業・製紙業が興ると読んで製紙に関わる機械を共同購入する相手を探しているとのことだった。
「どうやってイギリス人とアメリカ人で出会ったので?」
「横浜はまだまだ狭いのだよ。取材を申し込んだことがある縁でね」
今の製紙主原料はぼれ切れや麻・綿だ。綿製品を扱う貿易商であるドイル氏は、同様に製紙業にも手を出そうと考えた形だろう。
「で、これがハチノヘで作っている紙の原料かい」
「はい。これを製紙用の機械で紙にして売れないかな、と」
事前に話を聞いていたので兄に八戸で試作しているクラフトパルプの試作品(まだ繊維質にしただけのものだが)を送ってもらっていた。それを使って製紙をしたいと申し出たのだ。原料はすでに木材だと伝えてある。
「ドイツで発明された木材から紙を作る方法は手間が大きく、あまり実用化は進んでいません」
「我々の方法は可能です」
「原料が確保できるなら機械の調達はしましょう。ハチノヘは近いのですか?」
「いや、遠いので、運搬方法は考えます。海沿いに工場が造りたいですね」
実際、工場を造るなら都心部への運搬も含めて考える必要がある。原料から加工をして成型までを八戸で行うのか、成型は都心に近い部分で行うのか。都心に近い方が当然だが都心部での需要に素早くこたえられる。八戸で行えば工場が1つですむものの、都心の需要に対する即応性は落ちる。未来の日本では紙の規格がAとBと2つあるが、国際規格はAだったはず。ひとまず両方作れるようにすれば大量生産は対応できるので、それと個別対応用の工場に分けることも考慮しなければならないだろう。
「ひとまずそちらの資金もありますし、新聞で初期の需要は十分ありますね。開成所も紙は必要でしょうし」
「そうですね。それらからも注文はとれるでしょう」
需要の存在しない仕事は意味がない。需要を生みだせる、または近々で発生する産業はありだが。現時点では必要な機械の有無に左右されやすい。
「いやぁ、神に感謝ですな。異国にこれだけ話ができる若者がいるとは」
「日本は清国と違って話せる人がいて助かりますな」
順法精神がない人間は人間として対応しないこともあるのはこの時代の欧米人としては当然のことだ。とりあえず、文明人扱いされて交渉相手と思われているだけましということになるか。思わぬところで機械が確保できそうだ。使節団の話も事前に伝えたが、「なら時期次第で私も一緒に戻って買付けをしよう」という話になった。そうなればこちらとしてもありがたい話だ。うまく色々進めたいところだ。
ウイリアム・ドイルが抄紙機を日本に輸入したのが1872年ですので、この時点ではまだ計画段階。本来は業務提携相手を見つけて1874年に工場建設開始(三田製紙所)の流れになるので、史実より早く業務提携して製紙場の稼働開始となる予定です。