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平民宰相の世界大戦 ~原敬兄弟転生~  作者: 巽未頼
慶應四・明治元(1868)年
45/109

第45話 開城

最初は3人称です。

 摂津国 大坂


 徳川慶喜は決断を迫られていた。海上は移動可能なため海路を利用して岸和田やさらに後方まで撤退するか、大坂城での籠城を継続するか。はたまた官軍側の降伏条件を受け入れるか。

 尾張藩の事実上の降伏をうけても、そして桑名藩の領内が広島藩(実質大垣藩)によって占領されても旧幕府軍の士気は会津藩などに限れば高かった。しかし長州征伐でも経験したことのない『明確な敗北』を受け入れられるかという問題と、そもそも旧幕府軍が大坂の制海権を維持しつつ補給を維持するのにかかるコストの問題があった。重臣たちは連日、身をのりだすように議論を続けていた。


「大坂を捨てれば、あとは江戸か駿府で戦う他なくなりますぞ」

「桑名は領内にほぼ兵がおらず、広島藩に抗う力はありますまい」


 実際、桑名藩はほぼ全兵力を大坂に向かわせていた。残っていた兵のうち、矢田半左衛門らが広島藩への降伏と新藩主の擁立を願い出ており、反発する50名ほどの藩士は尾張藩の徹底抗戦派とともに大湊から脱出し、三河に入っていた。岡崎藩を中心に吉田・西大平・田原藩などが主体となって東海道の諸藩とともに元幕府軍をまとめて三河に防衛線を構築していたが、藩兵不足に陥っていたところに脱出した兵が合流した形である。


「駿府まで退けば立て直しも不可能ではございませぬ。掛川も浜松も大坂で戦うより地の利のある東海道の方が戦いやすいと」

「それに、物資の運搬は今は距離も長く、江戸からの往復に軍艦を使わねばなりませぬ。しかし駿府であれば江戸との往復も容易。尾張一帯の海も敵に渡さなければ、敵は陸路で物資を運ぶ故今よりも消耗を強いることも可能かと」


 重臣たちは駿府まで退いても諸藩はまだともに戦うと見ていた。しかし、会津藩はまだしも本拠地を失って戦意のない尾張藩も、制海権があるから従わせている紀伊藩も駿府まで退けば味方ではなくなると慶喜は考えていた。御三家の2つが敵に降伏した時点で、この戦いに勝利はないという判断だった。


「岸和田は城がない。守れるのか?」

「現在防衛陣地とやらを旧装備しかない部隊に用意させております。この大坂城は二の丸の櫓などは敵の砲撃で既に使えませぬし、天守も損傷しております」

「余が思うに、大砲相手では城は戦えぬのだろうな。西洋も石や漆喰造りの分厚く高い壁で都市ごと守るしかないと聞く」


 天守の一部が損傷している大坂城。城に籠れば一定期間守れた時代は終わっていた。部隊行動の練度が高い旧幕府軍の主力だったが、単純な『戦場の変化』までは戦争を経験することで初めて理解していた。防衛陣地を構築した場所で防衛はできているものの、逆に言えば『城』の戦術的意味はもはや無に等しかった。ただし、大坂という大都市を敵に奪われるのは戦略的には大きな喪失だった。三都のうち2つを失う。それはどこまで影響が出るかわからない。


「ここを退くならば、今後どこまで諸藩がついてくるかわからぬ。余は、大坂から退くならば朝廷に降伏すべきと思う」

「殿!」

「既に大坂の町にも少なからず被害が出ている。どこまで続ける?岡崎も砲撃で町も城も失うか?駿府もか?江戸もか?」

「江戸ならば、町に火を放ち敵を焼き殺せるかと!」

「許さぬ。民から全てを奪って勝っても、どの道『徳川の世』は終わりだ」


 慶喜は立ち上がった。


「勝(海舟)も大坂に着いた。勝を薩摩の西郷の元に遣わせよ。もし連中がまだ戦うというなら岸和田に退き、岡崎でも駿府でも戦おう。ここで終わるならば、余は江戸城含め大坂も開城する」


 この決定をもって旧幕府軍の代表として勝海舟が交渉を西郷隆盛に打診。西郷は勝からならばと交渉開始を受諾。交渉の前段階として守るのが厳しくなった旧幕府軍は大坂城から撤退し、防衛陣地の完成した岸和田に向かった。山岡鉄舟が幕府から派遣され、淀城で交渉が始まることになった。この一報が尾張にもたらされると、桑名占領後の広島藩を軍監とする東海道の官軍も尾張藩領の東への進軍計画を停止して尾張防衛に動きはじめた。


 ♢♢♢


 山城国 淀


 雪解け間近の3月7日。徳川宗家の条件付き降伏で鳥羽街道から始まった戦争は終了した。仙台藩・会津藩などは船で江戸を経由して領国へ撤収。尾張元藩主徳川慶勝が慶喜の代わりとして京都預かりとなり、仙台藩と会津藩は処分が未決定として一旦領国へ戻った。慶喜は江戸へ戻って降伏準備を進めることとなり、尾張・摂津・山城・河内などが官軍に接収された。

 三条実美らが徳川宗家を滅ぼすのはどうかという意見があったことと、実際薩摩藩兵の損耗率的に限界が来ており、まだ戦える程度の損耗率を維持していたのが盛岡藩だけだったことも影響した。これ以上戦えば盛岡藩の発言力が高まることを、鳥羽や伏見、山科で奮戦した諸藩が警戒したのである。薩摩と盛岡の血縁から、新政府が薩摩盛岡体制になるのを嫌ったともいえる。特に長州藩が財政的な限界から三条実美らに賛同し、徳川宗家は駿府から東海道の99万石で残すことで決着した。紀伊藩は10万石、尾張藩25万石、伊予松山藩10万石、備中松山藩3万石、桑名藩5万石などが削減され、東国諸藩の処分についてはひとまず官軍の江戸入城後に決定と決まった。


「西郷、次は」

「はっ。官軍を江戸まで向かわせもす。それと、今信濃にいる相良を」

「ああ。年貢半減という偽情報を流す不届き者を征伐せねばな」

「御任せください、岩倉様」


 ♢


 陸奥国 盛岡


 春になった。東北は静かだ。それというのも、徳川宗家の条件付き降伏という形で戦争が終わったからだ。徳川宗家が99万石というのは史実より多い。100万石にしなかったのは恐らくだが一つの区切りになる数字だからだろう。その少し下まで許容した。徳川慶喜と縁の深い一橋徳川家も10万石駿府隣接地域への移封のみで残ったそうなので、実質的な100万石を徳川に残した、という事なのだろう。


 有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総督として諸藩の兵を吸収しつつ江戸へ進軍しているらしいが、完勝とはいかなかったためか官軍はかなり規律を意識して進軍しているそうだ。民衆から嫌われたら一揆多発、徳川復活を求める!なんて流れになったら困るからだろう。

 そんな中、赤報隊の追討令が出て東山道の信濃諸藩によって相良総三らが捕縛されたらしい。官軍を勝手に名乗って年貢半減を触れ回ったとかなんとか。正直このあたりは可哀想な部分もあるが、薩摩藩の工作部隊として色々やっていた人物だとも言われているので俺としてはなんとも判断がしにくい。


「健次郎、これは奥羽越列藩同盟はできないのではないか?」

「何故です?」

「だって、徳川家降伏したし」

「史実の徳川家も降伏はしましたよ。不服だった人々が箱館に逃げだしているのも史実と一緒です。弘前がそれを手伝っているという噂がありますが」


 弘前藩は一部の幕臣を箱館に逃がしたり、自領に匿っているとかなんとか。信憑性のほどは不明だ。


「松平容保の処分次第でしょうね。それと、仙台藩と北越諸藩も」

「史実では松平容保の処分を軽くしてほしいって理由からの戦いだった。新政府軍はそこまで大勝できなかったから、厳しい処分にはしにくいと思うがな」

「その分、抵抗する力が大きいのも事実です。特に戦訓も多く被害が少ない段階で撤収した北越兵は、いま日本でも屈指の精鋭です」


 処分が軽くなる分、そもそも仙台藩も会津藩も北越の藩も軍事力が高いままなので、処分を不服と認識するハードルが低い。石高を削らないと新政府は安心できないだろうけれど、削ろうとすればするほど奥羽越列藩同盟に繋がる危険性は高いのだ。


「薩摩藩兵は相当消耗しているというのが我々には情報として入っていますからね。どこまで官軍が強気に出るか、そしてどこまで会津藩と仙台藩が受け入れるか」

「とにかく状況の注視が必要、ということだな」

「そうですね。おそらく藩の偉い人が色々情報収集はするでしょうが、自分たちでも何か兆候のようなものを知れれば何よりです」


 自分たちでも情報を集める気概がないと、いざという時に情報不足で身動きが取れなくなる。それだけは避けたい。

史実との主な変更点としては

・尾張藩(本来官軍⇒幕府軍により石高減)

・徳川宗家(本来70万石に削減が実質100万石を維持)

・紀伊藩(藩主交代だけ⇒石高減)

・松平容保らが江戸追放となっていない

なので、徳川宗家から接収する予定だった石高を尾張と紀伊で補てんしているかんじです。その分、徳川宗家の力が史実より残る形となります。基本的に慶喜が戦略的に継戦に否定的なのと、そもそも官軍主力の消耗が大きすぎるという事情が大きいです。

江戸の市街戦については史実でも計画されていました。この世界だと恐らくその前時点の東海道での砲撃作戦でも官軍は戦えなくなっていたと思います。大坂城自体はかなり砲撃などで被害を受けていましたが、砲兵は健在でも銃兵が不足している状況だったので。


土佐兵・宇和島兵がいればまた状況は変わるのですが、最初の6藩はこれ以上自分たちの手柄を失いたくないという事情もあって戦闘をここで終わらせることを選択した状況です。史実の70万石は「薩摩藩や長州藩(長州は実高)より下」というのが肝になる数字なので、それができなかったのは大きいです。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] >処分を不服と認識するハードルが高い ハードルが高い、では意味が逆になるのではないでしょうか。 「かなり無理な処分でないと不服と思わない」という意味になってしまうように思います。
[一言] 主人公たちの会話ののんきさ。 完全に旗幟鮮明となって新政権側になった盛岡が史実通りなら本拠へ戦火が飛び火したり出兵を求められる冷静ではいられなくなる事態なのに他人事な発言だ。従軍したくないか…
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