第44話 大坂孤立
今話は全編3人称です。ちょっと昨日は投稿できず申し訳ありません。
山城国 京
三条実美と岩倉具視の会談は深夜に行われていた。
「西郷は美濃から尾張の平定を進めているが、慶喜を討たねば戦は終わらぬのではないか?」
「西郷は大坂の突破が難しいと申しておじゃる。何より、海を徳川が掌握しておる故、これから援軍がいくらでも送りこめると」
「それを防ぐなら尾張を何とかせねばならぬ、ということか?」
「恐らくそういうことでおじゃる」
2人は戦争に関して詳しいわけではない。ただし、国際情勢については可能な範囲で学んでいた。
「いくら局外中立と雖も、仏蘭西が幕府に肩入れしたがっているのは事実」
「例の瓦版にあった、義勇兵とやらで仏蘭西が敵に回っても困る。西郷に任せるが宜しかろう」
「春になれば人が動けるようになる。それまでに西郷にある程度目途をつけてもらわねばな」
実際にはこの時点で戦時国際法の定めるハーグ条約は存在せず、義勇兵という言葉は常備軍との対比でしか使われない。それはこの新聞をつくった健次郎の知識にないものだった。
「慶喜は内大臣の辞任と半国納地を認めておじゃる。大坂が落とせれば幕府に更に強く出れるでおじゃる」
「せめて駿府四十万石程まで押さえたいところ。今の両松山の接収とともに桑名や会津を潰し、仙台と尾張を含む徳川方の諸藩からある程度土地を接収すれば当面の資金は何とかなるでおじゃる」
「諸藩に御一新を訴え、民を味方につければ徳川も保たぬでおじゃる。西郷の配下を使って尾張近辺の民衆に御一新を報じれば良かろう。既に西郷には人選を命じてあるでおじゃる」
彼らの目論見は相良総三による赤報隊として結実する。しかし、赤報隊は結成後、本来の目的地である尾張から桑名方面ではなく東山道へ進軍し、官軍の統制を離れて独自行動に移っていくのだった。
♢♢♢
摂津国 淀
海上からの旧幕府海軍の支援砲撃もあり、官軍による大坂周辺への攻撃は難航した。河内方面から迫る大和諸藩と佐賀藩は順調に兵を進めたものの、富田林周辺で旧幕府軍と睨み合いとなった。神戸方面からの部隊も摂津の沿岸部を進軍したものの、港のある都市は幕府による支援があって攻めあぐねていた。
西郷隆盛は大村益次郎や副島種臣との話し合いで今後の方針を確認していた。
「大坂城周辺は固い。津藩がこちらについていなければ攻めるに攻められなかったやもしれもはん」
「副島殿はどうお考えか?」
「大坂を落とせれば勝利はほぼ確定。多少の犠牲はやむなしと戦うのが最上ではないかと」
「おいは大坂を無理攻めせず尾張へ援軍を送りたき。大坂の防衛は堅く、何ヶ月かかるかわからぬと」
「尾張攻めはどうなっておりますか?」
「大垣藩が何とか官軍に合流しもした。隠居していた戸田の大殿(戸田氏正)と小原鉄心のおかげかと」
「大垣がこちらについたとなると、尾張攻めに障害はなし、でございますか」
大垣藩の合流で官軍は8000近い大軍で尾張藩領に攻めこんだ。尾張藩は藩士の約半数を、しかも精鋭を大坂に派遣しており、主力不在・藩主不在の尾張藩では対抗するのは困難と見られた。既に御三卿の一橋家を継いでいた先代の尾張藩主・徳川茂勝が急遽尾張入りしており、茂勝は一戦せずに穏便に終わらせるべきと藩士に主張していた。
「大村はん、尾張が落とせれば次は桑名で宜しかですな?」
「宜しいかと。名古屋が使えねば江戸からの援軍も困難にできましょう」
徳川宗家は支援物資も援軍も全て尾張ではなく大坂に運んでいるため、尾張藩は即応できる援軍が入れる場所ではなかった。大坂方面から一部藩兵を戻す案も慶喜らは吟味したが、大坂湾の制海権維持のために尾張方面へ軍艦を派遣する余裕はなく、尾張藩兵を戦線から兵を引きぬくほどの余裕もなかった。
結果として、尾張藩は半ば見捨てられた状態になっていた。東海道諸藩もすでに動員できる兵は大坂に合流しており、それ以外は「ええじゃないか」の終息化へ活動していたり、信濃の官軍についた諸藩の南下を警戒したりしていた。
「大坂が孤立すれば徳川も降伏するしかありもはん。ここが踏ん張りどころかと」
「冬が終わる前に決着をつけねばなりませぬな。それ以後は東海道から敵が溢れんばかりに攻めてきまする」
「しかし、赤報隊は何処に行ったのか。尾張に行って町民を扇動せよと命じもしたのに」
「少々、相良殿はこちらの考えの通りに動かなくなっておりますな」
「丁度宜しか。事が終われば命令に従わん逆賊か偽官軍か、うまく処理いたしもす」
「彼も色々知りすぎていますからな」
「そいです。知りすぎれば誰かに狙われる。あい(彼)もわかっちょる筈ですが」
「実行したのが誰かは知らないが、坂本が殺された件は知っている筈なのだが、ね」
♢♢♢
摂津国 大坂
2月半ば。ついに大坂から尾張を支援すべく榎本武揚は一部の軍艦の派遣を渋々承諾。尾張藩兵の半数が名古屋へ帰還した。大坂は最新装備の兵が減ったものの、会津藩兵の奮戦で官軍による三方向からの攻勢にも対応していた。
しかし、この尾張へ向かう援軍が出発した時点で尾張藩の北部拠点・清洲が陥落していた。清洲の東照宮周辺を失ったことで、残っていた旧式装備の尾張藩兵は戦意を喪失。降伏交渉が始まり、官軍は名古屋に向かって進軍していた。尾張藩兵が戻った時にはすでに名古屋城近くまで官軍が迫っていた。連絡の行き違いによって発生したこの事態に、船舶の接近に先に気づいた広島藩が早期に名古屋城に突入。旧幕府海軍が尾張藩兵を船から下ろす間に官軍が名古屋城周辺を固めた。旧幕府海軍は名古屋城を砲撃するわけにもいかず、船から下りた尾張藩兵も行き場を失って動くに動けずにいた。そのうちに名古屋城内の大砲を確保した広島藩による砲撃を受け、旧幕府海軍は船を離岸させて船を守る行動に出た。尾張藩兵は満足に武器を下ろす暇もなく孤立したため降伏。結果的に、目先の制海権を優先したことで尾張藩の降伏を招き、旧幕府軍は知多半島の台場などを官軍に奪われて物資輸送で障害をきたすようになった。
徳川慶喜は榎本武揚を一時的に陸に戻し、海軍の一部を物資輸送の支援に回すことで物資の補給に問題がないようにした。しかし、結果として海上支援を失った摂津西部の都市が官軍に制圧され、大坂は孤立に近い状況になりつつあった。
大垣藩の動きはほぼ史実通りです。尾張藩については榎本武揚が史実でも強硬に海上優勢の維持を訴えていたことなどを踏まえての流れになります。
次話は桑名藩へ攻めこむ広島藩の動きから始まります。