第41話 鳥羽・伏見・山科追分の戦い(下)
今話も全編3人称です。
山城国 淀
2日目時点で淀まで徳川慶喜が退いたとはいえ、約半数が千両松の伏見方面と鳥羽街道の合流地点に残っていたため、薩長兵は深追いをしなかった。全体の立て直しを重視し、広島藩も桂川東岸へ撤退し、再び京への入口を固めた。
一方、旧幕府軍は盛んな動きを見せた。千両松で立て直しを図った佐久間信久ら前線で戦った部隊は3日目の戦闘に参加せず、渋滞をおこした鳥羽街道を進軍した無傷の部隊は伏見方面へ援軍が送られた。西国街道からの横撃でうけた被害から西国街道方面への部隊派遣が決定され、一部部隊が淀から淀川を渡河して西国街道へ送りこまれた。長期戦を覚悟していなかった旧幕府軍の首脳部は、ここにいたってようやく作戦を計画して敵と対峙する準備を始めた。
徳川慶喜は畿内諸藩に対し動員を求め、薩摩ら6藩による朝廷の簒奪として京奪還への協力を求めた。あくまで敵を6藩に絞ることで、西国街道などで戦う薩摩など以外の藩に翻意を促そうとした。戦力を集め、多方面からの援軍で数の有利をえて押し潰そうという計画である。
しかし、三条実美や岩倉具視はすでに先手を打って動いていた。仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍となった直後から、各地に公家を派遣して協力要請を開始した。大和国郡山・小泉・柳本・高取の各藩は奈良に集まって中御門経之によって淀を後方から脅かすように布陣した。丹波国福知山・山家・綾部・柏原藩などが西国街道の広島藩に合流し、京西部を掌握。河内の狭山藩なども6藩連合側に所属する状況となった。ただし、半数近い藩は態度を保留し、朝廷からの使者を丁重にもてなして終わりにした。これは旧幕府軍相手でも同様であり、行動の早かった朝廷の使者を見て互角の状況と判断した一部の藩は態度を保留して戦況を見守る態度をとるようになった。
徳川慶喜は1日遅れで派遣した各藩地の反応から一歩出遅れたことを悟った。しかし、既に一部の藩は京の守備を行う盛岡藩に合流して警護に当たり、より積極的な藩は西国街道の守りを固めていた。
伏見街道の指揮官の1人である竹中重固を召集した徳川慶喜は、連日となる深夜の作戦会議を行っていた。
「公方様、明日はもう一度鳥羽街道を北上されますか?」
「いや、今のまま北上しても小枝橋でまた止められるだけだ。しかも、今日の方が昨日より守りを固めていた。あと、もう将軍ではない。内府だ」
薩長は防衛用の陣地を小枝橋付近に徐々に形成しており、少しずつその防衛能力は高くなっていた。京西部から丹波方面の藩が協力する状況になったことで弾薬などの問題も一部解消されたと判断できた。
「戦の差配をもう少し学ぶべきだったな。自ら兵を率いる時が来るとは思わなんだ」
「公方様が差配せずとも我らが何とか致します故」
「いや、全体をどう動かすか考えるのは総大将たる余でなくばな」
徳川慶喜は生まれながらの将軍ではない。付け焼刃の知識や教養もどうしてもある。慶喜は西洋の軍との違いから、制度の刷新などを進めるなど軍制改革には強い理解を示したが、戦略論・戦術論を直接学んだわけではない。一定の自習や将軍後見職就任時点で身につけたものはあるものの、軍隊の動かし方などを専門的に身につけたわけではなかった。
「この戦、勝てるか?」
「はっ。三月はかかるでしょうが、必ず」
薩摩や長州が援軍を要請することは厳しい。一方、幕府は本気になれば援軍を呼ぶことも可能だ。
「それではいかん。時間をかければかけるほど、西洋諸国に付け入る隙を与える」
しかし、徳川慶喜は国家の大局観をしっかりと持ち合わせた人物だった。3か月続く内乱。それは間違いなく諸外国を刺激し、介入を許すことになる。それはこの国を植民地にする危機だ。それが危険だと理解できるだけの能力が徳川慶喜にはあった。
「長くとも十日だ。それ以上かける戦は、できぬ」
そして、彼はその能力があるからこそ、自ら困難に突き進んでしまうのだった。国を思うがゆえに、徳川宗家を第一に考えきれない。それが徳川慶喜という人物だった。
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山城国 伏見
3日目の戦闘は最も激しい攻防となった。薩摩藩の砲撃によって伏見奉行所は大規模に損傷し、旧幕府軍は固定の拠点を放棄して戦わざるをえない状況となった。市街地の一部に展開した会津・仙台藩兵は薩摩・熊本・秋田藩兵と激戦を続けた。旧幕府兵は南の奈良方面から攻めこまれないように兵を配置しており、徐々に兵数の優位が削られつつあった。
この1日だけで旧幕府方は死傷者600、薩摩・熊本・秋田は400を出した。陣地で被害はやや少ないものの、3倍近い兵数の旧幕府軍としては十分な戦果といえるものだった。しかし、慶喜がタイムリミットをもうけていたこともあり、旧幕府軍は伏見の先に行けていない状況に焦りを覚えていた。
4日目以降もこの地域は最も戦闘が激しく展開したものの、秋田藩の精鋭とともに鳥羽街道側が落ち着いたため御所周辺にいた薩摩藩の兵はほぼ伏見方面に派遣された。薩摩藩側の消耗はこの戦線が最も激しく、死傷者の7割が伏見に集中する結果となる。
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山城国 西国街道
桂川東岸の広島藩は薩長の指南をうけて陣地を形成し、渡河を阻止する形で布陣していた。こちらに配備された新選組は南北の広い地域で渡河を計画したものの、広島藩の散兵が警戒していたため少数渡河は失敗した。結果として両軍は睨み合う形でこの地域は終戦を迎えることとなる。
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山城国 山科追分
3日目に大津に退いた北越諸藩は周辺諸藩の動向が不明だったこともあり、動くに動けずにいた。6日目に旧幕府軍からの連絡で再び攻勢に出たものの、この時点で一部の藩から援軍をえていた佐賀藩などは陣地の整備もしたことで4日間をこの山科で耐えきることに成功した。ただし、この戦線の損耗率は群を抜いて高く、福岡藩は半数が死傷するほどだった。
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山城国 鳥羽街道
長州藩は4日目夜に奇兵隊の一部を迂回させ、千両松を奇襲した。これによって旧幕府軍は一部被害を受け、5日目の攻勢が遅延するなど鳥羽街道方面は混乱も発生した。奇襲に参加した奇兵隊はほぼ全滅に近い被害となったものの、この1日によって小枝橋の防衛陣地を完成させたことで10日間を耐えきることとなった。
10日かかっても戦線を突破出来なかった徳川慶喜は淀への完全撤退を決断。淀城に入って武力を持った状態で三条実美らとの交渉に移ろうとした。しかし撤退してくる旧幕府軍を見た淀藩兵は旧幕府軍が敗北したと判断した。淀藩兵は藩主が江戸にいるため作戦などについて連絡を受けておらず、尊王論者の淀藩兵は独断で淀城の城門を閉じ、城内の藩兵に対し新政府に恭順すべきと訴えた。千両松まで自ら進軍していた徳川慶喜は、城門が閉じられていることで既に周囲の藩も敵に回ったと判断した。慶喜は政治的に敗北したと早合点し、大坂への撤退を決定した。
一方、敗走する旧幕府軍を追撃する余裕のなかった薩摩藩含む諸藩は一旦京で被害状況の確認と今後の方針について話し合った。北越諸藩が大津にいることもあって大規模に兵を動かせないと考えていた6藩だったが、畿内諸藩が年明け前に幕府軍の大坂撤退を聞いて新政府への恭順を示すために兵を率いて合流。北越諸藩も西近江から敦賀へ撤退したことを確認したため、大坂方面へ向けて諸藩を率いて動きだした。
西郷隆盛はこの勝利について、後にこう語っている。
「正直、何故勝てたかわかりもはん。ただ、徳川宗家がもしあのままあと一月攻め続けてきたならば、薩長の兵は保たんかったでしょう」
徳川慶喜って色々な媒体で色々な描き方がされている人物だと思います。無能・臆病な場合もあれば、先進的・優秀な場合もある。
私の史料を読んで見出した慶喜はこんな人です。色々見えすぎてかえって動きがちぐはぐになる人。日本全体を俯瞰したり広い視野で動くことができるのに、それを細かく説明できなかったり徳川宗家のためだけに動いたりできない。結果、徳川幕府の内部にいれば自滅しているようにも諦観しているようにも見え、新政府側から見てもイマイチ掴みきれず覇気がない。
人によって色々な徳川慶喜像はあると思います。今作はこんな慶喜にしました。色々な意見はあって然るべきと思います。
あと、西郷の最後の言葉は必ずしも真実だけを描いた言葉ではありません。敵を持ち上げることで自分たちを高めるとかそういう意図もある程度おりこんで読んで頂けると幸いです。