第4話 欧米を知る男
最初は3人称です。
陸奥国 盛岡 明義堂医学所
原直治は明義堂医学所にいる八角高遠を訪ねた。八角は蘭学医であり、領内の他の藩医から反発されたものの藩主の信頼から藩主の主治医を務めていた。
「おや、これはこれは」
「久しいな、八角殿」
「原様が一体如何されましたかな?」
「少し、相談したき儀が」
「ふむ。只事ではなさそうですな。こちらへ」
八角に与えられた部屋で、2人は話すことにした。部屋は周囲の建物とはやや離れた場所である。部屋にはいくつかのガラス器具や陶器が置かれていた。
「実は、息子の事なのですが」
「ほう」
「攘夷には未だ力が足りぬとか、『海国兵談』を読みたいとか、突然申す様になりまして。勤皇の心はある様なのですが」
「何と」
「そこで、最も他国に詳しい八角殿に伺いたく。我等は勝てるのでしょうか?」
「勝てませぬ」
一言。あっさりと、攘夷は不可能と八角は言った。
「今のままでは到底勝てませぬ。今幕府は英吉利や仏蘭西から武器を買っております。しかし逆に言えば、英吉利や仏蘭西の武器より良い武器が無ければ仏蘭西を攘夷する事など出来ぬのです」
「道理ですな」
「幕府は講武所を築地に造り、必死に彼等の武を学んでおります。しかし、外国から買うのではなく、自ら造れるようにならねば攘夷はなりませぬ」
八角は嘆く。
「長州も水戸も只攘夷を叫ぶのみ。無論、攘夷自体は必要です。でなければ清の様に欧米の国々に好きにされてしまう。しかし、それは今ではない。今は学ぶべきを学び、守るべきを守りながら彼らと戦える力をつける事です」
「それが、橋野に造った鉄の鍛冶場ですか」
「左様に御座います。先ず自力で鉄を造り、然るのち鉄から鉄砲を、そして船を造るのです」
八角の盟友である大島総左衛門高任は6年前に橋野に高炉を建てた。これは盛岡藩がというのもあるが、日本が欧米諸国に遅れている部分を少しでも取り戻すためだった。
「しかし、御子息はかなり聡明ですな。一度御会いしたいくらいで」
「未だ未だ子どもですので」
「私塾で学んでいるのでしたか。我等ももうすぐ高炉増設の進捗を確認しに橋野に向かうので、機会があれば、で御座いますね」
「そうですな。もう少し言葉が確りしてからにしましょう」
♢
陸奥国 盛岡
6月。『チャグチャグ馬っこ』が始まった。端午の節会が終わった後の時期に、色鮮やかな綱や装飾と大きな鈴をつけた馬を神社から神社(前世では盛岡八幡宮だった)に練り歩かせる。南部は馬の名産地なので、馬の健康などを願う祭りが盛岡でも行われる。同時期に遠野では『馬っこつなぎ』が行われるが、これは豊作を願うお祭りだ。馬にちなんだ行事が多いのは名馬の産地としてのプライドがあるからだ。
夕食が豪華になるので、俺としてはありがたい。この歳なので、わざわざ祭りに立ち会うこともないし。兄の平太郎は父のお供で連れて行かれた。俺もあと4年もすれば行くことになるのか。嫌だねぇ。夕食で俺より多くさばが食べられるので、田んぼの世話を代わる俺の分まで頑張ってきてほしい。
いつもより麦少なめのご飯と、いつも通りのたくあん漬けにさば節がおかずに入る。にんじんとごぼうの味噌漬けまで出てきた。栄養満点である。
「しかし健次郎、米が多すぎると思わないか?」
「東北で食べられるだけましでしゅ」
このあたりは江戸時代の稲作北限だ。盛岡周辺でもヒエやアワを育てる水田が半分を占める。東北一帯まで広がる稲作田なんてまやかしだ。平成に入るまで稲作をできなかった地域が東北にはごまんとある。
「ま、私も爺様がアワを育てていたから知らないでもないが。食卓には肉も魚もそうそうでないのはちょっと辛いな」
「栄養が偏りましゅからね。鹿とかでいいので食べたいでしゅ」
「鹿か。狩りに行くなんて言える度胸もないしなぁ」
「あまり肉食を欲するとまた怒られましゅよ」
「大豆のタンパク質では足りないんだよなぁ」
肉食をしない、というより、肉が手に入らない部分もあるのだろう。しかし、魚は食べるが肉は食べないという風習が結構ある。江戸に近づくほどこの傾向は強いようだ。
「逆に言えば、家老の家柄でもこれが限界なんでしゅ」
「『いわてっこ』は救世主になりうる、ってことだな」
「しかし、どうして『いわてっこ』だと思ったんでしゅ?」
「直感というか。米粒が大きめなのは判断材料なんだが、匂いを感じた瞬間に名前が浮かんだというか。実家が育てていたからかな?」
「ちょっと作為的な気もしましゅが」
「それこそ、考えても仕方ないと思うけれどねぇ。誰かの思惑だとしても、それに乗って頑張る以外私らには出来ないし」
「これだけの何かが出来るなら、やらせたい事があるにゃら伝える事も出来るでしょう」
「だろうね。少なくとも、今やっている事は間違っていないはず」
大事なのは収穫まで気を抜かないことだ。この体だとうまくいかないことも多いが、頑張るしかない。
♢
夏。やませがいつも通り発生した。盛岡以北の稲作は壊滅のようだ。家中では頭を抱えている人もいるらしい。
「だが、私たちの稲は既に力強く育っている。健次郎が頑張ってくれたからな」
「俺の頑張りより、兄上の知識があってこそでしゅ」
実際、植える時の調整から雑草が生えないようにするために定期的に土を撹拌するなどの作業は完全に教えてもらってやった作業だ。
田の持ち主も知らなかったものも多く、収入の最低保証がされているとはいえ知識の伝達と俺と兄の監視の下真面目に取り組んでくれた。
そして、この田んぼの状況を見て、父も唸っていた。
「こ、これほどの実りを、やませの後で既にしているなど、有り得るのか?」
「これが『いわてっこ』です、父上」
ドヤ顔する兄を見つつ、父の反応を窺う。稲穂を手にとり、わずかだが既に受粉した様子を見ていた。目の見開き方からして、尋常ではないと理解してくれているのが分かる。
「江戸の周囲でも、この時期にここまで確りと実っていることは見たことがない」
「これが『いわてっこ』なのです」
実際、周囲の水田の育ち具合を見れば違いは瞭然だ。むしろ、周囲の米の生育具合に危機を覚えるレベルかもしれない。
現代品種ってすごい。
次話は18時です。
この頃の気温が低いのは日本各地に駐在した外国人による気温観測データから確実です。1860~1864あたりが特に影響が大きく、米価もこれに合わせて年々上昇しています。五品江戸廻送令の影響もありますが、全国的な米の収穫量も減っていると判断されます。
特に盛岡藩は当時の稲作北限地帯のため、気候変動に弱いところがあります。
大島高任・八角高遠の2人は幕末盛岡で最も欧米諸国への正しい認識をもっていた人物です。釜石(橋野)の製鉄産業の父である大島高任と欧米式の医学を取り入れた八角高遠は初期の重要人物になります。