第39話 鳥羽・伏見・山科追分の戦い(上)
寝落ちしていました。申し訳ありません。
摂津国 大坂
大坂の徳川慶喜は北越兵の敦賀上陸を確認し、薩摩藩に対して大政奉還における約定に違反する決議を強行したとして朝議を妨げた薩摩藩の討伐を訴えた。敦賀の北越諸藩に彦根藩が合流し兵力では圧倒的といっていい状況で、徳川慶喜は朝廷に対し半納地を承諾した上で薩摩藩の横暴を批判するという行動に出たのである。
「薩摩藩は旧幕臣を蔑ろにしている。朝廷の命には従うが、薩奸を野放しにするわけにはいかぬ」
徳川慶喜はこう宣言して薩摩藩兵の京からの撤収を求め、摂津の淀と近江の大津へ兵を集結させるよう諸藩へ要請するのだった。
これに呼応する形で北越7藩の兵と近江彦根藩兵計3000が大津へ移動を開始。近江の他の藩(山上藩や宮川藩)もこれに合流した。
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山城国 京
一方、京では薩摩・熊本・福岡・広島・佐賀・長州の反幕府派による会合が行われていた。
薩摩藩は機先を制して大津を手に入れるべしと説いて佐賀・広島藩兵に大津確保を要請した。
「ここで負けるわけにはいきもはん」
「しかし西郷殿、東と南に徳川兵が展開したら我らだけでは数が足りぬのでは?」
「副島はん、岩倉様が秋田を味方にする手筈を整えちょります」
現在中立なのは盛岡藩(兵500で京の屋敷に滞在)と紀州藩(兵50のみ)と秋田藩(兵300)と水戸藩(兵50)。勤皇で近代装備の秋田藩を動かせると、それだけでかなり戦況を有利にできると薩摩は考えていた。
「加賀藩も京を出た。仙台藩・会津藩と合流したのだろう。尾張藩は内部対立で一部が京に残っている。敵は大津を含めれば二万を超える」
「第一目標は入京の阻止。鳥羽街道を北上させぬよう薩長主力で敵を止めもす」
「徳川がどう動くかにもよりますが、普通に考えれば伏見や西国街道からも来る。そこをどう止めるか」
「西国街道には福岡藩に、伏見は薩摩・熊本藩で何とかしもす」
「秋田藩が例の件でこちらにつけば、西国街道の敵に当たりましょう」
「徳川家は強い。その心算で戦いもす」
長州征伐と違い、徳川宗家は大坂を掌握し兵站が安定している。薩摩の西郷や長州の大村は事前に盛岡藩から食料を調達していたが、長期戦では自分たちが不利と思いながら作戦立案を進めていた。
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山城国 鳥羽街道
旧幕府軍は尾張・仙台藩兵を加え、18000で北上を開始した。六藩合同の敵軍とはいえ、その全兵力は北越兵と合わせた旧幕府軍の3分の1でしかなかった。徳川慶喜は単純な力押しでも勝てる戦力と判断していたが、この戦力で動けば薩摩は京を逃げだすという見方が陸軍奉行の竹中重固らの意見だった。
「殿、敵は我らより兵数に劣り、大津側から北越兵も京に向かっております。薩長はまだしも、広島藩は武器不足にて我らと戦う前に逃げだすかと」
「しかし、最新の装備と訓練を施した部隊はこちらにいないのだ」
9月から東海道各地で発生した『ええじゃないか』は物資輸送と軍隊の輸送に大きな支障をもたらした。船舶不足と街道不全で江戸でフランス軍事顧問団に訓練を受けた最精鋭部隊は下田で足止めを受けており、あと10日は大坂に来られない見込みだった。水戸藩がほとんど兵を連れずに会議に出席したのもこれが影響していた。
「しかし、日数がたつほど既成事実を積み重ねたり、帝に何かさせることがありえる以上、進軍は今の時点で進めるほかないかと」
「仕方なし、か」
12月15日には徳川慶勝を大将とした尾張・加賀・仙台・会津藩の兵3500が伏見南部に到着。大津に到着した部隊へ伝令が送られたが、伏見から大津へ向かう大津街道の合流地点である山科追分が佐賀藩兵により封鎖されていた。伏見北部も薩摩・熊本兵で封鎖されていたため、徳川慶勝は後続の旧幕府軍のこともあって熊本藩に薩摩藩と別行動を交渉し始めた。
同日、鳥羽街道では薩摩藩による封鎖を確認した旧幕府軍が鳥羽街道の行軍をとめないよう薩長に通告をしていた。鳥羽街道に集まった11000の主力は薩長の兵より数倍となるため、この軍を指揮する大河内正質は行軍を止めないまま正午すぎに薩長による封鎖地点に到着した。そのまま薩長の使者の制止を聞かずに前進を続けたところ、長州藩による砲撃と銃撃が始まった。
「まさか、戦う気か?」
旧幕府軍はその兵力差から薩長が戦う気があると想定していなかった。長州征討で少数の長州藩が戦えたのはあくまで地の利があったためであり、地の利がない京では数の優位があれば同等の装備もある自分たちと戦わないだろうと楽観的だった。長州征討で敗れていればもう少し警戒して行動していた可能性はあるが、負けなかったことで彼らは数の優位に驕った。
薩長にとって兵器が最も効果を発揮する射程で、敵が戦闘態勢に入る前に先制攻撃ができたのは大きかった。ただでさえ敵が鳥羽街道に集中している中で、数の有利が使えない場所で火力を集中的に敵先鋒にぶつけることができたのだ。結果として、旧幕府軍の先鋒は戦闘開始直後に壊滅し、立て直すために大きな犠牲を払うこととなった。
同時刻、鳥羽方面の発砲を確認した伏見でも戦闘が開始された。先鋒となった会津藩兵は最新式の装備で薩摩藩と互角の戦闘を展開した。しかしともに攻撃に加わった新選組は銃撃によって瞬く間に被害を出して撤退した。その穴を埋めるべく前に出た尾張藩も装備が足りず、射程不足で攻勢に出られなかった。緒戦は薩長側の優勢で、狭い街道などを利用した防衛によって展開していった。
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近江国 大津
山科追分が封鎖されていることを確認した彦根藩は北越諸藩と今後について相談を開始した。あくまで彼らは旧幕府軍と共同歩調をとって京に向かうことしか知らず、その途中でどのように行動するかは本来伏見方面からの指示がある筈だった。
村上藩兵を率いる家老一族の鳥居三十郎らは状況把握のため旧幕府兵と合流すべく彦根藩など、周辺地理に詳しい人間の派遣を決定。主街道ではなく少数での京周辺への侵入を試みることとなる。
開戦は史実より早いです。これは旧幕府側が史実より強気な動きをしていることや、徳川慶喜が史実より出兵に乗り気であるためです。とはいえ「負けていない」ことが原因で史実より慢心しているので鳥羽街道の初手被害は史実より大きいです。一方、伏見方面は会津藩が強化されているので、初手抜刀隊ではなくミニエー銃による交戦となり新選組だけが被害を受けています。
また、大津方面が史実とかなり違う動きとなっています。




