第38話 王政復古のクーデター
投稿予約が1日ずれていたために昨晩早く寝た分投稿できていませんでした。申し訳ありません。
陸奥国 盛岡
年末になった。今年は年越しを兄の城内屋敷に集まって過ごした。立場が立場なので、もうしばらく健姫は動けないらしい。例の桜の樹に一度挨拶したいと希望された時以外、本屋敷には立ち入っていない。
「健次郎さんは来年には元服ですかね?」
「来年でもまだ13ですので、元服するかは怪しいですね」
「もう御役目についてらっしゃるから、いつ元服されても良いと思いまするが」
個人的にはなんとか明治維新まで元服せず、そのまま髪をざんぎり頭にしたいところだ。しきたりに縛られずにいきたい。
ちなみに、そんな義姉である健姫の周りには遠巻きに猫が寝転がっている。服によって近づいていい時とダメな時を躾けられているらしく、年越し前できちんとした服装を着ている今は猫が近寄らない。ただの猫好きではないようだ。
「まぁ、半端にしか学ばずにお勤めとなって粗相を働いても仕方ありませんので」
「義母上様は弟方の世話に専念できているので、そこは喜んでおられるかと」
「まぁ、だといいのですが」
母は定期的にこちらの屋敷にも来ている。弟たちはひたすら礼法・文字の読み書き・武術の鍛錬をさせられているらしい。俺が武術の鍛錬が微妙な状況で色々な仕事についているのは喜んでいない。だが藩のために俺にしかできないことは理解しているらしく、特に止めたり文句を言ったりはしてこない。子どもが自立していること自体は嫌がっているわけでもないらしいし。
兄が部屋に戻ってくる。さり気なく健姫の隣に座り、猫たちも少しスペースを空けた。
「寒くないか?」
「ええ。暖炉がとても暖かいので」
レンガ造りの暖炉を試作した部屋がこの屋敷にはある。和洋折衷の建物になっており、暖炉があるのは磨いた大槌産の大理石を敷いた部屋だ。大理石は冷たいので人と猫がいるスペースには綿の絨毯が二重に敷かれている。部屋全体は明るいし火鉢より暖かい。
「猫たちも過ごしやすそうで、西洋のものも悪くございませんね」
「島津本家には椅子もテーブルもあったと聞くが?」
「ええ。ですが、日置家は分家ですので本家との血縁もやや薄くなっておりましたから、余りお屋敷に招かれることもなく」
「そうか」
「ただ、一度ワインという葡萄のお酒は頂きました。あれは良いものでございました」
ワイン好きか。ワインはぶどう栽培が始まったし、そのうち領内でも作られるだろう。夫婦の会話に口をはさむほど、俺も野暮ではない。特に羨ましいとか思わないから、思わないから、お・も・わ・な・い・か・ら、俺は和歌の練習のため墨をすりはじめるのだった。
♢
12月。亀山社中から才谷梅太郎こと坂本竜馬が殺されたとの報告があった。亀山社中は指導者を失ったため方針が分かれているようだが、とりあえずいろは丸での運搬作業は継続するそうだ。大島高任殿は藩予算の基本である米の売買に関わる輸送が滞らないならなんでもいいそうだ。
「米が江戸と大坂に運べればどうとでもなりますからね。箱館で売る量はもう契約で同量固定ですし」
「イギリスの需要はもう満たしたかんじで?」
「恐らく。秋田や仙台、庄内からも買っているのと、幕領の『いわてっこ』が幕府借金の支払いに輸出されているらしい」
「成程」
国内消費を賄えているとはいえ、盛岡藩の人口は明確に増加傾向なのでそのうち足りなくなりかねない。肥料の安定供給も考えれば、日清戦争開始前までにハーバーボッシュ・プラントを用意したいところだ。
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山城国 京
12月6日。盛岡藩が用意した上方屋敷に朝廷から連絡が入った。2日後に朝議が行われるというものだった。この朝議には徳川慶喜が呼ばれていなかったため、南部利剛は慶喜にこれを連絡した。慶喜はこの動きに対し会津藩に警戒を求め、摂政二条斉敬に密使を派遣した。
12月7日。グレゴリオ暦で1868年の始まりとなるこの日に、長州藩の毛利親子や岩倉具視らの復位が認められた。その後京都所司代松平定敬率いる桑名藩兵が守っていた御所九門に薩摩・広島・福岡・佐賀・紀伊の藩兵が入り、桑名藩は新政府の合議に参加しないことから護衛引き渡しを要求した。桑名藩兵は岩倉具視らの言葉もあって兵を退き、会津藩兵・加賀藩兵は紀伊徳川家に引き継ぐ形でその日は退いた。
12月8日。15藩のうち仙台・会津・水戸の3藩と徳川宗家が参加しない朝議が行われようとした。しかし尾張・加賀の2藩が徳川宗家の参加を主張し、城外には二条斉敬と会津兵・桑名兵が睨み合う状況となった。御所は緊迫する中、有栖川宮熾仁親王と岩倉具視が主導する形で征夷大将軍・摂政・関白の廃止が議題となった。薩摩・紀伊・熊本・福岡・広島・佐賀・長州が賛成し、盛岡藩主南部利剛と秋田藩は当事者不在を理由に棄権した。7藩で過半数として議題は承認され、続いて京都守護職・京都所司代の廃止と幕府の廃止が同様に採決された。この流れに金沢藩は大いに反発しこの段階で御所を退出しかねない剣幕で、尾張もこれに同調したものの流れは変わらなかった。紀州藩は家老の安藤直裕が病床の藩主に代わって出席していたが、彼が新政権で大名として扱われることを条件に採決に賛同していた。
その後総裁・議定・参与の三職が任命されたが、その中に徳川慶喜の名はなかった。総裁が有栖川宮熾仁親王であり、議定には親王・公家に加えて島津忠義(薩摩)・徳川慶勝(尾張)・徳川茂承(紀伊)・浅野茂勲(広島)・南部利剛(盛岡)・黒田慶賛(福岡)を任命するものだった。徳川慶勝は議定任命に対して徳川慶喜を自分の代わりに任命するよう求めたが、認められなかった。参与にも薩摩藩士3名・尾張藩士3名・広島藩士3名・紀伊藩安藤直裕・熊本藩家老米田虎雄・佐賀藩士副島種臣・秋田藩士渋江厚光・加賀藩士長連恭・水戸藩家老中山信徴・仙台藩士片倉邦憲らが名を連ねたが、ここでも尾張藩は幕臣を加えるよう主張した。
紛糾する中で密室となった御所の様子がわからない松平容保は、下手に兵を動かして帝の勘気を被っては困ると昼前に撤兵。桑名藩などもこれに従った。
夜。小御所会議と呼ばれる初の三職会議が開催された。諸藩会議なしでの三職会議に反発した尾張藩だったが、加賀藩とともにこの会議でも強い提言ができずに後手に回った。尾張藩は諸藩会議について岩倉具視らを詰問したものの、本来彼らを支援する水戸藩や仙台藩の参与は若手家老であり、天皇臨席の場に緊張して発言などの余裕がなかった。また、尾張藩の参与の1人である丹羽賢は尾張藩で数少ない熱心な倒幕論者であり、身内にも敵を抱えているような状態だった。
「岩倉卿は二条(斉敬)様を排し、公方様を排してこの議を意のままにせんとするか!」
「まことに意のままとせんと欲するならば、天子様にご臨席いただくはずもなし。天子様の御前で、天子様に我らの意を判じていただくからこその会議でおじゃる」
「ならば二条様がいないのは尚更不審というもの!摂政なくして天子様の意を語るか!」
「これは異な事を。天子様は今この場で御自ら我らの議を見聞きし、ご叡慮いただいておじゃる。摂政なくば天子様が正しい見識を得られぬとは、天子様を軽んじておられるのではなかろうか」
「いや、決してそのような意図はない!」
「いいや、尾張公は天子様が未だ御自身で物事を決することができぬと軽んじておる故そのような言がでるのでおじゃる!」
こうした議論の紛糾により、最終的に徳川慶喜に天皇へ領地を半分返還する『半納地』を求めることが決定した。尾張藩の徳川慶勝は会議終了後、慶喜に合流して自らの無念を伝えた。
一触即発のクーデターは徳川慶喜の勢力を削ぐためのものだった。しかし、京周辺には会津・桑名・尾張・仙台・加賀藩の万を優に超える兵が滞在しており、徳川慶喜はいつでも御所周辺で兵力優勢をつくれる状況にあった。
一方、盛岡藩は朝廷を重視しつつも旧幕府系勢力にも一定の配慮を示したが、薩摩藩はそもそもこの中立に立つ票を欲していた。万一敗れても仲介してくれる大藩として、そして勝利した場合は奥羽諸藩の足止めになる藩として、盛岡藩の対応は都合が良い存在と言えた。
薩摩藩としては盛岡藩への工作は中立化したことで十分という判断。薩摩はあくまでクーデターを成功させればそれで良し、ということですね。
ただし、史実より新政権に尾張藩が否定的なのは長州が勝っていないからです。紀州藩も藩の内情はそうでもないですが、その分薩摩藩が家老の抱き込みに全力を注いだと思ってください。
史実より畿内に保有する兵力の多い徳川慶喜。いかに朝廷と対立せずに薩摩・長州・広島などの連合に勝つかだけ考えて動くことになります。




