第34話 倒幕運動は西から、大政奉還は北から (上)
陸奥国 盛岡
昨年翻訳を手伝ったフランス軍の教練本が翻訳を終え、印刷したうちの一部が盛岡藩に届いた。これに加え、将軍徳川慶喜がフランス軍の軍事顧問団が到着した関係で江戸幕府は陸軍の近代化を図るようだ。幕府は長州藩相手に苦戦した要因を軍備を適切に運用できていなかったためと考えているらしい。まぁ間違ってはいない。さらに大坂に駐屯している仙台藩と会津藩にも3名のフランス軍人が派遣されたそうだ。
一方、薩摩藩もイギリス公使のパークスに要請し、リチャード=エドワード=トレーシー中佐ら7名が秘密裏に薩摩藩の海軍を指導し始めたそうだ。イギリスは名目上幕府を正式な政府としているが、可能ならばやはり薩長に期待しているということらしい。
一方、うちの藩はグラバーの協力でレンガ建築に関する指導を受けるため、トーマス・ジェームズ・ウォートルスという土木技術者を招き入れた。盛岡藩内にレンガ工場を建設し、耐震性も考慮しつつ近代建築を増やそうという計画だ。
『中が空洞のレンガも造る?何故です?』
『この国は地震が多いので、重すぎるレンガは地震に弱いのです』
レンガをただ積み上げる建物は耐震性に劣る。実家は門や外壁をレンガにしていたが、外見だけ重いレンガにして中は穴のあいたレンガにしていた。実際門の一部はあの大震災に耐えられなかったので、中に空洞のあるレンガも用意したいのだ。それに、中に空洞がある方が焼成が短くすむらしい。
『まぁ、雇用主の要望ならやりますがね』
『お願いします』
断熱性・耐火性・防音性を考えればレンガ自体は必要な建材だ。高炉用の耐火煉瓦だけでなく、工場向けのレンガも用意しないといけない。こういう基礎材料は早めに準備しておいて困らない。それに、暖炉が必要な地域を開拓することも考えれば、暖炉用のレンガも欠かせないし。
♢
梅雨前には兄手製の村田銃もどき試作一号が完成した。昨年仕入れた見本のシャスポー銃をベースに金属薬莢・コッキングとボルトの連動が可能になるよう改良を加えたもので、道具の限界もあるが最大射程1.2kmほどを実現することとなった。
「で、兄上。量産は可能ですか?」
「厳しいな。10人の職人が造り方を覚えている最中だ。材料はあるが、秋まで3か月かけて造り方を習得してもらって、秋から戊辰戦争までに月1人あたり50丁が限界かな」
「それでは200丁ですか。いや、射程と威力を考えれば十分です」
「一部の部品は釜石で鋳造して運びこむだけだからな。そこが救いではある」
「そのあたり含め、殿が今度お帰りになられるそうですのでお見せできるといいですね」
主力は大砲とこの新式銃。後装式になれた部隊はスタルカービンも使う。前装式の部隊はミニエー銃を使う。これで盛岡藩の防衛体制は完成だ。
♢♢
藩主の南部利剛様の前で銃のお披露目となる。鉄砲方の1人が500mほど先にある3つの的を狙う。木でできた的も気にならない威力で的を撃ちぬく。精度も十分だ。大島様も満面の笑みで説明している。
「これが、我が藩で造られた銃、か」
「英吉利や仏蘭西の銃と比べても遜色ないかと」
「高炉とやら、鉄の量産をしていて良かった。我等は西洋とも対等に戦う力を一つ、手に入れたのか」
感慨深そうな藩主様。しかし、だからこそ大島様は一転厳しい表情をつくる。
「殿、銃だけでは西洋諸国には敵いませぬ。産業を育て、国を強くしてこそ西洋諸国とやっと肩を並べる日が来るのでございます」
「そうだな。これはあくまで一歩目。我等はやっと西洋に一歩近づいたのみ」
「左様にございます。それに、まだまだ国産できていない物も多いですので」
「そうだな。今年はいよいよ甜菜が蝦夷で採れるか」
「はっ。順調に育てることができております故、農民の次男三男に支援金を与えて規模を大きくする予定でございます」
「食料が自給できるようになったのも大きいな。各地の陣屋も食料で優遇したおかげで務める者の不満が出なくなった」
ジャガイモの栽培・甜菜の栽培が確立したおかげで、陣屋では『いわてっこ』とジャガイモが食事に出されるようになった。食料事情の改善と改税約書による綿製品の価格下落で陣屋には衣食の改善が進んだ。石炭暖炉も健次郎が造るレンガ工場のレンガで整備する予定らしく、過酷な環境は今年で大きく改善される見込みだ。甜菜は八戸に工場を建て、そこで精製作業をする予定だ。こうして八戸藩にも利益を渡すことで、八戸藩ではあまり『いわてっこ』の栽培ができず経済格差の生まれやすい状況をカバーしている。
「秋田藩が肥料用の大豆をかなり大規模に増産しております故、やや値上がりした魚肥の代わりに一部を買い付けまする」
「可能なら蝦夷地でも大豆を栽培して肥料としたいが、蝦夷地の大豆は伊達が大規模に進めていたな」
「その点は佐渡様から仙台藩に伝えて頂きました故」
肥料がなければ『いわてっこ』のポテンシャルは発揮できない。これを各藩が理解したのが昨年だったわけだが、仙台藩は蝦夷地に、秋田藩・庄内藩などは自領内に大豆栽培を拡大して肥料にできる大豆粕の用意を増やしている。魚肥は鰊の漁獲量が減ってきているため、可能な範囲で自力で用意している段階だ。津軽藩も一部を転作して大豆栽培を増やしており、これを越後の各藩などに売りさばいている。とはいえ東日本にしか肥料は行き届いていない。そのため米は東日本>西日本という収穫量の構図は変わっていない。今では長崎より箱館の方が米取引もあって貿易取引額も多いくらいだ。
「色々と国産方で進めているものが順調に進むよう、大島には今年も励んでもらいたい」
「お任せを」
『富国強兵』という言葉は明治のスローガンと健次郎は言っていた。しかし、幕末から色々な人がこの富国強兵を目指していたのを学んだ。今、自分はその富国強兵にどこまで貢献できているだろうか。
盛岡藩と東北の1867年開始時点の状況整理でした。この状況で今後対処していくことになります。
次話は薩摩藩の動きになります。




