第30話 盛岡の中心で愛を誓う
遅くなりました。最初は3人称です。
山城国 京
徳川慶喜は停戦交渉の条件を強気に示した。厭戦気分も高まっているとは言え、勝っているのは自分たちという意識が強かった。毛利敬親の隠居、毛利広封の廃嫡、周防大島の没収、小倉の返還、徳川一門から当主を養子入りさせる、高杉晋作の処罰、奇兵隊などの解散を要求した。
しかし、薩摩藩や朝廷の一部はこれに猛反発。毛利敬親の隠居や小倉返還は決定したものの、それ以外の条件は紛糾を続けることとなった。各戦線は停止し、小倉も停戦が行われた。互いに不利な条件にならないように秩序のある停戦となったのは幸いだったものの、小倉藩は自藩の一部が占領されている状況が当分続くことになった。
9月9日に停戦が決定し15日に戦線が停止した段階で、長州藩は宇和島藩・佐賀藩・福岡藩などを味方につけて朝敵という汚名を雪ぐことを目指した。朝廷内部は二条斉敬はじめ長州に同情的な人物も多かったため、長州藩については孝明天皇の勅命をもって止戦が宣言された。
9月末の段階で毛利敬親の隠居・周防大島の没収を条件とし、長州藩兵は長州に撤収・解散することが決定した。諸藩も解散となり、長州藩主・毛利敬親が謝罪の手紙を徳川慶喜に提出して隠居した。毛利広封が新しい藩主となって長州征討は終わりとなった。
徳川慶喜は徳川家茂の葬儀のため江戸に帰国したが、朝廷側から提示された新しい七侯会議に参加するためその期間はごく短い期間となった。
そして、島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・松平容保に加え、仙台藩主・伊達慶邦と盛岡藩主・南部利剛が招集された。七侯と呼ばれる7名は徳川慶喜と相談の上国政の立て直しを図るために京に滞在し、その合議で国政の課題を解決することを決定することとなった。
♢
収穫直前に兄は帰国し、島津の健姫様も八戸に到着した。八戸藩から歓待を受けた後、盛岡までやってきた健姫は盛岡城で歓待されながら婚儀の準備が進み、収穫された新米を存分に使った婚儀と宴が行われることとなった。
薩摩藩からは父親の島津久徴とともに、黒田仲太郎と市来四郎などの家臣もやってきた。正直、家臣たちは盛岡藩との交渉などがメインだろうけれど。実際、婚儀の前に俺は黒田仲太郎・市来四郎両名が日新館を訪れた際の案内役になった。婚姻相手の弟という意味でも、英語フランス語通詞としても興味をもたれたようだ。
「この新聞、見事な出来ですな」
「それは先月の分ですね。確かトルコの話を載せていたはず」
「土耳古。西洋と東洋の間にある大国、ですか」
「ええ。彼らを知るには彼らの宗教を知る必要があります。イスラム教を」
「過去の分で、もし保存用以外の分があれば買わせて頂きたいのですが」
「友好の証に、1部ならお譲り出来るかと」
「いいえ、可能なら何部でも。藩より何か珍しい物があれば集めてこいと金は頂いております故!」
黒田仲太郎という人物は特にこれらを気に入ったらしい。全力で在庫を買ってくれた。
「我らの買った銃と盛岡藩が買われた銃は随分と違う形ですな」
「今年はグラバー商会のおかげで別の銃を買いますがね」
今年シャスポー銃がフランス軍に採用された。盛岡藩として大島殿はこれを購入しており、早くも使用マニュアルが届いている。今は俺が翻訳中だ。紙薬莢は日本では湿気にやられるので、金属薬莢への改良含め一気に村田銃レベルに改良を進めたいところだ。
「健次郎殿は異国に行かれたことはないのでしたね」
「ええ。ないですね」
今の航海術で海外渡航は危険度が高い。イギリスやフランスの渡航に合わせてならともかく、盛岡藩で外洋渡航とか怖すぎる。
「貴殿のような方こそ異国を直に見聞きして、これからのこの国を支える人物になってもらいたいところですな」
まぁ、可能な限り自分のできることはやりますがね。
♢♢
白無垢の中の表情なんて一度も見る機会はなかった。
盛岡に入った後は城の奥の間でお姫様として大切に扱われた。屋敷の準備も終わり、城の一角を借りての婚儀。最後まで相手の顔を正面から見ないまま、婚儀は終わった。薩摩の藩士たちは私が領内に普及させた『いわてっこ』の味に歓喜していた。この体で初めて飲んだ清酒は少し舌に辛みが響いた。『いわてっこ』を少し酒造りに合うように品種改良を始めている。今年の段階で暫定的にできたものの中で最もまろやかに造れたものらしい(つまり昨年の品種だ)。
声でさえほとんど聞くこともなかった。もしも相手が20歳超えていても、それどころか男でも私にはわからなかっただろう。それくらい、正式な婚儀は厳格だった。
「お疲れ様です、兄上」
「これで結婚、と言われても実感わかないな」
「美人でしたよ。髪もこう、肩より長くて」
「何でお前の方が先に私の嫁さんを見てるんだ」
「親族の顔合わせで、父上が亡くなっている都合男は俺と叔父上しかいなかったので」
「そういうことか」
「胃が痛かったですよ」
「すまんな」
叔父の原政衛が父の代理を務めた。弟は一族代表という立場だったわけだ。
「まぁ、嫌でも今夜は同じ部屋ですから、頑張ってください」
「こればかりは他人事だな」
「そりゃあ、他人事ですから」
「お前は良いよな、顔を知りあってる姫様だし」
「天丼ネタは嫌われますよ」
少し憂鬱なのを分かっている弟は、こういう時にも付き合ってくれる。ありがたい存在だ。生まれ変わりが自分1人だったらと思うとぞっとしないな。
♢♢
弟のいない屋敷に戻る。既にここで働く使用人と島津からきた彼女の付き人は前々から顔合わせを終え、食事や風習も含めて話し合いを行っている。方言も最南の薩摩と最北に近い盛岡だ。盛岡藩内の使用人だけでなく、上方出身の使用人も混ぜて相手の上方出身の付き人を通じて全体の意思疎通ができるようにしてある。
部屋に入ると、1人の女性が私を待っていた。正座して、こちらを見上げるように待つ女性。健姫だ。
「改めまして、お目にかかります。健姫と申します」
「原直記芳政にございます。本日より宜しくお願い申し上げます」
「こちらこそ、至らぬ点も多いと思いますが、宜しくお願い申し上げます」
腰よりやや高い位置まで伸びた髪と切れ長の目、やや意思の強さが感じられる。
「ひとまず、話しましょうか」
「話、ですか」
相互理解より大事なものもない。どういう経緯であれ、夫婦は夫婦である。意見のかみ合わせは大事だ。
「ええ。互いの家族、生い立ち、何が好きか、色々と知りたいし、教えてほしい」
「左様でございますか。では、父のことはご存知でしょうし、母の話から」
島津の一門である種子島氏の女性を母にもち、家老一族としてかなり大事に育てられた様子だった。日置島津氏は戦国時代島津四兄弟の三男・歳久を祖とする、らしい(健次郎に教えてもらった)。家中でも随一の家柄であり、父は家老である。米の入手が難しい島津氏において、米に不自由しない生活をしていたらしい。
「ですが、ここのお米は真に美味しゅうございました」
「『いわてっこ』は甘味がしっかりしているからね」
「奄美の砂糖より甘味が強うございました」
ん?ギャグか?よく見るとうまく言ったぜみたいな顔をしている。お茶目なところもあるのか。
「薩摩のお芋も良いですが、蝦夷のお芋も良い味で。故郷を離れると食事が最も難しいと母に言われていましたが、朝餉や今宵の宴の食で安心しております」
「それは何より」
途中で彼女が眠気で倒れこむように床につくまで、2人で話していた。
彼女の側に私と仲良くしていこうという意思があったのは幸いだった。数日すれば彼女の父親も帰国するだろうし、この結婚、案外悪くないのかもしれない。
幕府内部が大きく動くできごとの裏で、兄は島津と婚姻。盛岡藩はこれで島津との縁をかなり深めました。元々東北で随一といっていい島津との縁がある藩ですが、史実以上に結びつきが強い状況です。
史実との変更点はそもそも長州藩が勝てていない、という点です。負けてもいないものの最低限の体面を幕府が守れたということになります。また、長州藩は石見銀山一帯などを占領するといった攻勢に出られなかったり、毛利敬親が隠居したりしています。
 




