第21話 敵は内にあり、理解は一方的になり
投稿遅くなりました。疲れて寝落ち⇒昼休憩遅くなるで遅くなってしまいました。
最初は3人称視点です。
山城国 京
白湯を飲む。それさえ満足にできない時期もあった松平容保にとって、病が落ち着いたことは何よりのことだった。
前年の相次ぐ大事件(池田屋事件・禁門の変・四国艦隊下関砲撃・長州征討)の中、一時は生存も危ぶまれた松平容保だったが、年末から年明けの間で体調が回復しつつあった。孝明天皇は彼の病状を案じ、薬を送るほどその勤皇と公武一体への思いを信頼していた。
半身を起こした容保は重臣の野村左兵衛に語りかける。
「しかし、兄上は何故征長の軍を解散してしまわれたのか。帝の思いを斟酌されぬのでは、公武一体など夢のまた夢になると言うのに」
「尾張大公は玄同様と未だ痼りがあります故、あまり長く尾張を離れたくないのかと」
長州征討の総司令官と言うべき立場だった尾張徳川家元藩主で後見役の徳川慶勝だが、昨年末に長州征討軍の解散を宣言して撤収していた。この頃の尾張藩は元藩主で兄の徳川慶勝と前藩主で弟の徳川茂徳こと徳川玄同による実質的二頭体制となっており、慶勝は自分が長期間尾張を留守にしたくないと考えていた。ちなみに、この元凶は井伊直弼による安政の大獄であり、この時藩主が慶勝から茂徳に変わっている。そして井伊直弼暗殺後慶勝が藩政に復帰した。尾張藩はこの時の影響を今に引きずっている状況だった。そして、2人の弟にあたるのが松平容保である。
「既に長州では急進派だった者等が挙兵したと聞いた。やはり長州を取り潰さねばならなかったのだ」
彼らの下には新選組の吉村貫一郎から高杉晋作の挙兵が伝えられていた。長州征討を完遂できなかったことは、容保にとって痛恨の極みだった。
「今のまま攘夷などできぬ。それもわからぬのなら若気の至りとは言えぬ。亡国の童だ」
実際には、この時点で高杉晋作らは自分たちの力では攘夷が不可能なのを痛感していた。しかし、だからこそ、今の幕府の内情に対する怒りと、関ヶ原含め2度も敗れて屈辱を味わったことへの恨みをエネルギーとして動いていた。彼らが目指すのは外国勢力に干渉されない強い国であり、徳川がいない国だった。この時点で、決定的に長州と徳川幕府は相容れぬ存在になってしまっていたのだった。
♢
陸奥国 盛岡
兄が家督を継ぎ、色々と忙しそうに動くことが多くなった。俺自身は日新館と太田代先生の私塾に通う日々だ。最近は漢詩も小山田佐七郎先生に習い始めた。前世の高校までで習ったようなものを最初に教わるのでサクサクだ。小山田先生には超少数指導で家に来てもらっているので雑音も入らない。
太田代先生のところでの勉強を終えたところで、先生の塾に俺を訪ねて1人の人物がやってきた。家老の東中務様だ。
「勉学の邪魔にならないかな?」
「あ、もう終わったので大丈夫でございます」
「そうか。先生、少々ここで話しても平気ですかね?」
「ええ。今日の習い事は終わりですので」
「感謝いたします」
中務様は俺に楽にするように言う。
「話を聞きにきたのに畏まられては満足に話せぬ」
「はぁ。しかし、宜しいのでしょうか、俺なんぞのところまでお越しいただいて」
「構わぬ。佐渡様がおられるし、某は今ほぼ何もしておらぬ故」
中務様は一昨年の収穫とともに一時家老を辞した。今は復帰しているが、藩政は佐渡様が主体となっており、中務様は藩内の汚職などを取締る職務についているらしい。
「まずは米の件。助かった。まさに天恵だった。今や我が藩は随一の財政的な安定を得た」
財政第一だった中務様にとって、藩内全体の収入増は嬉しいことだったのだろう。
「ただ、町民の生活はまだまだ予断を許さぬ。藩の財政が落ち着いたとはいえ、いつ飢饉になってもおかしくない」
「まぁ、いもち病とかもありますしね」
「蔵米を今年入れ替えた。『いわてっこ』を保管しておけば、万一不作になっても次にやり直せる」
話を聞く限り、倹約と飢饉への備えを大事にする人物だ。財政健全化を第一とするタイプなのだろう。
「見識も豊かなそなたは、いずれ城中でやる事も多くなるだろう。今の内に学友を作っておくと良い」
「務めの勉学より、でございますか?」
何よりも仕事のできることを求めるタイプだと思っていたので、驚いた。
「そなたならば仕事も確りとできるだろう。だが、家老になって気づいた。どれほど己がこれと思っていても、賛同なくば藩の施策とはならぬ」
「中務様はお若くして家老になられたとか」
「まだ十九の時だ。佐渡様に藩を変えるにはそなたが必要だ、と言われてな」
数えで19歳だから、高校生みたいなものだ。高校生で東大確実と言われる秀才が県の副知事になる。そんなイメージだ。プレッシャーは相当だろう。
「佐渡様に応えたい。その一心で何を言われても今の藩に必要な事を一心不乱に纏め、進言し、誰にも譲らなかった。大半は上手く進んだが、武士の高楊枝を折るようなこともしようとした」
武士は食わねど高楊枝、か。たとえ収入が減っても武士としてのプライドは捨てないということだろうが、そのプライドを捨てさせるようなことをした、と。
「だが、結果的に藩の借金は減った。そして某は佐渡様とも対立するようになった」
誰よりも職務に忠実だった中務様は、職務だけ、藩のことだけを考えた結果、孤立した。
「佐渡様はそこまで急な改革を望んでおられなかった、という事だ。故に今は諫言だけし、不正な蓄財などをさせぬようにする事を大事にしている」
いわゆる『嫌われるポジション』だ。自覚してできる人はそうそういない。何より、孤立しやすい。
「今後もそなたやそなたの兄から我等の元に来る提言もあるだろう。某は否定するやもしれぬが、気にせずにな」
「俺にだけ申されるのですか?」
「若い者の芽を潰したい訳ではない。他の者は粗があればそれを言われるのは当然だ」
「あ、はい」
悪い人でないのだろうけれど、多分色々と言葉の足りない人なのだろう。
「佐渡様をどうお思いなのですか?」
「今でも感謝している。だが、もうここまで互いの求める物が違うのだ。今のままの方が佐渡様に従う者も多い。殿も佐渡様を信じて任せている。今のままが良い、という事だ」
何というか、面倒というか、頑固というか。
感情的な対立というより、中務様がそういう役割を演じることで藩内がまとまるように仕向けているのかな。
それを、佐渡様は御存知なのだろうか。
徳川幕府自体は外交含め色々と頑張っているのですが、内部が安政の大獄⇒大獄で処罰された人々の復帰 によって二重権力とか色々と問題を残してしまったので厳しい状況になっている、というのが私の思う『幕府の限界』です。イギリスはおそらくこの状況を理解して幕府を見限ったのかな、と。
盛岡藩もある意味そういった構造的な問題を抱えています。史実では東中務はこの時期に謹慎となり、楢山佐渡は鬱と見られる症状で一時家老を辞しています。財政的な余裕があるかないかは大きいです。