第18話 異国の入口に集う者達(下)
今日は17時頃にもう1話投稿する予定です。
蝦夷地 箱館
帰国のため湊にいると、この時代にしては珍しい整えられたカイゼル髭の武士がいた。
「童か。珍しい」
「立派なカイゼル髭ですね」
「ほう。これを知っているか。この町の子かな?」
「盛岡藩家老・原直治の子健次郎と申します」
「これはこれは。拙者幕府開成所教授の武田斐三郎。名家の方か。御父君は何処かな?」
「いいえ。ここにはフランス通詞として参りました」
俺の言葉に、武田斐三郎殿は目を見開いた。
「そう言えば、盛岡には大島殿が造った日新館があったな。そうか、早くも南部に人が育ちつつある、か」
大島高任殿を知っているらしい。幕臣ならありえるのか?
「こちらには何時から?」
「今年夏のみで」
「そうか。ふむ、もし江戸に来ることがあれば拙者が教授を務める開成所に来られるといい。歓迎しよう。菊池卓平にも宜しく伝えて下され」
そう言うと、武田殿は先に来た船に乗って箱館を旅立って行った。菊池卓平殿は日新館でも定期的に英語を教えている南部藩の通詞だ。
次の船がうちの船だ。盛岡では稲穂が実っているだろう。肌寒い箱館に、暖房設備で何かできないか兄に相談しようと俺は誓うのだった。
♢♢♢
武蔵国 江戸
蕃所調所が改称され開成所となったのは昨年のことだった。開成所の教授陣は様々な学問に秀でた専門家であり、この時代の日本の最先端の学問が集まっていた。
大島高任も教授職にあり、この冬は江戸で過ごすことになっていた。
「大島殿、日新館はいかがかな?」
「武田殿。お蔭様で順調です」
「そうでしょうな。早速秘蔵っ子がご活躍で」
「武田殿は箱館から来られたという事は、健次郎殿ですな」
「やはり、既に名を轟かせていますか」
「彼は盛岡藩を変えた男ですよ」
そこに、豊かなあごひげをもち先日幕府から欧米諸国に派遣された使節団で通訳の1人だった箕作文蔵がやってくる。
「『変えた』ですか」
「文蔵殿。あの新しい米を見つけ、今回フランス通詞を務め、日新館で年上に算学を教える鬼才です」
「それは。天運と才覚を共に備えたという事ですか」
「分かりませぬ。しかし、これからのこの国を導いてくれるかと」
「期待したいですな。それは。福澤もあの若さで阿蘭陀語と英語をどちらも使える」
「引き合わせたいですな。ちょうど彼も幕臣として地位を得たわけですし」
「今度、小栗上野介様が横須賀で製鉄所を企図されているが、そこで使える石炭が見つかったと聞きましたが」
「それも彼が、新しい米とともに記された地図を見つけたとか」
「ふむ。一度江戸に招きたいくらいですな」
「まだ子どもですので、移動は厳しいやもしれませぬ。此度の蝦夷行きも負担が大きかったようで、帰国後少し寝込んだようですし」
「そうか。せめてあと二年は欲しいか」
「長州も蒸気船十七隻に攻められ、幕府に降伏した。暫くは落ち着くだろうし、な」
長州征伐と四国艦隊砲撃により、長州藩の攘夷急進派は大打撃を受けた。重臣にも多くの処罰者を出すことで藩の取り潰しを逃れた。世間では国内の攘夷派はこのまま一掃され、開国派が主導権を握ると思われていた。もちろん、そのように簡単な図式で語れるほど実際の関係性は単純ではない。長州の攘夷急進派は姿を変え、高杉晋作らによって既に新しい目標に向けて動きだしていた。
♢
秋。今年は盛岡藩全域で米が148万石の大豊作となった。50万反の『いわてっこ』は反収2.9石で昨年と変わらず。新田開発などが進んで三本木原の開拓も大規模に行われているらしい。同時に、『いわてっこ』でも稲作ができない地域では藩が補助を出して養蚕が開始された。1年2年で成果は出ないが、4,5年たてば相当な量の生糸が集まるようになるはずだ。八戸藩は一部しか『いわてっこ』が作付けできない関係で収穫があまり増えておらず、親藩なのにと不満が出ているらしい。そのあたりは俺にはどうにもできん。
弘前藩は江戸で『いわてっこ』を割高で手に入れたようだが、育て方がしっかりと伝わったわけでもない上に栽培適地ではないためほとんど収穫できなかったようだ。まぁ、盛岡藩にとって弘前藩は宿敵なので昨年も種籾を売らなかったし、今後も盛岡藩から指導員が派遣されることはないだろう。弘前は枯れて死ぬのだ。すまんな。文句なら津軽為信にどうぞ。
帰国した俺は米沢城下の結構大規模な火災について聞いたり、幕府の遣欧使節団が帰国したりしたニュースを兄から聞く。棚倉藩の藩主が代わったことも大きいニュース扱いである。
「兄上、石炭の目途は立ちました」
「おお、ナイスだ健次郎。では旋盤を本格的に創るとするか」
「前世で日頃から使っていたものですか?」
「いや、そういうのは機械制御が多かったからな。高専にあった一番古いタイプを模倣しつつだな。中ぐり機構もフライス盤も研削盤も最終的には創るが、まずはできる範囲からだ」
正直そのへんは良く分からないのでお任せである。
「そう言えば、方々で噂になっていたぞ。そなたとお殿様の娘麻子様が婚約するだろうって」
「父からふわっとは聞いておりますが、確定なのですか?」
「いや、わからん。父上も確定とは聞いていないと」
「ふむ。となると観測気球かもしれませんね」
「観測気球?」
「噂で流してみて、武家の反応を見るのです。反対意見が多いかとか、どこの家が反対するかとか」
「ああ、そういうことか」
まぁ、そこまで良い反応が来るとも思えないし、これで潰れてくれれば御の字だ。兄の前世を聞く限り、気を遣う相手が多すぎて俺には耐えられそうにない。
「歓迎する声が圧倒的だったし、ならば決まりかな」
「いや、それはおかしい」
「しかし、中途半端にどっかの家老家と縁戚となると、利益が偏るからな。藩主家とうちは高知衆ながら血縁がない。そろそろ縁戚となっても良いのではないか、という意見もあるらしい」
「しかし、それならば兄上に嫁ぐのでは?」
「私は私で、仙台藩の宿老後藤様の娘という噂が流れている」
「他大名家との縁戚ってなかなかですね」
「まぁ、盛岡藩の方針が『南親北攻』だからな」
津軽の弘前藩は仮想敵で、仙台藩とは友好という方針だ。あまり多くないが、盛岡藩の家臣と仙台藩の家臣での婚姻が両藩によってなされたこともないではない。仙台藩は弘前藩ともそういう縁戚を結んでいるので、このあたりにも対抗意識が見え隠れする。
話している途中で父に呼ばれる。父の部屋に行くと、父は羽織をいつもより多く重ね着しつつ兄がつけた帳簿を確認しながら待っていた。俺が箱館に向かって以降、急激に体調を崩した父は最近出仕も減っている。少し気遣いながら2人でいつもの対面となる位置に座る。
「今年の我が家は転作もあって千石を超える収穫があった。戴き桜に感謝せねばな」
今年の収穫は1054石。340反で反収平均3.1石である。
「先日、登城した折に殿にお願いし、隠居することとした。もう、この体は保たぬ」
父の突然の一言に、兄とともに固まった。
「労咳かもしれぬ。故に健次郎を箱館に遠ざけ、平太郎も日新館と明義堂にばかり向かわせていた。明日、八角殿が橋野から戻り次第診ていただく」
「な、あ」
「今後、離れで私は暮らす。姉の婚儀は年末に済ませる。以後可能な限り離れには近づかず、私は死んだと思え」
「ち、ちうえ」
兄はあまりの驚きに言葉が出ない様子だ。俺はそもそも声さえ出ない。父が死ぬ?まだ満年齢でいえば45だぞ。労咳?結核か?
「そなたは来年から大島殿の下で御国産方として務めることとなる。ただ、務めはほぼない。日新館の教授がその務めと思え」
「そんな、そんな」
うろたえる兄の肩を片方、父が掴む。顔を向けないように横を向くのは感染しないようにだろうが、それでも気迫が伝わってくる。
「しっかりせよ。そなたがこの家を、盛岡を支えるのだ!父、そなたらの祖父はこの藩を導き、民を慈しみ、良く殿の相談相手となった。そなたらならば必ず名ばかりの家老であった父を超える事ができる。祖父を、超えられる!」
父にとって、祖父は大きすぎる存在だったのだろう。一度だけ、城内で『狭間の家老』という陰口を聞いたことがある。祖父と俺たちに挟まれた伯父と父。本来ならばこれほど父が悩むことはなかったのだろうか。
「原の家を、頼むぞ」
兄は、噛みしめるように頷いた。
この日をもって高知衆原氏の家督は兄が継ぎ、兄は来年から300石取りの武士となった。俺は名目上別家を立ててフランス語通詞として50石取りとなり、2人で出仕できる体制が整えられることになった。
武田斐三郎は榎本武揚の師でもあります。この時代の英語関係の最前線です。そして菊池卓平は日米修好通商条約のハリスの通訳を務めました。菊池卓平はその当時で数え14~17歳くらいなので、通訳に関しては割と能力重視だったのがわかる一例となっております。
史実では昨年の段階で既に隠居している父・直治。今作では息子2人の影響で今年まで残ったのと、家老職になっています。




