第15話 分かれ目
遅くなりました。申し訳ありません。
陸奥国 盛岡城
部屋に入らず、さりとて何もできず。入口で待っていると、女性の一団が近づいてくるのが見えた。
明らかに気品のある佇まい。服装も質素倹約を励行されている現在、それでも色自体は派手ではないが上質な鮮やかさを見せている。
とっさに退いてその場で正座し頭を下げて入口を通れるようにする。
「成程。中々良く行き届いていますね」
恐らく、この御方が藩主・南部利剛様の御正室で水戸徳川家藩主だった亡き徳川斉昭の娘・松姫様だ。
「起きなさい。全く、誰に似たのか」
呆れた様子だが、言葉の割に棘のない言い方だ。呆れてはいるが、怒ってはいないのだろう。
「真に気まぐれで猫の様。夫となる者を苦労させなければ良いのですが」
女中が3人がかりで座布団ごと彼女を運んでいく。慣れた様子なのはこういうことが定期的にあるということなのか。
「迷惑をかけました。殿には誠実な良き子だと伝えておきましょう」
「はっ」
「御機嫌よう」
そう言い残し、一行はその場を離れていった。
♢
「そうか。御会いしたか」
楢山佐渡様は開口一番そう言った。俺はかなり疲れているわけだが、そんなことは関係ない。
「どうにも朝が弱い方でな。起きて朝餉を食べると、どこかで良く寝てしまうのだ。朝餉もあまり食べようとされぬし」
「藩医等は良く分からぬと言うが、八角殿は血虚であろうと」
「血虚、ですか」
「血が足りぬ、ということらしい」
ようは貧血か。鉄分不足の場合と造血能力に問題があるパターンがあったような、なかったような。前世で扱っていた鉄分摂取用のサプリメントとかがあれば良かったのだけれど。
「姫様はお茶を飲まれますか?」
「猫舌らしく、あまり好まれないとか」
「お茶を鉄瓶に入れて、茶葉を早めに取り除いてから冷まして飲んで頂くと、少し良くなるやもしれませぬ」
「ほう。医学にも通じるのか?」
「いえ。そんな事はありませぬ。これは偶々で」
「偶々、か」
医者と呼ばれる人々と同じだと思われても困る。あの人たちは尋常じゃなく優秀なのだ。製薬会社勤務(しかも開発部でも何でもない)程度でそんなこと口が裂けても言えるものか。鉄分不足を南部鉄器の茶瓶で少し補おうというだけの対応策なので、栄養学をかじっていれば思いつくレベルのものだ。
「まぁいい。殿にもお伝えしておこう」
「はっ」
「本題だが、今年夏に蝦夷地の調査にもう一度使節を送る予定だ。で、そなたらから伝え聞いた炭の件、仙台藩と共同で探す事になっていてな」
「おお」
以前色々と聞かれた時、蝦夷地(北海道)といえば石炭と思って炭鉱の大まかな位置を伝えてあった。わざわざ日本地図を描いて渡したから信憑性があるかどうか確認しようということだろう。ちなみに、地図自体は桜の樹の下で見つけたことにしてある。最近は父が毎日のように誰かを桜の樹の下に何かないか確認しに向かわせている。
「可能ならば平太郎殿に蝦夷地まで来てもらいたい、という話だったのだが。平太郎殿は日新館の教師役もあるし、今年は八戸の農業支援もある。厳しいという話になってな」
「成程」
「であるならば、健次郎殿に来てもらおうかという話だ」
「宜しいのですか?」
「正直、若すぎる。某も藩政には誰よりも若く関わるようになりましたが、それでも十五は超えておりました」
兄は当主が早死にするとまだありえなくない年齢だが、戦乱の時代でもない限り、若ければまず藩校で学びつつ家の禄だけをもらっていくのが普通の時代だ。だから俺の年齢だともっとありえない。
「幼子を働かせるのか、と言われかねない。某は正直反対です。ですが、そのような余裕もないのが事実」
「平太郎、健次郎。今から無理して一人前の武士になろうとせずとも良い。積み重ねは大事だ。同年の学友はいつかそなたらが藩政に関わる時、必ず助けてくれる」
父はきっとこれからも幕府の時代が、そして盛岡藩の時代が続くと思っている。だから今は下積みだと思っている。誰だって、今自分がいる組織が、社会が大きく変わってしまうとは思わない。だがこの時代は変わるのだ。あと3年で大政奉還だ。あと4年で戊辰戦争なのだ。立ち止まる時間はすでにない。
「父上、俺は箱館に向かいます」
「そう、か」
「長州は征伐されるでしょう。しかし、誰も攘夷を諦めていない。何より、長州がお取り潰しになる事はないと思われます」
「健次郎殿、その根拠は?」
「楢山様、三方領知替えで庄内が一揆を起こしたのは御存知ですよね?」
「あぁ、一揆は嫌なものだ」
日本史の教科書でも習う1840年の三方領知替え。幕府でも無理矢理命令を聞かせる力がないものだった。
「幕府の命が撤回された、という意味では良くない風習ですが、各藩は余程の事があっても早々取り潰される事がなくなった」
「確かに、先日天狗党の件で大炊頭様が責任を追及されておりますが、それ以外では取り潰された大名はない」
正確には将軍継嗣問題で1人旗本に落とされた大名がいたらしいが、いわゆる改易と言われる大名家の処罰は40年以上されていない。これは浪人の大量発生による治安の悪化への対策などもあるだろうが、幕府にそこまでする余力がないのだろう。外国との交渉・情報収集・商業の管理に加え、国内の不穏分子に対処しながら経済を安定化させていく必要があるのだ。鎖国と呼ばれる貿易統制の時代から対応しなければならないことが圧倒的に多くなっている。
「長州も潰す余裕はないでしょう。潰せば恨みを抱く者が出る。その者等は尚更異国人を襲い、幕府を揺るがすでしょう」
「長州内部の幕府恭順派に処罰をさせ、恨みも恭順派へ向かわせるか。嫌な手段だが、合理的か」
「そして、長州を潰せない幕府に諸外国は何を思うか、我等が欧米に対抗できる力を持たねば、今は大人しい欧米も清に対する様な態度に出るやもしれません」
「そうならないためにも、蝦夷地を開発しておかねば、という事か」
「はっ」
実際は周辺の諸藩に左右されない、自藩だけで意思決定ができるだけの国力をつけないと奥羽越列藩同盟に純粋に巻きこまれかねないからだが。
「では箱館に同行する、という事で殿には伝えておく。但し、無理はさせぬぞ。疲れや病の気が見え次第、無理にでも盛岡に帰国させる」
むしろその方がありがたい。無理せずできる範囲でないと幼いこの体では何が起こるかわからないし。
次話から箱館編になります。
ぼちぼち有名人が出てくる頻度が高くなってきます。