第11話 見せてあげますよ、本物の耐火煉瓦ってやつを
陸奥国 盛岡藩
やませが収まりつつあったある日。
ついにある一報がこの南部盛岡藩にも届いた。
「長州が攘夷を決行!下関を通る異国船を砲撃して追い払ったぞ!」
攘夷派は最高潮に勢いづいた。それはどの藩も関係なかった。生麦事件以降、攘夷派志士はイギリス公使館を襲い、薩摩藩は生麦事件の賠償を一切せずにイギリスに突っぱねていた。幕府は各事件に対し賠償金を払うことで尻拭いをしていたが、これを攘夷派は弱腰外交と批判していた。こうしていよいよ雄藩が独自に攘夷をなしとげる!と最高潮に盛り上がったのだ。
当然だが、そんなタイミングで下手な活動は俺にも、そして開明的な藩内の一派にもできなかった。
俺は兄に協力して米の育て方を人々に教え、時にともに手を動かした。俺たちには護衛として平士(下級武士)がつくようになり、大量に育てられた苗が順次各地に配られたり、種籾の段階から配られたりしていった。
途中途中で兄が忙しそうに盛岡藩の各地を飛び回る中、必要な魚肥の量を計算させられたりその代金を算出させられたりと明らかに子どもに任せるべきでない仕事も任されたが、その分紙と墨も大量にもらえたので文字を書く練習にもなった。
そうして、表面的には何も歴史を変えられないまま、夏に突入した。
♢
薩英戦争の発生。八月十八日の政変。俺はそれらを黄金色の稲に歓声をあげる人々の希望に満ちた声とともに知った。江戸・仙台の瓦版を手に入れられるように俺と兄の禄分を使って(ついでに俺に合う服も作ってもらった。殿に万一会うことになった時に着る服がないのはもう御免だったからだ)手配してもらっていたおかげで、時期はずれるが安定して情報が入るようになっていた。
薩摩の敗戦(実際は敗戦と言えるか難しい部分もあるが、町は破壊されたので負けだろう)と攘夷派かつ急進派公家の追放は大きなニュースとなった。攘夷派は盛岡市中でも白い鉢巻をつけて「異国人を打払えば米の値が下がる」とか「綿の値が下がる」と騒いでいた。しかし米関係では希望のある『いわてっこ』が人々に浸透していたため変に乗る人物はいなかった。中には浪士組に参加していった盛岡藩士もいるらしいが、比較的盛岡は攘夷思想が弱い地域になっていた。
そして、収穫。
転作して380反に作付けした『いわてっこ』は1200石になった。反収3.2石だ。うちの農民はすでに慣れてきており、着る服も全員が数着持てるレベルまで生活を安定化させていた。
領内全体では40万石近い『いわてっこ』が収穫されたらしい。反収はおよそ2.9石。慣れもあるだろうし、地域によってはやはり育ちがそこまでではない地域もあったそうだ。それでも、『いわてっこ』を植えた地域では最低でも反収2.5石を達成した。盛岡藩は今年だけで50万石を超える米を手に入れた。一気に財政が安定するだろう。
出来事でいえば、帝の攘夷の勅命が出たことを理由に倒幕を掲げた天誅組はあっさりと幕府に鎮圧され、長州藩は京から追い出された。保守的な帝とはいえ、そもそも攘夷のために倒幕まで考えていなかったと前世で聞いた事がある。生野で代官所を襲撃した脱藩浪士も討たれたらしい。暴走を続ける攘夷派は、今後次々と瓦解していくことになるだろう。盛岡藩も攘夷どころではない。今年は豊作だということで大盛り上がりだった。人間、生活が安定すると過激な思想からは遠ざかるものだ(逆に富裕層になっていくと、それはそれで過激化することはあるようだが)。
♢
盛岡城の東南で1万坪の広大な土地に建てられたのが日新館だった。西洋の最新の学問を教えることを目的に、薬草園や実験棟にあたる設備を整え、オルゴールや発電機、避雷針、写真機、西洋時計などの設備を集めて造られた。
で、そこに俺と兄は招待された。完成したこの施設は一度見てみたかったし、可能ならここで学ぶ人間を増やしたいので支援も考えてのことだった。父とともに向かうと、純和風な建物でありながら不思議な建築物が広大な庭の先に見えた。襖や障子ではなく、あえて一角が木製の壁で構成されている。湿気がこもりやすいが、気密性が高くなるのでできることもあるのだろう。
建物の入口には、2人の人物が待っていた。どちらも父より若く、禿頭で医師風の人物と雑に生えたひげが特徴の人物だ。
「態々御越し頂きありがとうございます、直治様」
「お久しぶりです、八角殿。そちらが?」
「お初に御目にかかります。大島総左衛門に御座います」
医師風が八角高遠殿、雑なひげが大島高任殿のようだ。
「原直治です。お噂はかねがね。こちらが長男の平太郎です」
「平太郎にございます。宜しくお願い申し上げます」
「で、こちらが次男の健次郎です」
「健次郎にございます。8つにございましゅ」
数え8歳になったのに、どうも舌のまわりが悪いのかたまにかむ。『す』以外はきれいに発音できるようになったのだけれど。
「御会い出来て嬉しいです。今日は是非中を楽しんで行ってほしい」
今日は日新館の見学だ。今の私塾の状況的に早い段階で俺も兄と同様藩校である明義堂に移ることになるだろう。ただ、今後を考えるとこの日新館にもある程度関与できるようにしておきたい。なにせ東北地方で唯一といっていい西洋の学問が学べる場所なのだから。
建物の屋根瓦の上に避雷針が見える。付け方も多分間違っていない。兄は兄で建物にある柱時計に興味津々だ。
大人同士の会話を尻目に、俺は兄と2人で運んできたものを風呂敷から取りだす。
「実はこちらを見て頂きたく」
話の切れ目で俺たちは耐火煉瓦を見せる。
「これは」
「桜の樹とともにありました。恐らくですが、火に強い煉瓦かと」
「これは、綺麗な形ですね」
成型がそもそも安定していないと同じ形の煉瓦は造れない。釜石に造ったと聞いた高炉のものより間違いなく質は良いだろう。
「少し預かっても?」
「どうぞ」
その後、俺たちは中を見学した。設備は思ったより整っていた。ここに通う人間が増えるといいのだけれど。
♢
1週間後、大島殿から連絡があった。どうやら日新館にある火を使う設備では耐火煉瓦より熱に弱いらしく、本格的に高炉の温度と比較するので少し待って欲しいと言われた。
まぁ、『いわてっこ』のことを考えれば、恐らく現代品質に近いものだろう。次に来る反応が楽しみだ。
描写で出てきたものは殆どが実際の記録に残されている日新館にあったものです。この時期としては薩摩などに次ぐレベルで西洋の文物が集まっていることがわかっていただけると幸いです。