第10話 「おうしゅう」の叡智が集う場所
陸奥国 盛岡
春になった。俺の通う私塾が突然通いはじめる武家の子女が増えたとかで教えることのない俺は塾に半分しか通えなくなった。太田代先生、いつの間にそんな大人気になったんだ。いつ通うの?今でしょ!ってか。古いわ。
「いや、私よりお前の方が接触しやすいと見たんじゃないのか?」
「そんなに縁がほしいんでしゅか」
「あわよくば婚約、なんて考えもあるんじゃないか?」
「うえええぇぇ」
そういう打算的な恋愛ってこの時代だと本当にあるのか。
「まぁ、私の場合も明義堂で友人と親戚が突然増えたからな」
「あぁ、宝くじ当たったのがバレたパターンでしゅ」
兄平太郎は元々仲の良かった藤村荘次郎と今年から藩校・明義堂に通い始めた。すると、藩校には「君の大叔母さんが嫁いだ」とか「4代前の原氏から養子に入って頂いた」とかそういう形で声をかける武士が続出したらしい。
「ある意味7億円よりすごい扱いだったかも」
「こういう時代、夢のある話はあまりないでしゅからね」
ただでさえ稲作自体が不安定な南部の領地だ。救世主と同じなのだろう。
「実際の種籾の分配は我等には関係ないでしゅからね」
「我等は400石分持っているけれど、粟田や稗田も転作するから殆ど回せないんだよねぇ」
恐らく残るのは20石分だけだ。各家が恐らく半分ほどを『いわてっこ』で育てることになる。そこに20石が加わると、家によってはほとんどの領地で米が『いわてっこ』になるわけだ。3倍の収穫になるとすれば、目の色を変えるのも当然かもしれない。
「というわけで、女子が通える上年も若いお前のいる私塾のほうが狙い目と思われているからな、頑張れ」
「もう通うのやめたいでしゅ」
肉は食べられない時代の肉食女子とはこれいかに。
♢
一緒に学ぶ時、並ぶ面々の年齢が少し上がった。俺の学ぶ内容に合わせてなのだが、同時に俺を狙う一部の人から遠ざけるためのものだった。
「本当なら君を一人だけ教えたいのだが。それだと授業料が、ね」
「まぁ、まだそういう事のなさそうな人選でしゅからいいのでしゅが」
商家の子や芸術家ばかりに変わったので、俺に近づこうというより顔を知ってもらおうくらいな面々が多い。これくらいならまだ気にならない。
そんな私塾で学ぶ中にも面白い人物がいる。盛岡藩で能の指導や行事に関わる一族だ。東条という氏なので、恐らく東条英機の関係者だ。彼は身分的には武士だが、能楽の家なので今回の争いとは無縁である。他にも金子弥兵衛という商人の一族もいる。近江商人の出らしく、今回の米の取り扱いでも既に利権が確保できているためガツガツしていない。
「殆ど歳が変わらず、むしろ一つ下なのに聡明でございますね」
「もうあと数年も経てば某も明義堂に通うと思うと、焦りますね。斯様に武家とは賢いのでしょうか。それとも健次郎様が特別なのか」
「褒めても何も出ないでしゅ」
褒められて悪い気はしない。明らかにすり寄るためのおべっかでもない。それくらいでちょうどいい。
とはいえ疲れる。行きも帰りもこの姉上や中間の男性に付き添ってもらう生活だ。
「申し訳ありませぬ、この姉上」
「いいんですよ。むしろ、私にも縁談が来たから」
従姉のこの姉上は実父を亡くし、うちで祖父直記が面倒を見ていた。ただ、父の直治に娘は2人もういたわけで。原の家との縁戚を望む家は、こちらを願ってこの姉上を求めなかった。
そんな姉上でも縁戚だし、俺や兄上とは仲が良かったため、今回声がかかったようだ。年齢的には俺の22歳年上。今年で数え30歳である。
「私の歳だと、もう健次郎さんと同い歳の子供がいても可笑しくないからね」
「この姉上は十分若いでしゅがね」
「ありがとうございます。ふふっ」
この姉上は内科医の三浦恭園殿の後妻になるそうだ。三浦殿は蘭学医として学んだ経験があるので、欧米について多少なりとも理解のある人物ということだ。
そういえば、一昨年に盛岡藩で高炉を造った大島高任殿が欧米の学問を学べる学校を造ろうとしていると聞いたが、どうなったのだろうか。
♢♢♢
文久三年の春時点で建設が開始された欧州の学問を学ぶことのできる『日新堂』の計画は、当初文久元年に提出された計画では資金面の問題があった。そこで箱館からの蝦夷地調査に大島高任らが協力するという功績をもって建設費用を藩主・南部利剛が出すことになっていた。
「しかし、殿も大盤振る舞いだな」
「現時点で五百両、収穫後に追加で二百両か」
蝦夷から戻った大島高任と八角高遠は、その支援の大きさに驚いていた。試算で必要とされていた建物費だけで約六百両。これを経費削減と自力での予算確保をおこなうよう命じられていた。しかし今回、この自力での予算確保についての提言をある程度カバーできるだけの予算が示された。
「それだけ新しい米に期待ができるという事かな?」
「殿からはそのかわり、命じられるまで原兄弟と会ってはならぬと釘を刺された」
「藩内も攘夷派が過激になっているからな」
彼らの欧米技術を取り入れようとする姿勢に眉を顰める者もいる。彼らは藩主の命で動いている部分もあるため反発されることはないが、日新堂設立のために賛同した面々の中には白い目で見られたものもいる。一昨年の段階で賛同しながら、所属する組織の反発から今年の設立の嘆願書に名前をのせられなかったものもいる。
「血の気の多い者はいっそ浪士組にでも参加してくれた方が良いのだが」
「庄内の清河か。信用に足る男か?」
「出来ぬさ。あれは幕府に一度は弓ひいた男だ。だが、血の気の多いのを京にでも連れて行ってくれれば我等は楽になるというだけさ」
文久3年、徳川将軍の上洛に合わせて将軍警固の名目で浪士の募集が始まっていた。ただし、これを率いることとなっている清河八郎は一昨年に討幕計画を立てて幕府のお尋ね者になった人物である。
「まぁ、資金が多いにこしたことはない。予定より前倒しで植物園を整備する心算で進めよう」
「『解体新書』から我等の医学と舎密(化学)は劇的に変わりました。それをこの奥州の地に、根付かせなければ」
彼らは盛岡藩の、そして日本の最先端をいく鬼才である。その彼らは、農民の子にいたるまで全ての人間が子どもの頃に学問を学べる国を目指していた。
明日も0時すぎに投稿予定です。
東條英機の父親。原敬の1つ年上になります。彼の運命もどう変わるのでしょうか。
義務教育を1861年段階で訴えていた大島高任。こういう人も盛岡藩にはいます。