4.平穏の裏側
緋凪は、ぼんやりとする頭で授業の終わりの合図を聞いていた。
嗚呼、こういうときはよくないことを考えてしまう。喜色を孕んだクラスメートの声音が、細腕に顔を埋めた緋凪の鼓膜を打ってくる。それを払うように、より一層腕の中に寝顔を閉じ込めた。
暗い闇が、目を瞑る緋凪を追い立てる。それでも、緋凪はまどろんでいた。本当は、こんな不真面目な行為は許さない教諭が多い。それなのに、糸が切れるように眠り始めた緋凪を誰も起こしはしなかった。
誰も、訊かないでいてくれる。そんなドロドロに甘やかし過ぎな今に、緋凪は縋っているとわかっていた。
脳裏にちらつく菊の花。彼方に浮かぶ、守れなかった友人の――
「ひーなーちゃんっお昼だよーっ!」
突然の振動に、緋凪はふわふわと乱れ飛んでいた意識を引き戻された。見知った重みと香りは、友人の一人の上野ひなたのものだ。反射的に起き上がった体を拘束され、ニコニコと可愛らしい笑みを浮かべる彼女に、緋凪はようやく詰めていた息を吐き出す。
夢からの目覚めは、学校に限り、優しいまどろみが約束されていた。――のは、つい先ほどまでの眠りだけだと、緋凪は確信した。
「そうだねぇ。お昼だねぇ」
「そんな眠そうな声出してないで、一緒に食べましょう。今日はお弁当ですか?」
「のりちゃん。今日はねぇ、なぁんにも持ってきてないの。だから、購買で買ってくるね」
ひなたを剥がしながら、柔らかな微笑を浮かべた友人の一人、和田紀子がいつものように丁寧な口調を崩さずに問いかけてくれる。緋凪は、カバンから財布を取り出しつつ答える。
緋凪の答えが意外だったのか。紀子は糸のように細めている瞳を丸くさせた。「あらあら」なんて吐息のような声を漏らす。
「珍しいですね、緋凪さんがお弁当を忘れてくるなんて」
「そういう日もあるべ。ほらほら、緋凪。早く行かないと売れちゃうぞ!」
「あ、急がなくていいからね?むしろ、私が行こうか?足、捻挫してるんでしょ」
「んーん。大丈夫。ゆーっくり行くからさ。千晴の気遣いやさんありがとよーう。でも、遅くなるかも」
「そんなの気にしなくていいって。私ら先に食べ始めてるからね。ほら、ひなた。いじけてないで机くっつけるの手伝ってよ」
「ちはるん、残念なお知らせであります。……翔ちゃんにお弁当預けたままだった!取ってくる!」
「あはは。慌しいなぁ、ひなたは。緋凪、待ってるから行っておいで」
奈留の笑顔に背を押され、緋凪はひょこひょこと歩き出した。
そして、廊下に出たときだった。
「――あの、相川、さん」
少しだけ、聞き覚えのある声がかけられた。ゆっくりと振り向けば、財布を持っておどおどしている転校生の一人、遥・ガルー=ルセットその人が控えめに口元に笑みを浮かべていた。
はて。と、緋凪は内心首を傾げる。この目元が隠れている転校生が、何故自分の名前を知っているのだろうかと思った。
「ルセット君、だっけ?どうかした?」
「今から、購買だって、聞いたから。……あの、よかったら、場所を、教えて、もらえない、かな」
たどたどしい申し出に、緋凪は目を丸くさせる。
「私、足怪我してるから、とってもゆっくりになるよ?それでもいいなら、構わないけど」
「うん、大丈夫、です。お願いします」
頭を下げる彼に、緋凪は「そんなかしこまんないでよー!あとさ、タメ口でいいんだよ?」とケラケラと笑いながら言えば、彼はより一層おどおどし始める。何をそんなに不審者に仕立て上げるほど動揺しているのかわからない緋凪であったが、まぁいいかとひょこひょこと歩き始める。
「ルセット君、授業とか少しは慣れたかな?」
「え、と。大丈夫、だよ」
「そっかそっか、ならいいんだ。わかんないことあったら、この相川緋凪に頼ってくだされ!あとは、片岡も面倒見いいから、じゃんじゃん頼っていいよ。バカだけど」
「そう、なんだ?」
つい笑い混じりに出てきた言葉に、遥が意外そうな声を漏らす。それに力強くうなずいて、やっぱり笑みは垂れ流したままで緋凪は続ける。
「うん。バカだし、ちょっと不憫だけどね。面倒見のよさは折り紙つきだよ!あ、バカといえば、前野もそうだし、菅谷もそうだね。あとは、村上とぉー寺坂!あそこは結構バカばっかだよ。あ、頭悪いとか、そんなんじゃなくてね?総じてバカというか、愛すべきバカというか。とにかく、一緒にいて楽しい」
「……そうなんだ」
どうやら、短い時間の間でも関わりを持った人間の話だからか、思い至る点があったようだ。遥がその前髪のカーテンの向こうで破顔したことに気付く。肩を震わせる彼に、緋凪もくすぐったくなる。カーテンで仕切られているとはいえ、彼も他の人と変わらずに感情を表に出す人のようだ。彼だけではないが、不思議な雰囲気を纏っている彼に何処か緊張してしまっていたが、今の様子でそれも削がれてしまった。
それにしても、と思う。転校初日でいったいどんなバカをやらかしたら、物静かそうなこの転校生をそこまで笑わせることができるのか。緋凪はそれを思い描いて、やっぱりクスクスクスと軽やかに笑い声を立てる。想像上でも、彼は何処かおバカで不憫だ。きっと今頃も――前みたいに、購買で好きなパンが売り切れてて、やっと買ったパンまで取り落として、そして踏まれて、酷く落ち込んでいて。あのときは、たまたま通りかかった幼馴染が、「買いすぎたから」ってパンを差し出して薄く笑っていた。そのときの場面を思い出して、「ひゅっ」と息が止まった。
「片岡君は、確かに、ちょっとバカだ。あと、ちょっと不幸」
柔らかい声だった。耳に優しい、穏やかな音。そして、続いた笑い声にいつの間にか「だよね」と肯定している緋凪がいた。意図せずあふれるそれに、久しぶりに心安らかに笑ったような気がして。詰まった息も、問題なく吐き出されていた。
なんとなく、今気付きたくなかったように思う。まどろみの中、バラバラになって飛んでいた思考がひとつの後悔に収束していく様を思い返し、きりきりと軋む心にそっと嘆息する。
「……相川さん、は」
呼び声に、うつむかせていた顔を上げる。見上げる位置にある顔は、相変わらず灰色の前髪によって一線を置かれているが、まっすぐに緋凪を射抜いていた。見えないはずの視線に、たじろぐ。
「ずっと、後悔、してるの?」
「……なに、が」
「なんだか、ずっと、辛そうだから」
立ち止まった二人の間に、沈黙が降り立った。
そうしてようやく緋凪は周囲に目を配った。
周囲には誰もいなかった。まるで、誰かに誂えられたみたいに。この状況は、どうしてできあがったのだろう。少しの動揺と混乱が、緋凪の思考を鈍くする。
だからだろうか。いつもは、こんな表情を他者に向けたりしないと言い切れる、引き攣った笑みを浮かべる自分自身を、緋凪は気付いて上げられなかった。
「辛そうって、私、辛くないよ」
「……」
「ねぇ、ルセット君」
「みんなに何を聞いたかなんて知らないけど、」
変化していく表情すら気付けずに、目の前の少女は、キラキラと緋色を混ぜた黒髪を揺らして遥を見ていた。その眼差しに、既視感を抱かずにはいられなかった。
「私は、まだ、彼女を過去にはできないだけだから。……それだけだよ」
そのあとに続いた小さな小さなつぶやきを耳にしても、遥はもう何も言わなかった。今日出会ったばかりの人間に、ここまで心情を吐露してくれるあたり、彼女は人がいいのだろう。その人のよさを酌んで、彼は口を閉ざした。
「――まだ終わってないから」
脳裏にこびりつく不穏なこのつぶやきを、問いたださなかった。
その権利を持っていないと、不審者ばりにおどおどしている遥自身が、痛感していたから。
きっと、ここで問いたださなかったことを、叱られるだろうとわかっていても。
「購買、行こう、か」
「そうだね。時間経っちゃったから、そんなに残ってなさそうだなぁ」
「何か、オススメとか、ある?」
「あったらだけど、メロンパンかな!美味しいんだよ」
「あんまり、食べたことない。あ、ゆっくりで、いいから」
「キミも気遣いやさんだね~」
不穏な雰囲気は一転して和やかになり、立ち去る足音はゆったりとしたものだった。それが完全に遠のくまで待ち続けた影が二つ。
「……不満そうだね、お姫様」
「不満も不満よ。あのなよい男に任せるんじゃなかったわ。たいした情報も引き出せずに、何会話を終わらせてるのよ!」
ススキ色の長い髪を払いながら、憤慨する少女は眉間に皺を刻み、二人が消えていった方角へ睨みを利かせている。そんな少女に穏やかな微笑を貼り付けた男が、「まぁまぁ」と間延びした声でその怒りを制そうとする。
「モニカちゃんが行ったら、それこそ喧嘩になって険悪になって、遥君よりも情報落とせないと思うけど。彼なりに彼女の心を慮った結果だと思っておこうよ」
「チッ……そんな甘っちょろいこと言ってられないわよ。それより、匡也。場所を移すわよ」
「舌打ちって、レディがすることじゃないと思うけど。いてっ……はいはい、仰せのままに」