2.『緋凪』
秋が深まる今日に、未だ燦々と照り付ける太陽にさらされ、ところどころが黒から緋色に変わる普通ではない髪を持つ少女は、とうにチャイムが駆け抜け静まり返った廊下を歩いていた。ひょこひょこと特徴的な歩き方に、足を庇っていることが窺える。
視線を少し上に固定し、しばらく歩いていると、長方形の白いプレートに〔職員室〕と印字されているものが目に入った。少女の目的の場所だ。
コンコンコン、ノックもそこそこに白い扉に手をかけ横に引く。
「失礼しまーす。小山田先生、サインくださいな――って、やっぱりいないか」
扉を開けてまず香ばしいコーヒーの香りが仄かに鼻腔を掠める職員室の室内に向かって少女は声を張り上げるが、目的である教諭が座る席だけではなく他の教諭まで空席だった。内心こうなることは予想はしていたのだが、少女はガランとした室内を見渡して面倒くさそうにため息を吐く。
痛めた足を引きずって寄り道したが、生憎と目的の教諭は不在。このままでは遅刻してきた際に必要な〔入室許可証〕と印字されたザラ紙を確認してもらえない。
癖の強い髪を撫で、少し途方に暮れていると、
「おー相川、まぁた遅刻か?」
そう声をかけてきた顔見知りである女の教諭に苦笑いを向けて、摘まむように持っていたザラ紙を見せるように顔に寄せた。
「おはようございます。入室許可、安斎先生にお願いできます?」
「はい、おはよう。まぁ、副担だからな。それくらい構わないよ。だけど、相川。あんたの遅刻、今月に入ってこれで十二回目だぞ」
「あぁー……すみませんでした。明日はもうちょいだけ速く走ります!」
「その前に遅刻前提にするな!」
勢いのあるチョップを頭に食らった少女、相川緋凪は、少々癖のある字で〔安斎十和子〕とサインが記された入室許可証を受け取りながら、チョップを食らわせてきた緋凪が在籍するクラスの副担である安斎十和子を恨めしげに睨む。
「安斎先生、暴力反対でーす」
「へいへい。ほら、もう行くぞ、相川」
「ちょっと、なんか流されたんですけども。緋凪さん不服ですよ」
「真面目に相手にしていたら時間が足りんからな。流させてもらう」
「緋凪さん、とっても不服ですよ。マスカルポーネですよ」
「意味が分からんわ」
ブーブーと異議を申し立てる緋凪の背中を軽く押し、安斎はそのまま職員室を後にする。口では不服を訴える緋凪であったが、素直に職員室から出る辺り本気で言っているわけではないことが分かる。
職員室から一歩遅れて出てきた安斎の悪戯な笑みを見上げ、両手で頭を押さえる緋凪は、ムスッと頬を膨らませる。
「安斎先生、いくらなんでも従姉妹同士だからって、暴力反対ですよ」
「あー、はいはい。聞こえんな」
「うっわー白々しいぃーってか聞こえんな、じゃないしっ‼」
キーキー、と拳を握って騒ぐ従姉妹である緋凪の窓から注ぐ光に照らされた箇所が緋色に変わる頭を、安斎はポンポンと優しく叩く。相変わらず、癖が強い割りに柔らかいさらさらな髪だった。
今まで不服を申し立てていた緋凪であったが、その優しい手つきに締まりのない笑顔を浮かべる。そのことに、安斎は変わりないとひそかに安堵を胸に宿す。
「そういえば、今日は朝を逃すと生徒に乗り遅れるぞ」
「え、何かあるの⁉」
教えてよ、と静かな廊下では反響してしまう声音で、職員室の扉を閉めた緋凪は肩を並べた安斎の腕に抱きつく。
「相川、ここは学校だぞ?少しは慎め」
「にゃははは、ごめんなさい!」
困った笑みを浮かべ注意をされた緋凪はすぐに離れ、安斎の顔を覗き込み、笑顔のまま「それで?」と、問い掛ける。
「転校生だよ、季節外れの」
「えぇ、本当!? めっずらしーね、なまら見たいっ! 何人かな、やっぱり一人?あ、今だったらなんとか間に合うようね、ホームルーム。んだば、安斎先生またあとでね!」
そう捲し立て、ひらひらと手を振る安斎を置いて、灰を基調に赤を注し色に規則正しく入った黒の線のシンプルな布地の襞スカートを揺らし、緋凪はパタパタと音を立てて階段を上がる。忙しない従姉妹の掛けていく後姿を見て、残された安斎は教師の仮面を外して、ほっと息を吐いた。
空元気でも、彼女の笑顔に陰りがあっても、――遅刻が慢性化してきたことでも、彼女が笑顔で登校してくることに安堵を覚えずにはいられない。
「……一ヶ月、か」
まだ、時間は解決してくれはしない。平凡な暮らしをしていた、変化する不思議な髪を持つだけの、明るさとふざける態度が取り柄である少女が負った深い傷口を、誰も癒してはくれない。
不謹慎で、教師にあるまじき考えだとしても、今回の転校生が従姉妹の傷口を塞ぐための癒しになればいい。
それで彼女の心からの笑顔が戻れば、従姉妹としてはこれ以上ないほどに嬉しいものだった。
それにしても、と安斎は思う。茫然自失していた従姉妹の保護者として呼び出されたとき、安斎は遺体と対面した。幼い頃から知っている少女の遺体というだけで心を酷く痛めるというのに、彼女の胸元には風穴が開いていた。普通の死に方ではない。
取り乱していたとはいえ、そのときは緋凪を問いただしていた。何があったのか、誰がやったのか、と。緋凪は力なく首を横に振り、ただ一言「ごめんなさい」を口にするだけだった。
失念していた。辛いのは、自分だけではないということをこのときは失念していたのだ。現場に居合わせた緋凪のほうが、幼い頃からともに人生を歩んできた友達を失った彼女のほうが、ずっとずっと傷が深いことに真っ先に気付いてあげられなかった。
それから、緋凪はずっと遅刻してきた。部屋に籠ることも容易だっただろう。しかし、彼女はそれをしなかった。遅れてくるが、欠かさず学校に来る。まるで何かに憑りつかれているかのように。しかし、その日から緋凪の生傷は絶えなかった。
言い様のない不安に駆られ、一緒に登校するよう言ったことがあった。だが、緋凪は頑として首を縦には振らなかった。
それから一ヶ月間見ていた。何も語らない従姉妹を見守っていた。何も出来ない自分に辟易しながら、彼女が望むように普段と変わらない従姉妹の〔安斎十和子〕として接した。傷口に塩を塗り込まないよう、なんて考えながら関わっているだけで、普段通りとは程遠いことを気付きながら放っておいた。
「あ、安斎先生いた。少しよろしいですか?お聞きしたいことがあるんです」
「あぁ、いいですよ。なんですか?」
ぼんやりとしていた安斎は、呼び止めてきた紺色のスーツ姿の青年に顔を向ける。彼は、ちょうど一ヶ月前に赴任してやってきた新米の教師と聞かされている。
橋場匡也、二枚目で爽やかな面持ちと穏やかな語り口が合わさり、授業も分かりやすいと好評判を叩きだした、過半数の生徒から好かれ支持されている臨時職員。
――それが、安斎も知っている表の顔だ。
「安斎先生の従姉妹さん、また怪我したんですね。先ほど保健室から出てくるのを見ました」
「……何が言いたい」
鬱陶しそうに赤茶色の髪を掻き上げ、流し目をする一つ一つの仕草が様になる流麗な女に、彼はニコニコ笑うだけで怯まない。
「では、また言いましょうか」
それどころか、彼は飄々とそんなことを言う。
「彼女が――次に死ぬヒト、ですよね」
許しがたい言葉を受け取り、怒りと悲哀を混ぜ合わせた微妙な笑みを浮かべた安斎は、内心で彼の生き生きとした裏の顔を残念に思う。
これがなければ、安斎もまた好評判の橋場匡也を信じたのに。
彼女は、無駄にキラキラしたエフェクトを背負う背広の青年に気付かれぬよう、そっと溜息を吐いた。
彼もまた、教師らしくない。
「橋場、いつも言うが、その発言は不謹慎だ。いい加減にしなければ、私もそれに相応しい対応をするが?」
「ああ、すみません。しかし、安斎先生、僕は知りたいのですよ。一ヵ月前、相川の身に何が起きたのか。そして、生傷が絶えない原因は何なのか――安斎先生は知りたくありませんか?」
へらへらと笑う彼に、安斎は苛立ちを前面に出し、舌打ちをする。
「いい加減にしろ。知りたかったら、私は本人に聞く。これ以上、不快な思いをさせるな」
そう吐き捨て、安斎は緋凪が上がっていった階段に足を向ける。その行動で橋場ともうこれ以上話す気はないと安易に告げていた。
その姿を橋場は見送り、今まで貼り付けていた笑みを消し去る。
「それじゃもう遅いんだよね……」