簡単な終わり方
「がけだねー」
「そうだね」
こんなところに里を作らないでほしい。
「さて、どうやって登ろうか」
目の前にそびえ立つ、岩の壁は高かった。当然、ロープも無ければ、梯子もない。
すぐ切れたり壊れたりするからか、そもそも必要ないのか。
「めんどくさい……」
登ろうにも、岩には掴む出っ張りが一つもない。ツルツルだ。
やっぱり特別な道具みたいなのがいるのかな。それともこれを飛び越えるほどの跳躍力があるのか。いや、それはないか。
「だいじょうぶだよ、ますたー! ますたーには、女神様がついてるよ!」
多分助けてくれないだろうから、ただのおばさんだね。
「……そこの坊や」
静かに聞こえた声に、僕は振り返る。チィは僕の上に乗ってるから、そのまま。
僕の後ろに立っていたのは、随分と年老いた女性。腰を曲げ、杖をついている。
深く被った麦わら帽子の、下の素顔を除くことはできない。
魔法使いのような服の色は、紫色だ。背中に長く垂れ下がる髪も、同じく。
日に照らされる魔女、という表現がしっくりときた。不思議なのは、そんな身なりをしていて、全く不気味に感じないことだ。
「あれ? 僕のこと、分かるんですか?」
「あたしは何でも分かるよ」
この人は、僕を坊やと言った。男だって分かったんだ!
「ますたーにしつれいだよ! このおかたは……むぐ」
「チィ、お願い、黙って」
頭の上にいるチィの口を、両手で塞ぐ。チィの中じゃ、僕は女なんだろうな。
「この崖にはね、ヒミツがあるんだよ。この上の里の連中しか知らない、ヒミツがねぇ」
ヒッヒッヒ、と老婆は笑う。皺がれた声と笑い方が一致してるね。それは失礼か。
「むぐぐぅー」
「チィ、リュックに突っ込むよ」
ピタ、と動きが止まる。ふむ、これからはこういうふうに対処しよう。
「僕達が鬼の里に向かっていること、知ってたんですね」
「そりゃあ、そうさ。あたしには、なんでも分かるからね。この世界に、危機が訪れるということも、坊やが長い、長い旅をするということも」
「旅、ですか?」
あの緑の石が手に入った時点で、最終決戦は近付いていると思う。決戦というか、あの生贄が必要な石の前に立つ時だけど。
多分、十日以内にはこの旅は、終わると思う。もしかしたら、今日にでも。
「ああ、長い、長い旅だよ」
それなのに、この老婆はこんなことを言う。言葉には、妙な説得力があって、それが僕に聞き流そうとはさせない。
「そんなことはどうでもいいねぇ。この里へ入る方法なら……それも、どうでもいいねぇ」
「ま、ますたー、ここ、どこ?」
視界が紫色に染まり、何も見えなくなる。
これは老婆の魔術ではなく、毒を体内に入れてしまったわけでもない。
「この里は霧が深くてね。あたしから離れないように、注意しなよ」
霧だ。紫色の、濃霧。
「こんな地獄みたいなところなんですね、鬼の里って」
「昔はこんなんじゃなかったんだがね。憎しみが立ち込める里になってしまったよ」
人が攻め入ったりしたのかな。あの、守護石がおかしくなってたって言ってたし。聖護石だっけ? 早く直さないと。
「ますたー、きもちわるい……」
「こっち来て」
僕にはチィを抱くことしかできない。薬とか貰ってこれば良かったな。
それにしても、この里に、人の気配は感じない。それどころか、生き物すらも。
紫の霧に混じって鼻を突く臭気が漂うここは、確かにチィには厳しいだろう。何かが、腐ったような臭い。
空を見上げると、予想通り、霧によって青空は隠れてしまっている。
ポコポコと、粘り気が強い水の、水泡が弾ける音もする。
近くから聞こえるその音の正体は、結局分からなかった。
空がダメなら地面はどうかというと、一応紫色の土があることが確認できた。
「それにしても、この霧の原因は?」
僕は前を歩く老婆に尋ねる。返事は返ってこない。聞いてはいけないことだったのかもしれない。
僕はチィを抱えて黙って歩いた。そこからもう少し歩いた時、老婆はようやく立ち止まった。
「ここで、坊やの憎しみを断ち切るんだ。憎しみがあれば、暗い闇に引きずり込まれるだけだからね」
聖護石のことだろう。僕には霧のせいで、どこにいるのかも分からない。
「そこで目を瞑るんだ。その子を抱っこしたままでいいから、やってみなさい」
僕は老婆の言う通り、目を瞑る。当然、僕の視界は黒で埋め尽くされる。
「憎しみ……」
気が付けば、僕は知らない場所で立っていた。口から、自然と言葉が漏れる。
黒一色で、それだけだ。前に見た空間に似ているが、ちゃんと足は地に着いている。
「お前の憎しみを……教えてやろう」
と、これはどこからか聞こえてきたよくわからない声。低く、掠れた男の声だ。
「……ほぅ、面白い過去を持っているな。神に作り出される種族にしては、少し特殊だな……いや、だからこそできた芸当か」
僕は返答せず、次の言葉を待つ。
「天女と鬼の遺伝子で合成された生き物。人間の遺伝子もあるようだが、この二つよりも圧倒的に少ないぞ。お前も理解しているだろうが、この二つのどちらかの力を使えば、自分で自分を抑えられなくなるようだ。人間の理性が他のものよりも少ないのだからな、当たり前のことだ」
黒い声はそこで一度区切り、再度話始める。
「完璧な人間を作ろうとしたのだな、その神は。それで、できたのが天女の容姿を持ち、鬼の力を気性の男か。とんだ欠陥品だな。人間世界でも魂を神の手下に喰われかけたようだな。随分と辛い人生を歩んだのだな。だが、それも今日で終わりだ。さあ、願え。楽になりたいと願え」
鬼の気性といっても、人間と大差はない。人間にも、乱暴者、臆病者がいるのだから、鬼も同じだ。
鬼と人間の違いは、力と考え方のみ。僕は人間の世界で育ったのだから、人間の思考になっている。
そんなことを今持ち出すということは、僕を欠陥品扱いするのに都合がいいからだろうか。
要するに、憎しみを向けてほしいわけだ。僕を侮辱し、挑発し、それで憎しみを生みだそうとしているわけか。
「そんなこと言われても、僕は怒らないよ。憎しみも、生まれない」
少なくとも、今は。気持ちが冷めている今なら、何を言われようと、僕の心には届かない。
「……お前の弱みのはずなのだがな」
「弱みだろうと、心に届かないと意味ないよ」
確かに、痛いところではある。でも、今は恐ろしいくらいに、落ち着いているのが分かる。
「なるほど。いいだろう、お前を認めてやろう……では、この闇をどうするか、最後まで見届けてやろう」
長く後を引いた声が、完全に消える。僕は瞼を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
紫色の霧は消え、大きな丸い黒い石が目の前で浮いていた。僕の身長の何倍もあるその石は、黒く、弱々しい光を放つ。
「おばあさん?」
老婆の姿も消え、この場には僕とチィだけだ。
「君達が、私を殺しに来たの?」
いや、三人いるようだ。僕は後ろから聞こえた声に、振り返る。
僕と年はあまり変わらないように思える。腰にまで伸ばされた髪は、金色。まず、それが印象的だった。
「いや、この石を元に戻すためだよ」
「ますたー」
僕が隠すことなく答えると、チィが僕を呼ぶ。僕が返事を返す前に、続きを話す。
「このいし、いけにえをよういしろって」
チィの声は、目の前に立っていた少女にも聞こえたようだった。テレパシーの類いのものなのかな、チィにしか聞こえなかったってことは。
でも、タイミングが悪い。
「私が生贄になるよう、言われて来たの。私が死ねば、たくさんの人が救われるからって。でも、霧のせいで私の光が弱くなってて」
時間が掛かった、と少女は言う。
この子が生贄になるって言うんなら、そもそも僕必要なかったんじゃ……ていうか、僕の憎しみは完全に関係なかったと思う。
「君は死ななくていいから、下がってて」
いきなり現れて世界を救うために命を投げる、素敵なお話だね。
もう、めんどくさいな。
僕はポケットの中から緑色に輝く石を取り出し、聖護石に向き返り、投げつけた。
「はい、終わり」
パン、パン。手を叩いて、僕は少女に振り返る。
「そんな簡単に世界を救えるはずが」
ない。そう言ったんだろうけど、僕には聞こえなかった。
耳障りな高音が場に響く。あまりの音に、少女は耳を塞いでしゃがみ込んだ。それと同時に、眩い光が僕の背中を照らす。
もう一度石に向き直ると、もう禍々しい黒い石はなかった。目を痛めて見入ってしまうほど、神々しい光を放っている。
「終わり、だね」
あの老婆が言っていた旅は、一日と持たずに終わった。
あっけなさ過ぎる。
静けさを取り戻した後、吐き捨てるように呟いたのは、僕だった。
憂鬱な気持ちだ。この世界だと変わるだろうと思っていた僕自身は、何も変わってはいなかった。




