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とても、静かだ。いくら深夜の森の中だとしても、これでは流石に気味が悪い。
だが、その静けさは些細な刺激で崩れ去る脆いものだと知っていた。眼前にあるのは砦だが、まるで砂の城だな……などと言葉遊びをしてみる。
今夜は幸か不幸か、月のよく見える明るい夜だ。小さい雲がまばらに散ってはいるが、月光を遮るほどの働きはしてくれていない。
そもそも天候を読み違えた俺のミスでもある。手元が狂わないというメリットもあることだから、多少のリスクには目を瞑ろう。
事前に入手した情報の信憑性は確かではない。無いよりはマシだと言いたいところだが、流石に砦をキャンプと間違えるような無能情報屋に命を預けるなんて真似はしたくなかった。事前に自分の足で偵察をするのは当たり前のことだったが、今回ばかりはその習慣を有り難いとさえ思ったほどだ。
……どうにも、今回の仕事は星の巡りが悪いらしい。
人数はおよそ五十。武装は軍用アサルトライフルを中心とした構成。前線に置かれた砦だけあって、戦力に穴はないものと思われる。
――さて。そろそろ、始めようか。
かちり、と頭の中で撃鉄を起こす。今からお前は殺人のための機械となるのだ、という暗示。……意識が、神経が研ぎ澄まされてゆくのを感じる。……集中しろ、更に深化しろ……凪いだ風の音を聴くのだ……。微かに震える筋肉、安定した呼吸、平常と変わらぬ鼓動――よし。俺は、人を殺せる。
「……生きろ」
小さな声で、そう呟く。それは祈りや願いなんて柔いものではなく、何よりも優先しなければならない自分への『命令』だった。
◆
――地を蹴り、音を殺して疾走する。気配は極力殺した上で、最大速を維持。その速さと先に持ったナイフとの重さとに流されながらも、必要最低限の力を通した腕は、先に迫った脅威を瞬時に滅することのできる凶器として成立している。
向かう先は砦の入り口。見張りを五人、確認。それぞれの距離は離れている……これなら、確実に一人ずつ殺せる。
「……な」
まずは、一人目。こちらに気付いて声をあげようとしたが、如何せん距離が詰まりすぎていた。喉を裂いて声を封じ、通り抜けざまに頸動脈をなぞる。
手首をスナップさせて、刃に付着した血を払う。
二人目、三人目、四人目、五人目――同じく頸動脈を断ち切る。
一人目を殺す為に止めた足は、再び地面を蹴ると殺人の数を重ねる度に加速してゆき……そして手は、迅速かつ正確に五つの屍をその場に生み出した。
確認はしない。振り返らない。これは慢心ではなく、一つの決心だった。自分はこう在るべき、そしてこう在るしかない存在であると信じているからこそ、自分は技術を磨いてきた。だから、その技術が及ばない時――つまり、俺が俺としての存在理由を失う時――には素直に死を受け入れる。そういう、信念めいたというには大袈裟に過ぎる、矮小な俺の意地がそうさせるのだ。
「……次」
そう呟いて己を律する。
――まだまだ、夜は長い。
◆
通信施設の掌握。それは電子回線で結ばれている現代の武装集団の統率を瓦解させる最大の手段だ。1対50……数で圧倒的に負けているが、そこを押さえることが出来れば幾らか状況は良くなる。
その周辺は警戒が厳重になることは必至。……つまり、警戒の手が多いところを攻めればいい。猿でも分かる真理だ。
通路の影に潜み、近づいてくる足音を待つ。
喉笛を掻き切るべきか、それとも眉間を撃ち抜くべきか。
足音が近い。ここは一気に攻める……!
飛び出した先に、兵士が一人。銃を持ってはいるものの、この距離では立ち回りなど不可能だろう。
目と鼻の先。不意に距離を詰められると、余程でない限り人の挙動は止まる。事象に対して、理解が追いつかないのだ。
「ぎっ……」
鳩尾に拳を入れる。どん、と身体に響くような鈍い音がして兵士は腕にもたれてきた。
その首をクルリと一回転させ、絶命させる。
「……これは借りていく」
彼が持っていたハンドガンを拝借し、通路を進む。
――見えた。
ドアの前に、警備が3人。
さあ、殺戮開始だ。挨拶代わりに、銃弾を一つずつお見舞いしてやる。
■
いきなり、隣の新人がぶっ倒れた。
――何が起こった?
――そんなの決まってるだろうが。
反射に近い速度でその場を飛び退く。一瞬前に自分の頭があった空間を銃弾が突き抜けてゆく。
「クソっ、侵入者か……! おい、ヒューズ!」
「分かってる!」
互いに背中を合わせ、死角をカバーし合う。これで、相手も警戒するはずだ……。
敵の姿を探す。さっきの銃弾はこちら側から飛んできた。
「多分こっちにいるはずだ……姿は見えねえけど」
ああ、と応えるヒューズの声は震えていた。
「応援呼ばないとな……司令室に連絡しろ。俺はあっちを見てくる」
「ああ……気をつけろよ」
おう、と応えて歩き出す。どこだ……どこにいる……?
己の視覚と聴覚だけを頼りに、索敵する。
――足音一つさえ聞こえねえ……どうなってやがるんだ、まったく。
そう思った瞬間、視界の隅で黒い何かが揺れた。
「そこかっ!」
引き金を引く。放たれた銃弾は、その黒い影の進む先へ……。
きん、と甲高い金属音が廊下に響いた。足下に転がってくる丸い物体。よく見ると、それは潰れて平べったくなっていて。
それが、自分の撃ったものであると気付いたその時――。
――ありえねえ。
意識が途絶える前に、感じたのはそんな驚愕だった。
■
上手く誘いに乗ってくれた。
銃弾ほど避けやすいものはない。直線的な軌道は読みやすいが故に。
さて、もう一人を始末しよう。
無線機を撃ち抜かれて、相当焦っているはずだから、殺すのは更に容易いだろう。
そして、数分。砦は陸の上に在りながらも絶海の孤島となった。
■
「……定時通信。応答を」
マイクに向かって彼は先程から何度も呼びかけているのだが、それに応える声はなかった。
「司令。やはり応答がありません」
司令と呼ばれた軍服の男は少し考える素振りをしていたが、どこかその様子が焦りを含んだものに変わっていき……。
おい、と通信機に向かってなおも呼びかけ続ける部下に対して彼は尋ねる。
「外部に通信は可能か?」
「おそらく、可能かと……」
部下はコンソールを操作し、呼びかける。
「こちらティーガー基地。応答を……」
それを三度繰り返すも、返答はない。
「もういい! クソ……どうなってやがる!」
激昂。その行為に意味がないことは彼にも分かってはいたが、そうせずにはいられなかった。この砦は、この抗争において重要な位置を占めている。小さくとも、ここにこの砦が機能しているということが敵への牽制となっているのだ。その機能が今、ダウンしている……。
「あの……」
「なんだ!」
震え、掠れた声に当たり散らすように彼は応えた。それに対して、また震えた声を返すのは、痩せ細った男だった。
「私、聞いたことがあります。人伝に……黒いスーツに身を包んだ、死神の噂を」
その場で業務を行っていた部下たちが、ハッと振り向く。
「い、いえ……ただ、やり口が似ているなあ……と。通信が出来なくなって、人の声が聞こえなくなったかと思ったら……」
そう話していた男が、急に黙り込む。そしてそのまま――。
――首筋から血を噴水のように噴き出して倒れた。
■
制圧には、そう時間はかからなかった。
「や、やめろ……助けてくれ、頼む、この通りだ」
そう命乞いをする男に向かって血にまみれたナイフを向ける。
これで、最後――。
「ほら、金もあるんだ!待ってろ、今だ――」
それを心臓へと突き立てて掻き回すと、煩く喚いていた男は黙りこくって只のモノに成り下がった。
「任務、完了……」
取りこぼしは無い。この砦に生きている人間は今、俺だけだ。
着ている黒いスーツを見る。返り血一つさえ付いていない。
「……あ」
上着のボタンが、取れている。
「縫わないと……いけないな」
そんなことをぼやきながら、その場を立ち去る。やはり、振り返ることはなく。
◇
――俺には、何かが致命的なまでに欠落している。
脳が命令した通りに手が動く。足が地を駆ける。そして何より、この胸には確かにヒトとしての鼓動がある。何一つ、自分の身体に欠けたところは見当たらない。
思考する。
ハードが完全であるのならば……なるほど、その中を走るソフトに問題があるに違いない。如何に正常で精密で高性能な機械であろうと、世のため人のために有効に活用されるかどうかは使い手次第、と言い換えることも出来るだろう。
例えば、ここにナイフがあるとする。それは正常な倫理を持った者の手に渡ったならば、余程のことがない限り凶器とはならないだろう。誤って指を切るだとか、そういうことはあるかもしれないが、人の命を脅かすほどの脅威にはなり得ない。……しかし、だ。目的のために効率的な手段が殺しであれば躊躇いなく実行出来る者――或いは、この世に順応出来る精神構造を持たない者の手に一度握られてしまえば、それはその性質を大いに変容させることになる。『切る』から『殺す』へ、いとも容易く。人の肉体もまた、モノであるが故……その例に漏れることはない。つまりは、そういうことだ。
「だから、俺は今すぐにでも俺を殺さなければならない」
暴走する可能性のあるものは、悉くその芽を摘まれるべきだ。それが世のため人のためというものだろう。意外とこの世は平穏なのだから、わざわざそこに波風をたてる存在を生かしておく必要がない。
「だが――俺は死ねない。死にたくない。死ぬわけにはいかない」
だから、殺す。例えそれがどれだけ矛盾を孕んだ行いだとしても。――止まれば、そこで自分が自分を殺してしまうのではないか。そんな幻影に心を怯えさせながら。
エラーをイカレた心の中に蓄積させ続け、今日も俺は殺人する。止まらない、止まれない。誰か俺を助けてくれ、と声にならない身勝手な悲鳴をあげながら。
◆
とある研究所。そこに今回の依頼主が俺を呼んだ。
「合格だよ、名無しのマンハンター君」
「……」
白衣を纏った若い男……げっそりと痩せ細ったシルエットを無理矢理それで大きくしているかのような印象だ。
初めて会った時に、なんとなく感じていた。……この男は、虚栄と嫉妬の塊なのだと。そのイメージが、俺にそう思わせるのだろう。
「君は優秀だ。生まれ持った天賦の才、そしてそれを遊ばせることなく達人の域にまで昇華させたこと。努力を重ねられることもまた才能……いやいや、君ほど良い人材は何処にもいないと確信した!」
虚栄と嫉妬。どちらも俺には無縁のものだ。俺は、生きるということを実行し、殺人を施行しているにすぎない、ただの機械なのだから。
「君には、私のプロジェクトに一年間協力して貰う」
だからこそ、興味を持った。
「私はこの世が許せない! こんな不平等な世の中が! 私と君や他の数億との間にこれだけの差を生み出したこの世が許せない!」
空っぽな俺を埋めたいと思ったから。
「……それで、お前は何をするんだ?」
俺の問いに、決まっているだろうと彼は答えた。
「有り体に言えば――世界を、壊す……かな! 進んで協力してくれたまえ、才能有る殺人者君……私は君を歓迎するよ!」