第四章 吉助(1)
「よいか、そなたは夏が終わったら弥勒丸様のお側にあがることになる」
父が僕にそう告げたのは、天正6年の夏のことだった。
ほとんどを播磨の陣中に在るとはいえ、上様への報告などで安土を訪れる行き帰りなどには菩提山にも立ち寄り、僕の学問の進み具合をみてくれたり書を見てくれたりもする。
留守がちでそれほど多く話した記憶はなかったけれど、マメに文をくれる人だったのでいつも気にかけてもらっているという感じがしていて、僕ら兄弟はみんな父が好きだった。
さほど丈夫でない父の手助けが早くできるようになりたくて、僕は学問も剣術もどちらも疎かにすることなくうちこんでいた。
「羽柴の殿様の御嫡子ですね?」
「そうだ。弥勒丸様という」
弥勒菩薩からとったのかもしれないが、すごい名前だよな、とぼんやりと思った。
「そなたは、弥勒丸様の元で、ご薫陶をいただくように」
父は真面目な顔で言った。
(……弥勒丸さまのご薫陶?)
不思議なことを言うと思った。
僕は父が父であるせいなのか、あまり子供らしい子供として育たなかった。年齢より大人びていると言われて来たし、事実かわいげのない子供だった。
そんな僕が一つ年下の子供の薫陶をいただくなど何の冗談かと思ったのだ。
「弥勒丸さまは、神隠しに遭われていたとお聞きにしましたが……」
「そういうことになっている」
「本当は違うんですね?」
「……真実がどうかは誰も知らない。事実だけを述べるのなら、石丸君を亡くした南殿の気が触れ、弥勒丸さまを石丸君と思い、小姓らの目の前で攫い、弥勒丸さまを抱いて堀に飛び込んだ」
「……堀に……」
「南殿の亡骸はあがったが、弥勒丸さまは見つからなかった」
父の言葉は澱みがない。
「お堀ってそんなに深いんですか?」
「……深いは深いのだが、底なしというわけではない。何人もの人間が潜ったし、終いには底さらいまでした。……だが、それでも弥勒丸様はみつからなかった。見つかったのは、印籠と小刀だけだった」
「……弥勒丸さまは?」
「亡骸は見つからず……そして、行方知れずになってちょうど一月後、竹生島に参詣しようとしていた奥方様が琵琶湖の岸辺に倒れている弥勒丸さまを見つけたのじゃ」
「だから、『神隠し』と」
「そうだ」
父は深くうなづいた。
「最も、それは表だけの事情だな」
「裏の事情があるのですか?」
物事にはすべて表と裏があると父は言う。父は無言でうなづいた。
「他言無用のお家の秘事ではあるが、おまえには話しておく」
僕は姿勢を正した。
父が僕を一人前と見込んで話してくれる事だからだ。
「石丸君は殿のお種ではなかったようだ。……少なくとも南殿はそう信じていた」
「……え?」
「気の触れた南殿が呟いていたことだから真実かどうかはわからぬ。……だが、おそらく、それは事実だったのだろうと思う」
「なぜ、ですか?」
南殿という方が長浜より以前からご側室であったことを僕は聞いていた。
「それはわしらには預かり知らぬことだ。だが、事実だけを述べるのならば、南殿はその罪の意識にずっと怯え……、石丸君が亡くなり、己の罪が石丸君を殺したのだと思ったようだ」
そして、その罪の意識がやがて南殿の心までも殺した……と父は言った。
「今となってはもうどうでもいいことだ……弥勒丸さまはお戻りになり、すっかり元気になられた。……だから、皆、忘れる事にしたのだよ。南殿を……そして、南殿の罪を……」
忘却は最大の罰だ、と父は言った。
僕はよくわからなかった。
ただ、何だかひどく哀しいような気がしていた。
「……そなたは、弥勒丸様のことだけ考えて生きよ」
羽柴秀吉という男に人生を賭けた父は、その息子に僕の人生を賭けるようにと命じた。
「はい」
僕はうなづいた。
僕にとって、父の言う事は絶対だった。
父は満足げにうなづいた。ほんの少しだけ笑っていたように思う。
実際に弥勒丸さまの下に、僕があがったのは秋も半ばをすぎたひどく寒い日だった。
「おまえが吉助?」
子供らしい澄んだ高い声がした。
(……力のある声だ)
対面の間はがらんと広い。上座にある火鉢だけでは到底室内は暖めきれず、どこかピンと張った冷たい空気の中、その声はかすれることなく響いた。
「はい。……本日よりお側にあがります、竹中重治が一子、吉助と申します。」
頭を下げたまま名乗りをあげる。
「面をあげよ」
そう言われて顔をあげた。
そこにいたのは、秀麗な顔立ちの子供だった。
(に、似てない……)
殿のことは僕も知っている。父を得がたい部下と思って下さっているらしい殿は、僕や母にまで細かい気遣いをしてくれるような人でこれまでにも何度かお目にかかったことがある。
目の前の若君は、顔だけのことを言うのなら殿とは似ても似つかなかった。
言っては悪いが、殿は風采のあがらないちょっと頭のハゲあがったおっさんだ。『猿』という綽名通りの御方なのだ。元が百姓の出だというが、確かにその通りだ。きっと、この長浜の城主だなんて言われても初めて殿にあった人はたぶん信じられないだろう。
でも、弥勒丸様は違う。
とても整った顔立ちをしていて、どこの名家の子息だと言われても皆が納得するだろう品のある方だった。強いて言うならば、とても美しい方である奥方様に似ているということになるのかもしれない。
「俺のことは弥々でいいぞ」
「……弥々様、ですか?」
「うん。俺は吉と呼ぶでな。その方が身近な感じがするやろ。ずーっと側にいるんや。堅苦しいのは御免じゃ」
はは、と陽気に笑う。その笑顔に見惚れた。
トクンと心臓が鳴った。
「じゃあ、吉、行こう」
「……どこにですか?」
「台所じゃ。今日は栗飯の日でな。炊き立ての栗飯でむすび飯を作ってくれるとおっかあが言ったんや」
弥々さまは、地下の訛りを隠す風でもなくそのまま口にする。
「……ああ、言葉か?ええんや、今はこれで」
すぐに僕の聞きたいことがわかったらしく、にやりと笑う。
(……今は?)
「客前ではちゃんと普通にしゃべるでな」
「でも、城の若君さまが尾張の地下の訛りでお話になるのは……」
「いいんじゃよ。近江は近江で別の訛りがあるが、羽柴は尾張の出身やからな。少しくらいなまっていた方が百姓や足軽やそんな者らが俺らを身近に思えるやろ」
「そんな身分軽き者に気をつかわなくても……」
「でも、吉助。民のほとんどがその身分軽き者だぞ」
弥々さまはあっさりと言う。
「それは……」
「身分高き者の力も大事じゃが、名も無き大勢の民の力もまた大事じゃぞ」
「なぜ、ですか?」
「だって、民がいるから、俺はお城の若君なんじゃ」
民がおらなんだら、ただのクソガキじゃと肩をすくめる。
「弥勒丸様……」
驚きで目を見開きながらも、すとん、と胸に落ちるものがあって、僕は不意に何かを納得した。
何をとはっきりと言葉で示すのは難しいのだけれど、自分の中に生まれたものがあったからだ。
父が『薫陶』という言葉を使った意味がよくわかった。
(僕は、この方に御仕えする)
この先、何があろうとも僕はこの方にお仕えしよう。
この方が見るものを一緒に見て、この方が話す言葉を聞きとめよう。
この方を狙うものがあらば盾となり、この方の命あらば剣となろう。
父に言われたからではなく───僕がそう決めたのだ。