第三章 父(2)
「弥々さまも何ぞ召し上がりますか?」
「いや。茶、くれ」
「はい。どうぞ」
吉助がかいがしくお弥々の世話をしている。
お弥々のただの遊び相手のつもりだったが、幼いながらも吉助は既に小姓としての役目を充分に果たしている。
勿論、できぬこともたくさんあるが、努力している様子はとても感心する。勉強も剣術も弥々と一緒に努力しており、半兵衛の息子らしく筋は良いという。
(じゃが、やっぱりお弥々がいっとう可愛いのぅ)
わしやおねの話をとても聞きたがり、一緒にいたがる。
わしが城にいて政務をとったり陳情を聞いたりする時は、常にわしの膝にいてにこにこ笑っている。つまらないだろうと問えば、「おっとうといるだけで嬉しい」という言い草だ。それも決して子供の賢しさではない。心底そう言っているのがわかる。
親馬鹿がすぎると言われるかもしれぬが、たった一人の我が子にそんなことを言ってもらえるというのは冥利につきることだ。
わしがお弥々をすきなのと同じくらいお弥々はわしを好いておる。わしはそれを知っている。お弥々もまた知っている。
だから、視線が合うとわしらはいつもくすぐったい気分になり、互いに笑みをかわす。
この時に互いに通い合う柔らかな感情やぬくもりを親子の絆というのではないかとわしは思う。……それは、幼いわしが欲しいと思いながらも与えられなかったものだ。
わしは、それをお弥々を得ることで手に入れた。
お弥々だからこそ与えてくれたものなのだと思う。
「殿、お弥々さまは相変わらずやんちゃなようで……」
「うむ。この間など、城下の明かりが見たいと夜中に寝床を抜け出すものだから大騒ぎじゃ」
「……誰も気付かなかったので?」
「吉助だけはいつも一緒じゃな」
「……一緒に寝ていたので?」
「まさか。吉助とはちゃんと示し合わせておる。宿直を引き剥がすための陽動は吉助の役目じゃ。……もちろん、後で合流しておるがな」
はぁとわしは嘆息する。
「何とも息のあった主従で……」
「良いのか悪いのか……」
苦笑してみせるものの、本気で困っているわけではない。
「良いではありませぬか。……吉助はお弥々様を絶対裏切らないでしょう。そういうものがお側にいることは安心です」
「……そやなぁ」
小一郎はお弥々と吉助を見ながら小さく笑う。確かに微笑ましい一対だ。
「お弥々様がおれば殿も安泰です」
この弟はいつも殊更わしに丁寧だ。人目のあるところではわざと『殿』と呼び、『お弥々さま』と呼ぶ。
わしの実弟であり、無二の股肱であり、わしにとって最も頼りにする補佐役である小一郎がそうやってわしらを上に置くことで、この羽柴という成り上がりの家においてもわずかな権威と上下関係とが生まれる。
小一郎があえてそう気を配っているのをわしは知っているし、それを有難くも思っている。その気遣いが、わしの至らぬところを補ってくれているのだ。
だが、小一郎があまりにもわしに丁寧に接するので、わしと小一郎は父親が違うという噂が流れてもいたりもする。小一郎はそれを否定しない。その方が都合がいいからだ。
この弟の思慮深さは、我が家を安泰にせしめている大きな要因の一つだ。
「あ、小一郎叔父、のりが全部についているのは小一郎叔父の好きな梅干やぞ」
「おお、義姉上の梅干か……それは有難い」
小一郎の頬が笑み崩れている。小一郎にも子がいない。養女をとってはいるが、実子はいない。ゆえに、お弥々がわが子のように可愛いといつも言う。
先頃、お弥々が寝付いていたときは、近くの自社仏閣に病気平癒の加持祈祷をさせたらしい。神仏の助けなどで病が治るか!というのが小一郎の持論で……この弟は変なところで頑固な現実主義者なのだ……自分の為は勿論のこと、わしの為にもそんなことをしないのだが、弥々のことになるとどうやらタガがはずれるらしい。
お弥々もまた小一郎には懐いていて、小一郎を見るといつも嬉しそうににこにこする。
「……おっとうと小一郎叔父は、そろそろ、また播磨に戻って戦じゃなあ」
大人びた口調で溜息をつく。
「そうじゃな」
播磨は豪族や小大名が入り混じる難しい土地だ。数年前からずっと諜略の手をのばしているものの一朝一夕にはどうともしがたい。
「なんぞ、策はあるかの?」
わしは面白半分に問いかける。
「ないわけではないけど、机上の空論になりかねんもん」
「きじょうのくうろん、とは、何ぞ?」
「理屈倒れっちゅうことや。現場を知らん俺が言うても説得力ないやんか。それに、細かいことをここで言うても状況次第で変わるもんやし……」
「そら、そうや」
数え七つとは思えん頭のめぐりの良さにわしは嬉しくなる。まあ、夢の中では三十を過ぎた大人の男であったのだと言うのだから、それほどおかしなことではあるまい。
「………あのな、人の心を、獲るんがええと思う」
おっとうの得意技や、とお弥々は笑った。
「人の、心か」
「そうや。おっとうは上様の部下じゃが、上様とは違うということを播磨の人に知ってもらうんが必要と思う」
「ふむ」
わしと小一郎は、お弥々の言葉に耳を傾ける。
「上様のなさりようは苛烈じゃ。新しい世を拓くにはそれが必要じゃろうと思う……でも、ただの人にはそのなさりようは恐ろしいこともあるでな。叡山の一件かて耳に入ってるやろうし、織田は皆恐ろしいと思っとるはずや。だから、おっとうや小一郎叔父は、織田家の人間やけど、ちぃっと違うぞと皆に知ってもらうのがええと思う。そん時に百姓の出やというのは都合がええな」
「なんでや」
正直言って、わしは百姓の出であることを負い目に思っている。身分低きことをさんざんバカにされてきたし、そのことを隠したいとも思っているのだ。
「だって元は百姓や。武術はそれほど得手やないのや言えば、それはそうやろうと思われる。恐ろしげな織田の家中にもそんな人間もおるんやと思われれば、何やこれは違うかもしれんと思ってもらえるかもしれん」
「それはそうやけど……」
「おっとうは百姓の出やいうことが恥ずかしいと思っとるかもしれんが、そんなことはない。だって、考えてみるとええ。どんな高貴な血筋も、最初は成り上がりやで」
お弥々は、にぱっと笑みを浮かべてあっさりと言う。
「上様の織田家は守護代の分家じゃ……だが、そのそもそもその守護代や守護のお家かて、元は土豪や百姓に毛の生えた程度の侍でしかない」
どのような名家であろうとも、確かに家を興す最初の一人はただの人であろう。
「それが出世し、代を重ね……織田家にいたっては、信長様という殿様を生み出すことで、今になったんじゃから……」
何も殊更、恥じることはないであろ、とお弥々は言う。
「お弥々……」
気負うでもなく、さらりと言われた言葉は、不思議とわしの心にすんなりとしみこんだ。
それは、小一郎にも同様だったようだった。その顔が晴れやかに輝いている。
「わしや小一郎が羽柴の家を興す……そして、お弥々やその子の代になれば柴田殿や丹羽殿のような普代の衆と肩を並べ……代を重ねりゃあ、それ以上になるかもしれんというわけやな」
お弥々は不思議な笑みでうなづいて口を開く。
「羽柴の家は成り上がりや。俺はそれを恥ずかしいと思わん。だから、むしろそれを利用すべきや。播磨の者は古い血筋を誇っとるやろ。じゃからそころくすぐってやればええ。『ぜひとも教えを乞いたい……わしらのような百姓あがりには貴殿のような名族の手助けが欲しいのや』言えば、わかってはおっても悪い気はせんやろ」
「舐められへんやろか?」
「そんならそれだけの奴やいうだけじゃ。……そういうのは、おっとうの得意やろ」
「くすぐってやるのやな」
「そや。……俺も一緒に行けると良いんじゃがな」
こんなに小さいと戦場では何もできん、と不服そうに口を尖らせる。
「そないなこと気にせんでええ。弥々はな、病になどならんで大きゅうなってくれればええんじゃ」
そっと頭を撫でる。多くを望むつもりはなかった。ただもう、無事に育ってくれればそれだけで良かった。
「そうじゃ。……弥々丸はたくさん勉強もしとると聞いた。半兵衛が感心しとったが、無理はせんでええのじゃぞ」
小一郎も口を添える。
あの己の才に自信を持ち、誰もがそれを認めている男は、お弥々を対等の相手と扱っている節がある。さほど言葉を重ねているという風はなかったが、互いに認め合うところがあるのだろう。
「大丈夫じゃ。……それに学問はな、夢の中でもいっぱいしたのじゃ」
だから、思い出してるようなもんじゃ、と弥々は軽く肩を竦めてみせる。。
「……そないにたくさん勉強したのか?」
自身、かなり勉強家な小一郎が真面目な顔で問うた。
「うん。……人にも教えとった」
こともなげに弥々は言う。それはわしも初耳だった。
「……人に、何を?」
「教えとったのは建築いうて、城の縄張りのことや、材料のことや……そういったことだな。でも、勉強は他のこともいっぱいしたんじゃぞ」
「他のこと?」
「そうじゃ。……算術や書やそういったことやな。漢籍や古い物語なども学ぶし、異国の言葉なども学んだな」
「異国の言葉……」
「……書は修練である程度までは上手うなる……夢の中でも修練しとったしな。あとは、ただ、心じゃ」
強き心の時には強い字が、弱き心の時には弱き字が書けると、弥々は言う。
小一郎はその言葉に目をしばたかせ、それから深々と溜息をついた。これは、この弟が本当に、心底、関心した時だけの癖だ。
「弥々丸は、ほんまにたくさん学んできたのじゃの……」
「うん。……まあ、焦っても仕方ないからの。今の俺にできることを頑張る。留守の間、おっかあとおばあの事は心配せんでええよ」
「……お弥々は頼もしいのう」
わしはくしゃりと頭を撫でた。
此度の戦は総力戦であるからして、この長浜の城に留守居の兵はほとんどおかない。小一郎のおかげで領内はよく治まっているので一揆などということもないだろうが、それでも留守居は誰にでもできることではない。
だが、この子がいるのだから大丈夫だと思う。まだ幼いが、弥々は既に一人前の男だった。
「せめて留守くらいは守れんとな」
やわらかく笑う。
この子の笑顔は周囲を明るくする。
わしは、こうしてお弥々が笑っていれば、何もかもが大丈夫だという気がしていた。