第二章 弥勒丸(2)
「弥々や、気分は悪くないか?どこも痛くないか?」
「……ほら、おまえの好きな甘葛の栗や。たーんとお食べ」
「おお、鮎の塩焼きもあるでな。どれ、骨とってやろうか」
呆然が行き過ぎると唖然となるのかもしれない。僕は何が起こっているのかいまいち理解しきれないで、ただただ何度も目をしばたかせる。
真夜中だというのに、明かりはこうこうと灯され、目の前には次々へと膳が並べられ、まだ運ばれてこようとしている。
「弥々や、どうした?他に何か食べたいものがあるんか?」
何でも作らせるで、と父は言う。
(父……)
そう。目の前のこの剽げた風情の小男は、紛れもなく父なのだ。
理屈ではなく、単に感情というのでもない。ただ、己のすべてでそう理解していた。
「……おっかあの味噌汁が飲みたい」
するりと自然に口をついて出た。
(……ああ、そうか……)
夢なのだと思った。
「味噌汁かい?どれ、すぐに作ってこようね」
涙を拭きながら立ち上がるのは母だ。
「豆腐とねぎがいい」
「わかったよ。弥々は豆腐が好きだもんねぇ」
「うん」
うなづくと、母は嬉しそうに笑った。
ふっくらと暖かな印象のする美しい人だった。この時代で言うのならば、年増と呼ばれるのかもしれないがその柔らかな雰囲気が不思議と年齢を感じさせない。
僕は父を父であると思うのと同じくらい、この目の前の女性を母なのだと感じた。
戸惑いがないわけではない。けれど、それは簡単に飲み込めてしまう程度のものでしかなかった。
座敷中の人の注目を浴びながらも腹の虫の催促には勝てず、消化のよさそうな粥を口に運びながら、骨をとった鮎に箸をつける。
(俺は夢を見ていたのじゃな……)
あの美しい女と出会い、それを失う、長い長い夢。
夢であるはずなのに、じくじくと身体の真ん中が痛みを訴えている。
(不思議じゃな……夢だというのにこんなにも胸がいたむ)
時として、のたうちまわりたくなるような痛み。
(『彼女』がいない)
ただ、それだけなのに、こんなにも『自分』が軋む。
「こっちはお弥々の好きな甘い玉子焼きじゃ。豆腐のあんかけもあるでな」
男は愛嬌のある笑みを向け、どんどんと皿を僕の前に押しやる。
次から次へと料理が並べられた。
「……おっとう」
すんなりとそう呼べた。口にしたら、他の呼び方はないように思えた。
「ん?なんじゃ?」
「……弥々は、夢をみとった」
「夢?」
「うん……長い夢じゃ……」
「どんな夢じゃった?」
男は笑う。
この男が、夢の中の歴史で知ったあの豊臣秀吉なのかの確証はない。
だが、この男は確かに今の自分の父だった。
(ならば、それだけでええ)
「……おっとうと、おっかあがおらんかった」
「何と!わしらがおらなんだか」
「うん。……それで、俺は他の違う家の子になってな……ずっと苦しかった」
「可哀想になぁ」
父は夢の中の話だというのに、本気で涙を見せる。
「でもな、可愛い子がおってな。その子を嫁にしたぞ」
幸せやったんや、と言うと、父は笑った。
痛みが少しだけ薄らいだ。
「そうか、そんな可愛かったんか?」
「うん。……優しくて、可愛くてな……でも、死んだ」
再び、ぐさりと何かが刺さった。
どくどくと血が流れる。
死んだと言ったときの俺の声音がよほど冷ややかに響いたのだろう。父は、そっと俺を抱きしめる。そのぬくもりが慕わしく、そして、大切に思える。
「……死んでしもうたんか」
「うん。……でも、俺は、あの子だけが好きや」
(例えあれが夢だったとしても、栞だけが好きだ……)
「そうか……」
父の脳裏に浮かんだ面影が誰だったのか僕は聞かない。この父にそんな風に甘酸っぱい顔をさせるのは母でないのだと何となくわかっていた。
「苦しゅうて……苦しゅうて……どうしようもなくて……そしたら、目が覚めた」
「……ほうか」
父はぎゅうっと抱きしめる手に力をこめる。
「……これが、胡蝶の夢って奴なんやろか」
(でも、夢やとしても、この喪失の痛みは真じゃ)
あちらでは今の自分を夢と思い、こちらではあちらの自分を夢と感じる。
では、真実、現であるのはどちらなのだろうか。
「こちょうのゆめとは何ぞや?」
「夢か現か……現か夢かわからん心持ちいうやつや」
「ほうか……弥々は難しい言葉を知っとるんやな」
「俺は、夢ん中でいっぱい勉強したんやで、おっとう」
抱きしめられていると安心した。
自分が幼い子供に戻ったみたいで……覚えのない幼児期を取り戻したような気がした。
「ほうか……どんな勉強しとったんや」
身体のわりには大きな手が、頭をなでる。
「城の縄張りの勉強をしとった……」
「ほお。城か」
「いつか、おっとうの為に俺が城を建ててやるからな」
「そりゃあ、ええな」
「それで、おっとうとおっかあと……あの子をみつけて、皆で暮らすんや」
抱きしめる腕が小さく震えた。
「……お弥々よぉ」
声が湿っている。その声音に、何とも形容できない、温かみを感じた。
「……おまえが目が覚めてくれてほんに良かった」
……父は静かに泣いた。
いつの間にか戻ってきていた母もかたわらで泣いていた。
ぼんやりとそれを目の端にとらえながら、何だか胸がじんわりと暖かくなっていた。
そして、僕は思った。
(……ここでなら生きていけるのかもしれない)
父と母のいるこの世界でなら。