第二章 弥勒丸(1)
目が覚めて、最初に目に入ったのは見慣れぬ白木の天井だった。
(……死ななかったのか)
それが良かったのか悪かったのか、僕にはわからなかった。
ゆっくりと布団の上に起き上がる。
(……ここは、どこだ?)
ゆうに10畳はある和室。床の間にかけられた軸は墨一色の山水画だ。誰のものとわかるほどの審美眼はないが、良いものだと何となく思った。墨の濃淡だけで描かれているはずなのに、そこには色があったからだ。
(病院のはずはないな)
襖にはさらりとした筆致で貝や蟹などが描かれている。何の意味があるのかはさっぱりわからなかった。
だいたい、和室の病院なんて見たことも聞いたこともない。
ふと、違和感を覚えた。
(……目線が違う?)
それから己の手を見、ぐっと拳を握り締める。木刀のタコも、ペンダコもないまだ柔らかい手。それは、僕が覚えているのよりもずっと小さく細い。
(……子供の手だ……)
自分の身体が子供のものなのだと認識する。だが、それがいまいち信じきれず、周囲を見回した。
鏡らしきものはなく、枕もとの少し離れたところに水盤があった。黒の漆塗りの水盤を鏡代わりにのぞきこむ。
「……う」
思わず奇声がこぼれ出た。
ぼんやりとした水鏡の中、そこに映るのは、何度も夢で見たあの子供の姿だったのだ。
思わず、頬をつねる。
(……痛い)
それから水盤に手を振り、水盤の中の子供も手を振っているのを見て、それがやはり自分の姿なのだと理解した。
よく見れば格好だっておかしい。幼い身体に身につけているのは、寝間着らしい浴衣にも似た白い薄物。パジャマではない。
(着物に下帯……なるほど)
つまりはこれは、やはりあの夢の中なのだと結論づけた。
(寝よう……)
そのままもう一度もぞもぞとかけられていた衾にもぐりこんだ。
ふかふかの綿がぎっしりつまった布団に薄く綿をいれた衾を頭からひきかぶる。悪くない寝心地だ。
目を閉じる。
身体は疲労を覚えているのか、意識がすぐに揺らぎはじめた。そのことにほっと安堵する。
(目が覚めればきっと……)
戻っているだろう。
あの息苦しい、どこにも僕の居場所のない世界に。
二度目の目覚めは真夜中だった。
(……おかしい)
一面の暗闇……またしても先ほどの見覚えのない天井が目に入る。
「……おかしい」
思わず口に出した。
喉が渇いているのか、声がかすれる。
やや高い子供の声で、心のどこかでその夢のリアルさに驚いていた。
夢ならもう覚めてもいいはずだった。
(いや、もしかして夢だったのは、あちら側なのだろうか……)
かざした小さな手を握ったり、開いたりしながら考える。
妻がいて、二人の生活があって……それは夢のように幸福な日々だった。永遠に続くと思っていた穏やかでささやかな日々……そして、一転してすべてが失われた無機質な世界。
「……夢……」
口に出して呟いてみると、何だか本当にそんな気がした。
「いやいや、わからんぞ……」
夢の中でまた夢を見ているのかもしれないと思い、もう一度横たわる。だが、おそらく身体は充分に睡眠をとったのだろう。目を閉じても一向に眠りに沈むことは出来ない。
(仕方がない……)
起きることにした。
ぐーっと腹が鳴る。
「……腹、減った……」
そう口にしたらもう一度きゅるきゅると腹が鳴った。夢の中でもこんなに腹は減るものなのだと知って驚いた。栞を亡くしてから、食べるということはただの栄養摂取でしかなかったので、こんな風に腹が減ったという感覚を覚えるのは久しぶりだった。
(……食い物探さないと……というか、誰か他に人はいないんだろうか……)
今の自分が、あの夢の中の子供なのならば……秀吉とその正室の間に生まれた一粒種のはずだった。もうちょっと大事にされててもいいんじゃないだろうか?
こういう場合、廊下や襖の向こうの別間には宿直がいて、護衛や何かがいてもおかしくないはずだ。
(いやいや、夢の中だからな……所詮……)
これが僕の想像力の限界、というところだろう。
(栞に話したら、きっと喜ぶのに……)
そう思ったら、じくりと胸が痛んだ。
栞はこの夢の話を好んだ。
細かいところまで聞きたがり、栞に話すために僕は夢の中の記憶を何度も何度もなぞって細部を思い出した。
そのせいなのか最初からなのか、僕は一度見たものをだいたい忘れない。まるでビデオテープを巻き戻したり、カメラをズームアップしたりするように記憶を思い出すことができた。
これはある種の特技といえる。
大学の試験の時なんかにはだいぶ役に立った特技だ。
立ち上がろうとしたときに、障子に明かりがさした。
(お、誰か来た)
どうせ目が覚めないのなら、この夢の中を満喫しておこうと思った。
それは、もしかしたら逃避だったのかもしれない。でも、この時の僕には必要な逃避だった。
がん、と障子が開く。
(乱暴だなぁ)
年のころは20歳をいくつか越えたくらいだろうか。身体は大きいが顔立ちにはやや幼さが残るからもしかしたらもう少し若いかもしれないと思える青年が入ってくる。
青年は、手にしていた燭で慣れた様子で床の間近くの行灯に火をいれる。
「おい」
腹減った、と言おうとして、青年のものすごい表情に思わず言葉に詰まった。
何というか……最大級の驚きというものを表情にしたらこんな顔になるんじゃないだろうか。
ムンクのあの有名な絵にも似ている。
「弥々さまっ。お弥々さまーーーーーーっ」
腹に響く重低音。三大テノールも真っ青の声量に思わず耳を塞ぐ。
青年はまるで突撃でもするかのように抱きついてきた。
衝撃で一瞬呼吸困難を引きこした。
本人は抱きついているつもりなのかもしれないが、体格差からすると何というか……小さな子供がぬいぐるみのティディベアを抱きしめ潰してているような、そういう図にしかならない。
この場合、僕がティディベアだ。
「……く、くるしい」
むさ苦しいし、暑苦しい。
「お弥々さま、良かった。どこぞ、痛くはないですか?具合はいかがですか?」
青年の顔は、ぐしゃりと歪み泣き顔になる。
必死だった。そして、滑稽なほど真剣だった。
「……腹が減った」
「……そ、そうですよね。一月も寝てたんですから、腹が減りましたよね」
(一月も寝てたって……何だそれ)
「おい、市松、こんな夜中に何を大声あげている。うるさいではないか……」
うるさいことには僕も同意する。だから、こいつを引き剥がして欲しいと思って、僕は様子を見に来たらしい男をジロリと睨みつける。
やってきた青年もまた、僕を見て絶句した。
どこか神経質そうな面差し……痩せぎすの身体はひょろっとしている。
(なんだ……?)
俺は青年を見上げ、凍りついたその姿に首を傾げる。
「……や、弥々丸さま……」
「うん?」
それが己の名であることを僕は知っていた。
正式には、弥勒丸というのだが、あまりにもあんまりな大仰な名前なので、弥々丸とか弥々と呼ばれることが多いのだ。
ぺたん、と青年は座り込んだ。
「弥々丸さま……良かった……」
市松と呼ばれた青年はおいおいと泣き出し、後から来た痩せぎすの青年も目元を押さえる。
その光景を目の当たりにした僕は、ただ呆然とした。
大の男が目の前で泣き出したのだ。
呆然とするしかなかった。