第一章 幸也(3)
葬儀が済んで、僕は大学を辞めた。
何のアテがあったわけではなく、ただもう栞のいない生活を送ることが耐えられなかった。
栞の両親や、同僚達は何度も引きとめたが、もうどうにもならなかった。栞のいない世界で呼吸をしていることすら苦痛だった。
だが、死を選ぶ事はできなかった。
そんなことをしても再び栞に会えるとは思わなかったからだ。
僕はただの抜け殻だった。
ただ、食べて、寝て、息をしているだけの抜け殻にすぎなかった。
栞がいなければ、僕には何もなかった。
朝、目覚める。
家庭菜園に水をやる。
ゆっくりとミルをひき、コーヒーを落とす。
コーヒーは、栞の好きだったキリマンジェロの荒びき。デミカップではないけれど、小さ目のカップに濃い目にいれる。
毎朝二杯分いれて、一杯を栞の写真の前においた。
それから、八枚切りのトーストを1枚食べながら新聞を読んだ。気が向けば、目玉焼きやハムをつけることもあったけれど、だいたいはバターをぬったトーストだけということが多かった。
時々、近所のパン屋にトースト用のパンを買いに行く。朝の7時ちょうどに買いに行くと焼きたてが買える。それは、近所の得意客に対するその店のサービスで、栞がいる時は、週に三回買いに行かされていたが今は一回だった。
新聞を読み終わり、朝食を終えると書斎に行く。
何度目かのボーナスで買ったリラックスチェアに身体を横たえ、僕は本を読み始める。
栞は読書日記をつけていて、それはノート5冊分にもなっていた。僕はそのノートに載っていた本を一冊ずつ読んでいた。……栞の足跡を辿るように。
時々、思い出して、二人で見た映画を見たり、後で見ようといって録画していたNHKのドキュメンタリーを見たりもした。
昼食を取るのはだいたい2時過ぎだった。
買い置きのそうめんかうどんかラーメンを作って食べた。具はあまり入っていないが、それで充分だった。
それからまた本を読んだ。
他にすることは何もなかった。
夕方になると週に一度、スーパーに買い物に行く。同じ道を辿り、同じスーパーへと向かう。買うものは毎回たいして変わり映えがしない。僕の料理のレパートリーはそれほど多くはなかったが、便利な世の中でインターネットでいろいろなレシピが検索できた。
そして、いつもと変わらない河原の道を歩く。春一番が吹いたとはいえ、まだ風は冷たい。
僕は、ただそこにいた。
そうしているだけでギリギリだった。
時がたてばどんな悲しみも癒されるのだというが、そんなことが本当にあるのか疑問だった。
そもそも、自分が悲しみの中にいるという認識が僕にはなかった。
僕はただ失われた空虚感の中でもがいていただけだったからだ。
ふと川面に目をやると白いものが見える。
何か違和感を覚えた。
「……誰か、助けてっ。子供がっ」
若い女の悲鳴にも似た叫びが聞こえる。
(……子供?)
「しおりーっ、しおりーっ」
子供の名を呼ぶ女の声。
女が呼ぶその名前に僕は反射的に反応した。ただ自然に走り出した。
駆けつけた川べり。流れは思っているよりも全然速い。
上着を脱ぎすて、飛び込んだ。
衝撃と冷たさに、一瞬、意識が揺らいだ。
飛び込んだ水は春先とはいえまだ冷たい。水の中ではまだ冬も同然で、しかも手足の動きは鈍い。それでも、僕は絶対に助けるのだと決めていた。
彼女と同じ名前の子供が目の前で失われるのには耐えられなかった。
流れに逆らいながら何とか泳ぎきり白い塊を捕まえる。それから岸へと泳ぎ始めたが、水の中での着衣は手枷足枷に等しかった。
片手でシャツのボタンをはずしながらも、岸を目指す。
頑張れという声援が岸から飛んだ。母親の声に助けに駆けつけた人々らしかった。
何度も水を飲んだ。自分がどれだけ自分を甘やかしていたかを思い知った。
(……明日から、運動しよう)
岸にたどり着き、手を伸ばした男に子供を渡したときにそう思った。
「捕まれ」
もう一本伸ばされた手に手を伸ばす。土木作業員らしい無骨な男は、大丈夫かと僕に笑った。僕は小さくうなづいた。川岸は護岸壁になっていて高さがある。自分ひとりではうまく上れそうになかった。
男の手に捕まり、護岸壁をのぼろうとして手が滑った。
握りなおそうとした無骨な手が、空を切る。
「おいっ」
本当に驚いた一瞬というのは声も出ない。
僕の身体は再び水に飲まれ……僕の意識はもみくちゃになった。
水の中で、ぼんやりとこのまま眠れたら栞に会えるのかもしれないと思った。