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夢のまた夢  作者: 雛/汐邑雛
第一部
3/25

第一章 幸也(2)


「今日はどこかに出かけるの?」

「あとでスーパーに買い物に行くつもり」


 二人暮らしのマンションは、2LDK。川側に立つこの中古マンションは眺めが気に入って決めた。まだローンは残っているが、仕事関係のコネのおかげでかなり格安で購入できた。

 ここは、栞と僕のささやかな城だった。

 生成りとアイボリーを基調にしたインテリア……新婚旅行で行ったバリのホテルを真似している。築18年とやや古いが管理はしっかりしていて、手入れもきちんとされているし、何よりも最寄駅からは徒歩五分というアクセスの良さがとても便利だった。

 徒歩圏内にスーパーが3軒もあって生活環境も悪くない。マンションに戸数分の駐車場はなかったが、都内に住んでいる以上、車はほとんど必要なく、僕ら夫婦はどちらも運転免許を持っていなかった。


「僕も途中まで一緒に行くよ。本が届いたって連絡があったんだ」

「うん」


 大学は以前から興味のあった建築科に進んだ。ゼミで選んだのは、中世の城郭建築。卒論は『安土桃山時代における建築技術の粋-大阪城と聚楽第』だった。その後、大学院に進み、講師を経て、去年、昇進して准教授と呼ばれる身分になった。昇進スピードとしてはわりと早いほうだ。

 現在は、中世日本の城郭と海外の城郭との比較研究をしていて、某大手ディベロッパーの研究所の顧問にも名を連ねている。


 栞は専業主婦で、今はベランダの小さな畑に夢中だ。これは前の持ち主が作っていたもので、ベランダの一部に土をいれて畳二枚分くらいの小さな家庭菜園になっている。今は枝豆とナスときゅうりとトマトの収穫期で、毎日それらの野菜が工夫を凝らして食卓にのぼる。


「そういえば、滝口さんがたまには道場に顔を出して下さいって」

「……そういえば最近行ってないや」

「でしょ。たまには道場で汗流してくるといいよ」


 杉原の家に引き取られてから、義父が道場の師範代だった関係で剣術をはじめた。

 最初は竹刀を使う剣道だったが、中学を卒業した頃から剣術へと変わった。自身を律することのできる剣が、僕は好きだったし、鍛錬の為に今も月に何度かは道場に行くことにしていた。


「……それもいいかも」


 本屋の帰りに顔を出そうかと、考える。


「そしたら、道場にお迎え行くね」

「いいよ。少し遠いし」

「いいの。久しぶりに袴姿の幸也、見たい」

「……そんなの」

「いいの、格好いいんだもん!」


 はっきりきっぱり言い切る栞に僕は俯く。

 人間、こうも真顔で褒められるとどうしていいかわからないものだ。ましてや、相手が妻なのだからもっとどうしていいかわからない。

 そんな、どうしていいかわからない無言の中で、シンプルな月見うどんと一口サイズの豆いなりを盛り合わせた昼食をとった。豆いなりはいろいろな具があって、食欲をそそる。


 僕らは互いに無言でいても全然苦にならないで過ごせる仲だった。互いの呼吸を合わせるようにひっそりと二人で寄り添っていられればそれだけで良かった。

 栞が準備している間に僕が皿洗いを済ませると、僕らは手をつないで出かけた。


「3000円以上買えば、宅配してもらえるから、お買い物終わったら道場に行くね」


 今日はね、トイレットペーパーとか洗剤も買うからそれくらいすぐいっちゃうんだよ、と栞が笑う。


「……見ててもつまらないでしょ」

「そんなことないもん。……幸也が剣道してるの見るの好きだし」

「剣道というより、剣術」

「何が違うの?」

「竹刀は使わないだろ」

「……そういえば、そうだね」

「刃こそついていないけど、あれは本物と同じ重さがあるんだ」


 通常より三寸ほど長い太刀で抜刀したり振るったりは、それだけ力が必要だ。だが、それさえ克服できれば長いというのは必ずしも不利なことではない。

 通常の抜刀術は一撃必殺。抜いた刀をかわされればそれでおしまいのようなものだったが、僕が学んだ流派は一の太刀としての抜刀術があるものの、抜刀後も二の太刀、三の太刀と続く実戦を重視した剣術だった。まあ、この平和な世の中で実戦なんてあるはずもなかったが。


「ふーん。幸也が剣術するのって、夢のせい?」

「どうだろう。まあ、影響はゼロじゃないと思うよ」

「……今の幸也が夢の中にいったら、きっとすごくいい若様になるね」

「それはわからないよ」


 子供の頃しか夢に見たことがなかったし、そもそも現代人が戦国時代にいっても何もできないと思う。実戦を重視した剣術とは言うが、正直、自分に人が斬れるとは思えない。


「あ、じゃあ、買い物したらいくからね」


 スーパーの前で立ち止まる。


「うん。……また後で」

「今日のお夕飯は何がいい?」

「……そうだな。中華、かな」

「わかった。任せて」


 栞の作るものは何でも好きだったけれど、特にすきなのはビーフシチューと餃子だった。

 栞の作る餃子は、羽つきのカリカリで中に肉汁がたっぷりで閉じ込められている。肉ががっつりでとろとろのビーフシチューは、いろんな旨みがいっぱい凝縮されたデミグラスソースが絶品だった。


 スーパーの前で僕らは別れた。

 僕はずっとそこに立って栞が中に入るのを見送った。

 入り口でそれに気付いて、笑顔で手を振る栞に手を振り返す。どこかの子供がそれを真似して手を振っているのを見たら、何だかむしょうにはずかしくなって足早にそこを立ち去った。




 それが、僕が笑っている栞を見た最後だった。




 僕の世界は、突然、真っ暗闇に塗りつぶされた。

 道場に来る途中で、信号無視のトラックとスピード違反の乗用車の事故に巻き込まれた栞は、物言わぬ亡骸となって病院の霊安室に横たわっていた。




 この日、僕は栞……僕のたった一人の家族を、最愛の妻を、……僕の世界のすべてを、失ったのだ。



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