第五章 石田三也(1)
「走れ、走れ。上様の仇討ちぞ」
殿の声が響き渡る。
ほとんど身一つ。夜を継いで駆け抜けるその裏で、輜重を整えるのがどれだけの難事かは経験してみないとわからないことだ。
(小一郎様はさぞご苦労なされているだろう)
これまで、殿は数々の無理を重ね、それを乗り越えてきた。今回もまた、途方もない難題に挑戦しているといっていい。
(何しろ、わしらがおったのは一番遠くじゃからな)
他の諸将に比べ、最も地理的な条件が悪い……で、ありながら逆賊たる明智を討つのだと殿はいう。
しかも、これは本来ならば、ご子息方がやらねばならぬことではなかろうか。
(とはいえ、殿は上様に対して並々ならぬ思いをお持ちであったから……)
西国へと下るための準備をしていた上様は、本能寺でお亡くなりになられたという。
未だ信じきれぬ部分もあるが、複数からの情報によりそれは確かだ。
殿が御信じになったのは、幸四郎様からの手紙が届いたからだという。
幸四郎様からの矢継ぎ早の手紙は、あやふやで曖昧にしかわかっていない情報を裏付けるようなものが多かったらしい。
常日頃から正確な情報と早さというものに拘り、独自の情報網を形成し、自分の御手許金のほとんどをそこに費やしているようなところがある幸四郎様のそれはこの特別な事態に恐ろしい程に役立っている。
(……だが、情報だけで戦っているわけではない)
『鹿屋』とか『ましら』と幸四郎様が呼んでいる者達は、四国に下る途上にあった丹羽様と神戸様の軍勢が一戦も交えぬままちりじりになってしまったことも伝えた。
織田の兵は雇われ兵が多いから、一度臆病風に吹かれるとそんな風にほとんどがいなくなってしまうこともある。
(……わしらの軍はまだ脱落が少ない方じゃ)
不思議なくらい逃げる者はいない。何か、目に見えぬ熱のようなものに突き動かされて、皆が信じられないような速さで行軍している。
ついていけなくなった者は遠慮なく後から来るがよいと殿が言っているにも関わらず、なぜか皆が限界に挑むように駆けているのだ。
(これが、殿のお力か……)
我らが殿に武威というものはない。
華々しい合戦の勝利というものを求めることはないし、圧倒的な力量なども持たぬから、勝利はすれどそれは地味なものになる。
(……だが、人の損耗という意味では最も少ない軍だ)
幸四郎様は、それを誇るが良いと我らに言った。
人が失われる数が少なければ、また参加する者があろう、と。そうして何度も参加していれば、その雇われ足軽は、古参の足軽になり、更に生き延びる確率が高くなる。
羽柴の軍なら生き延びられるという評判ができれば、兵を集めることも容易になるだろう、と。
そのお言葉に、我らはどれだけ感謝したかわからない。
(……だが、今回は、勝たねばならぬ)
元々、明智殿と我が殿は並び立つことができない。と、わしは見ていた。
殿と明智殿はどちらも同じ新参者だ。
我が殿の方が上様に仕えた時期は早いが、どちらも譜代の……代々の家臣ではない。いわば外様にすぎぬ。
そして、明智殿と我が殿は上様に求められている能力が似通っていた────本人同士の気質はまるで違うのでそう思った者はあまりいないかもしれないが、わしはそう思っていた。
(……そして、僅差ではあったけれど、たぶん……上様の中では我が殿は二番手だっただろう)
それは、明智殿の生まれや教養やそういったものが我が殿より優位に働くことがあるだろうと上様が考え、それが上様のお好みに合っていたからだとわしは見ていた。
我が殿が上様の一番の家臣を目指すのなら……、そして明智殿の下に着くことをよしとしないのならば、こうなることは自明の理だったといえる。
(でも……)
上様は幸四郎様を知った。
幸四郎様と上様は驚くほど相性が良く、即座に娘婿にと望まれたほどだった。
これにより、羽柴の家はただの外様ではなくなった。
そればかりではない。幸四郎様は上様の跡取りである信忠様とも親交があったのだ。
明智殿の御子と言えば美貌で知られるご息女たちばかりが有名で、ずっとご子息はいないものと思っていたが、実は十五郎殿というお子がいると聞いたのは最近の事だ。
(十五郎殿は、お身体が弱くて生まれてすぐに亡くなられたと聞いていた……)
それも、永禄十二年のお生まれというから幸四郎様より年が上であるにも関わらず、そんな状態では父親としては随分と心配な事だっただろう。
(明智殿の代では良いかもしれぬが、次代になった時、上に立つのは間違いなく羽柴のお家だ)
あるいは、そんな焦りが今回の所業に繋がったのだろうか? と思わぬでもない。
それを考えると、羽柴の御家にとって、この戦は雌雄を決する決戦であるとも言えた。
ゆえに、速さのみを追い求めて駆けに駆けるだけでは意味がない。
(必要なのは戦に勝てる部隊じゃ)
他の諸将に先駆けて明智と対峙し、わが軍こそが主導権を握ってこれを破らねばならぬ。
疲れ切って辿り着き、かたき討ちの軍にお味方した事実だけを得るだけでは駄目なのだ。
(……武具と、兵糧だけは何とかせにゃ、いかん)
速さを優先した我らは、手弁当一つで走り出した。武具もその他の何もかもを姫路に置いてきているし、その手弁当も既にない。
単純ではあるが、腹が減っては戦はできない。
「佐吉、こりゃあまずいやろ。兵糧も武器弾薬の荷駄もとてもじゃないがついて来てはおらぬ」
思案顔の虎之介───清正が馬を寄せてくる。
こいつがこんなことを言うようになったのは双六のおかげだろう。幸四郎さまの作られたあの戦双六は兵だけでは戦えぬことを皆に教えてくれた。
「小一郎様の隊が回収して最後を来るから失うことはないにせよ、このままじゃ到底間に合わぬぞ」
後ろについた正則までもが真面目な顔で言ってくる。
「佐吉と呼ぶな。三也だ。……なんで、おまえら揃ってわしの元に来るんじゃい」
幼名を三也と改めてもうずいぶんとたつのに、未だに皆が佐吉と呼ぶ。
本当は三成にしようと思っていたのだが、未だ何者にも成っておらぬゆえに『成』ではなく『也』にするが良いと名付けてもらった大切な名だ。
「いや、そういうの一番得意なのはおまえじゃろが。おお、紀兄ぃ、親父殿は何と?」
紀之介も後ろから馬を寄せてきた。
「今夜中に尼崎に入る。兵糧は心配するな。既に長浜からの隊が十里先に陣を張り、我らを待ち受けている……佐吉と清正は先行してお弥々さま……いや、幸四郎さまと合流し、そのご指示を仰げとのことだ」
「幸四郎様がこん戦に?」
「ああ」
危険なと思うたが、だが、すぐにそれも道理と納得する。
(この戦の大義名分ができる……)
幸四郎君は、上様の息女である蓮姫の婿君だ。つまり、上様の義理の息子である。
それも、上様に近しい人間であればあるほど、上様がどれだけ幸四郎様をご鍾愛なされていたか知らぬ者はいない。
我が息子、と常に呼び、『信』の一字をお授けになったほどなのだ。羽柴筑前の仇討ちには参加し難い諸侯も、幸四郎様がそこにいることで参加が容易になるだろう。勿論、幸四郎さまはわしが考えるその程度のことはとっくにご承知に違いない。
「佐吉、行くぜよ」
「おう」
即座に馬を代え、わしらは先行する。馬術の腕はどうしたって清正のほうが上だ。それゆえに、清正はわしの馬に調子を合わせてくれる。
「すまん」
「いや。まだ先は長いからな」
何も言わぬ心遣いをされると、わしも素直に礼を言える。
(わしらも随分かわったもんや……)
顔を合わせればケンカばかりしていたのが嘘のようだった。あれほどケンカしたせいなのか、今となっては戦場にあっては他の誰よりも頼りになる男と思える。
「……佐吉、幸四郎さまは危険やないやろか?」
虎之介が不安げな表情をしている。
長浜の留守居は一千弱。城内の守備に五百は絶対に必要だ。だとすれば、途中雇ったりしていても、最大連れてきていても一千だろうか?
どういう道を辿ったかはしらぬが、よくぞ危険な畿内を抜けてきたものだと思う。
「危険やろ。だからはよ着いて、おまえが護衛につかんと」
「そやな」
清正がおれば護衛は問題ないだろう。
個人の武という点において、こいつを上回る奴はそれほど多くない。
西宮を過ぎたところで、街道の両側を二十間ずつほぼ等間隔に松明と羽柴の旗指物が掲げられている。足元の安全を確認できるのと同時にこの街道一帯を制圧下に置いた証だ。
「おう、さすがお弥々さまじゃ」
松明を片手に暗闇を駆け抜けるよりもずっと安全で早く走れる。何よりも、これだけ明るく照らし出されていると心強く感じる。
たどりついた新田には、本陣として羽柴の紋と織田の木瓜紋の入った天幕が張られていた。
幸四郎さまは、蓮姫さまとのご成婚の際に上さま直々に木瓜紋を下されているから、これはまったくおかしいことではない。むしろ、この木瓜紋がどれだけ重要であるか!
(さすが、幸四郎さま)
「……おう、佐吉と虎か。早かったな」
床机にかけた幸四郎様は真新しい具足姿だ。その凛々しさを見たら、殿は涙を流すに違いない。かくいうわしも目頭が熱くなる。
「お弥々さまーっ」
「はいはい、いつまで幼名で呼んでるんだよ、バカ虎。……佐吉、磯谷から聞いてすぐに武具、弾薬の計算はじめろや。明日になれば、また届くやろが、とりあえず今日中に配っておきたいからな。虎、飯の分配計算くらいできるやろな」
「任せて下され」
「間違えたら、おまえ、殺されると思えよ」
これは双六じゃねえからな、と幸四郎様は言う。
「大丈夫です。佐吉と紀兄ぃにさんざん鍛えられましたから!」
「なら安心だな。言っとくが、おまえの頭を信用したんやないぞ。佐吉の教育を信用したんやからな」
「ひ、ひでえ……」
「あたりまえや。誰が一人前一食五合で計算する奴がおるんや、どあほう」
わしは思いだしてやや暗い心持ちになる。こいつに一人前の標準量というものを飲み込ませるのはなかなか骨だったのだ。
「今日の分の炊き出しはもうはじめさせとる。近所の村から米や味噌を買い上げて握り飯と味噌汁作らせた。それと、俺の護衛は照がいるから、気にせんでええ」
「……誰ですか?」
「池田殿のご子息だ。次男やな。蓮姫の護衛をしてもらっとった」
「なるほど」
よろしくな、と清正は笑う。幸四郎様が連れてきたというだけでわしら長浜の小姓は無条件で信用できると思うているところがある。
「池田入道殿も参陣のご予定です。既に連絡が来ております」
「ほうか。照、良かったな、親兄弟の敵にならんで」
「別に構いません。親兄弟より幸四郎殿を選びましたから」
どこか線の細い印象のある青年は何ともない様子で言った。
「……気に入った」
おまえ、気に入ったぞ、と清正はばんばんと背中を叩く。見た目よりも鍛えているのだろう。清正に叩かれてもまったく平気な顔だ。
「池田照言うんか?」
「照政です」
「おし、照政やな。わしは清正や。加藤清正。よろしくな」
「石田三也と申す」
「よろしく」
池田殿は小さく頭を下げた。やや愛想がないようだったが、生来無口な性質らしい。
誠実そうな人柄だとわしは思った。